昭和の作詞・作曲家列伝

「昭和の作詞・作曲家列伝」~歌謡曲の元祖・作詞家、西條八十。著者・野口義修

さて、今回は、作詞家の西條八十(さいじょう やそ、1892年1月15日 - 1970年8月12日)さんをご紹介します。
西條さんほど、言葉の世界で幅広く活躍した作家はおそらくいないと思います。
詩人、作詞家、仏文学者、大学教授……。
その作品は、童謡から演歌、民謡、歌謡曲、軍歌までジャンルの垣根を越えた活躍です。

西條さんは、東京府(現・東京都)出身で早稲田中学時代から文筆の世界で身を立てたいと感じていたそうで、それは、中学で出会った生涯の恩師、吉江喬松先生(フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授)の影響が大きかったと思います。
西條さんも、早稲田大学に進み、後にフランスのソルボンヌ大学へ留学し、帰国後、早大仏文学科教授になっています。
学生時代、早稲田の天才詩人と謳われた三木露風 (赤とんぼ 十五夜)と活動を共にしたり、同じく、早稲田出身の北原白秋 (ゆりかごのうた からたちの花)、野口雨情 (十五夜お月さん 七つの子 シャボン玉)とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。
当の西條さんは、「かなりあ」「肩たたき」「鞠と殿様」など、今も我々の心に残る童謡を残しています。
「唄をわすれた金糸雀(かなりあ)は後ろの山に棄てましょか?」と問う「かなりあ」には、一つのエピソードがあります。
西條さんは、大正の初めの一時期、株式相場にのめりこみました。なんとしても(平成のお金にして)50億円という大金を稼いで、詩人会館を作るという大きな夢があったのです。そして、49億円までため込みました。詩人にしておくには惜しい才能ですね(笑)。
ところが、大正9年の株暴落で無一文になってしまいます。
当然、その株に夢中だった間は、創作は行っていません。
当然のように、親戚たちは、西條さんの奥さんである春子さんに、離婚を勧めました。
春子さんは、自分がなんとか旦那さんを立ち直らせると言い張り、離婚をせず、添い遂げたそうです。
これを機に、西條は創作に打ち込み始めます。
そこで生まれたのが「かなりあ」でした。
歌を忘れた“かなりあ”は、西條さん自身のことだったのです。そして、♪いえいえそれは かわいそう……の部分は、まさに、妻の春子さんの言葉だったのですね。

西條さんには、もうひとつ想い出がありました。
少年時代のクリスマス、教会で切れた電球の真下にいた“かなりあ”。それが、まるでさえずることを忘れた鳥のように、哀れに思えたそうです。
西條は、「わたしはいつか自分自身がその『唄を忘れたかなりあ』であるような感じがしみじみとしてきた」と自叙伝に著しています。
このように、西條さんは、単なる作り話としての詩ではなく、自分を投影するスクリーンとして詩を書いていると言えます。また、ヒットをとばしている多くの作家が、自分の人生をその作品の中に滲ませているのです。
創作のエピソードを見ていくと、作家の人となりがよく分かる訳です。

さて、奥様の春子さんという名前で、ふと気が付くのは西條さん作詞の「王将」です。
坂田三吉という天才棋士の人生を描いた大ヒットですね。この奥様が、小春さんなのです。
ご存知の通り、「王将」は1961年にリリースされた村田英雄最大のヒット曲です。

実は、村田さんとディレクターの斎藤昇さんや事務所の社長が、西條邸を訪れて作詞の依頼をしたのですが、「男の歌詞は書かない!」と言下に断られました。
ところが、男・村田さんは、連日、西條さんのもとに頭を下げに来たそうです。
ある日、雨の中、村田さんは濡れながら西條先生を待っていると、春子奥様が可哀相と家の中に招き入れてくれたそうです。
そして、奥様の取りなしで西條さんに、もう一度頼みました。これを機に、西條先生と一緒に食事をすることとなり、村田さんの豪快さや人間味に触れた西條さんは、あの名曲「王将」を生みだすこととなったのです。
後日、作品を受け取りに西條邸をたずねると、原稿用紙には最初の一行「吹けば飛ぶような将棋の駒に」だけが書かれていたそうです。
ここで村田さんに語った言葉が西條先生の創作の秘密を教えてくれています。
「 (作詞では)出だしが肝心。この1行が歌の全て。これを作るまでが大変。いい出だしができれば、その後の詩も自然といいものができる」
確かに、西條さんの歌詞を思い出すとき、その一行目が心にスッと蘇ってきますね。

さて、西條さんといえば、舟木一夫さんを忘れることが出来ません。
西條さんの没後、形見分けとして、西條さんが生前に書きためた文章や未完の詩などを、全て舟木さんが受け取ったそうです。
それ程の師弟愛があったのですね。

舟木さんと西條さんの最初のコラボレーションは、先生が70才を越してからのこと。
舟木さんのデビュー曲「高校三年生」は、西條さんのお弟子さん作詞家の丘灯至夫さんでした。
若い舟木一夫こそ、自分の作品を託すのに最高の人材と見抜いたのでしょうか? 西條先生は丘さんに「自分にも舟木の為に歌詞を書かせてくれ」とさりげなく頼んだそうです。

ここでのエピソード!
西條さんは、しばらく前から作品を書いていませんでした。「先生はここ数年作品を書いていないのはなぜですか?」という無邪気な舟木さんの質問に、自分の奥さん(春子さん)が亡くなって、仕事をして金を稼いでも使ってくれる奥さんがいないのじゃぁ仕事をする意味も無くなってしまった……と答えています。

実は、作詞家の星野哲郎先生も奥様が亡くなった後、急に老け込んでしまったのを覚えています。
作家を支えているのは、奥様なんだなぁと思わずにはいられません。

舟木さんとの最初の作品は、「花咲く乙女たち」でした。少女を花にたとえ清らかに歌い上げる世界感は、デビュー当時の舟木さんとドンピシャでした。
西條さんの直感は当たったのです。
実は、西條さんは、吉屋信子などと並んで、少女小説の代表的な書き手でした。苦しみに耐えた少女達が最後には幸せを掴んでいくという少女小説の世界感!
まさに、舟木さんと西條先生の接点であったのでした。
そしてその後、あの名曲「絶唱」が生まれました。

西條さんの幅広さを伺わせるエピソードを最後に一つご紹介しましょう。
昭和九年ごろ早稲田大学で教鞭を執っている時の話です。
先生は、フランスの詩人ランボーの長詩「酔いどれ船」について注釈を述べていたそうでです。
すると、教室外の道路からチンドン屋さんが♪昔恋しい銀座の柳……と先生作詞の「東京行進曲」をにぎやかに演奏しはじめました。
学生たちはいっせいに爆笑。
西條さんは「わたしの歌は流行しているのですね」ととぼけた口調でつぶやきながら、そのまま講義を中止してしまったそうです。
このギャップこそ、西條さんの本質であり、魅力なのでしょうね!

西條八十さん、苦(九)が無いようにと 九を飛ばして付けられた八十という名にとどかず70才台後半で亡くなってしまいました。

もし、その頃に国民栄誉賞があれば確実に先生は手にしていたことでしょう!
なぜなら、先生の代表作と言っていい「青い山脈」は、作曲の服部良一さんも、歌唱の藤山一郎さんも、国民栄誉賞を受賞しているからです。

今一度、先生の音楽に耳を傾けたいですね!

著者・野口義修

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「昭和の作詞・作曲家列伝」裕次郎との運命的な出会い~なかにし礼。著者・野口義修

さて、今回は、日本歌謡曲の黄金時代をその素晴らしい歌詞で支え、小説や舞台、TVのコメンテーターなど多方面で幅広く活躍されているなかにし 礼 (なかにし れい 本名 中西 禮三<なかにし れいぞう> 1938年9月2日 - )さんをご紹介いたします。

なかにしさんは、その人生において、壮絶な光と影を体験してきています。
光……常人ではおよそ見当もつかない「曲(作詞)を出せばヒット、小説を書けば受章」といった華やかなその天才から発せられるまばゆいばかりの光!
影……終戦、満州からの引き上げ、貧困、退学、退学、浮気、離婚、兄の膨大な借金の返済、ガンの闘病からの復活〜と苦しみを背負ってきた人生。光がまばゆければ、まばゆいほどその影は濃くどす黒く見えるのです。

この光と影のセットがなかにしさんを、日本を代表する作詞家、作家に育て上げたことは、間違いないでしょう。
凡人は、チャンスを探し求め、万が一見つけても門前払いされるのが常ですが、天才は、チャンスのほうから手招きをしてくれるといいます。
なかにしさんは、人生をかけた大一番のチャンスの神様からの手招きを経験しています。
25才のなかにしさんの最初の新婚旅行の夜、下田のホテルのロビーにいたなかにしさんを“手招き”する人がいたそうです。
それが、なんとホテルのバーで飲んでいた石原裕次郎さん! 当時28才頃。
数多いる新婚旅行のカップルの中で、一番光っている二人を選んで「新婚カップル賞」をあげようという裕次郎さんお得意のお遊びで、なかにしさんカップルを選んだのでした。
裕次郎さんは『太平洋ひとりぼっち』の撮影で来ていていたのです。
その頃のなかにしさんは、フランス語を猛勉強中で、学生ながらシャンソンの訳詞でそうとう仕事もあったそうです。
それを裕次郎さんに伝えると、
「 (そんな外国の歌の訳なんかやめちゃって)日本の歌を書けよ。書いて俺のところに持ってきたら、俺が売り込んでやるよ」と(軽く)言われました。
まさにチャンスの神様からの手招きです。
そのあとすぐ映画『太平洋ひとりぼっち』が封切り(1963 年)されて、裕次郎さんの「俺も一生懸命つくってるんだから、観てくれよ」の言葉を思い出し、観に行きました。
その映画のワンシーンが、もう一つのチャンスでした。
太平洋での難局を切り抜けた後、ハワイ放送のラジオから、村田英雄の「王将」が流れてくる場面。
裕次郎さん(映画では主人公の堀江謙一役)が、「♪吹けば飛ぶような 小さなヨットに賭けた命を 笑わば笑え」と涙ぐみ、嵐の静まったヨットの中でベッドに横になるシーンでした。
そのときになかにしさんは、相当ジーンときて、「これはちょっと日本の歌を書いてみるのもいいかなあ」と思ったそうです。
ひょっとすると、裕次郎さんもこのシーンと王将という歌に、大きな意味を感じていて……若いなかにしさんに、日本の歌! 歌謡曲の歌詞を書いて欲しい!そして君なら出来る! そう直感したのではないでしょうか?

一年後、自身の作詞作曲で「涙と雨にぬれて」という楽曲を持っていき、石原プロの裕圭子 (ひろけいこ) とロス・インディオスでレコーディングされたのです。作詞家、なかにし礼の誕生です。
裕次郎さんの、仁義に厚く約束を守るところに、なかにしさんはほんとうに感激したそうです。
その後、裕次郎さんから「今度デビューさせる黛ジュン、あの子のことは礼ちゃんに任せるからな。よろしくたのむよ」と連絡があり、実際、彼女に書いた「恋のハレルヤ」は大ヒットしました。

大ヒットした菅原洋一さんの「知りたくないの」では、洋一さんとやり合います。
歌詞の中の「過去」という単語。今では当たり前の歌詞の言葉ですが、当時(1965年頃)、こういった漢字文字でしかも鋭いカ行(破裂音)の連続はメロディーに馴染まないというのが洋一さんの頑固な意見。
「過去」こそ、この歌詞のへそ(キーワード、売り言葉)だ! (洋一さんも)プロならプロらしく歌いこなせ! となかにしさん。
まだ、ヒットもない学生上がりのなかにしさんも一歩も引かなかったらしいです。
でも結果は、大ヒット。洋一さんの代表曲となりました。

また、なかにしさんが作詞・作曲した黒沢年男 (現:黒沢年雄)の大ヒット曲「時には娼婦のように」(1978年)は、同年に映画化となり、自らが企画・脚本・主演・歌唱も行うマルチぶりを発揮しました。まさに、なかにしさんの天才を示す作品ですね。この歌を改めて聴くと、まずはその歌詞のエロティックな響きに耳が行きます。70年代の歌謡界において、タブーとも言える内容をアーティスティックに歌詞として完成させた才能!
そして、そのメロディーに注目です。なにしろ作曲もご本人です。
そのリズム、語るような旋律~やはりシャンソンです! なかにしさんが、愛してやまないフランスのシャンソンの世界感が色濃く漂っているのです。
シャンソンには、日常の恋や人生が、日常の言葉で歌われています。なかにしさんの歌詞の世界も同じです。
やはり、なかにしさんの原点はシャンソンなのでしょう。

さて、ここでなかにしさんが初めて訳詞を手がけた頃を振り返ってみます。
学費が払えず、やむなく大学を2度も中退して、シャンソンの聴けるお店(御茶ノ水駅前のシャンソン喫茶『ジロー』)でボーイとして働き、学費を貯金していた頃です。
あるシャンソン歌手に恋をして、ラブレターを書きました。
その返事には
「あなたの思いを叶えることはできないけれど、あなたの手紙はとても詩的だから、私のシャンソンの訳詩をしてくれないか」
とありました。
そのときの訳詩料は500円。時給23円の時代の学生には、夢の様な金額ですね。
安アパートの家賃1ヶ月分になったそうです。
そして、訳詞で一生懸命資金を貯め、大学に復学しました。
なかにしさんの人生には、そんな出会いがいっぱいあったのですね。

さて、人生の大恩人、裕次郎さんが自分の死を自覚しながら、なかにしさんに歌詞を発注しました。

♪たったひとつの 星をたよりに
はるばる遠くへ 来たもんだ
長かろうと 短かろうと
わが人生に 悔いはない……

加藤登紀子さんが作曲して素晴らしい歌が生まれ、数十万枚という大ヒットもしました。
1987年4月21日にリリースされ、同年7月17日に裕次郎さんは永眠されます。
あの下田のホテルで、素晴らしい出会いのチャンスをゲットしたのは、裕次郎さん自身だったのかもしれませんね。

なかにしさんの作品は、作詞作曲したロス・インディオス「知りすぎたのね」をはじめ、黛ジュン「天使の誘惑」、ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」、ペトロ&カプリシャス「別れの朝」、いしだあゆみ「あなたならどうする」、奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ピーナッツ「恋のフーガ」、弘田三枝子「人形の家」など、4000曲を数えます。
小説では、『兄弟』(実の兄弟を描く)、『長崎ぶらぶら節』(22回直木賞を受賞)、『赤い月』(映画化・テレビドラマ化・ラジオドラマ化で100 万部に迫るロングセラー)、『てるてる坊主の照子さん』(NHK連続テレビ小説『てるてる家族』原作)など大ヒットの連続です。

2012年ガンの闘病から復帰され、まだまだ現役! のなかにし礼さん。
さあ もう一度、なかにし礼さんの手がけた名曲の数々を聞きましょう!


著者・野口義修

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「昭和の作曲家列伝」~歌謡曲の父、服部良一。著者・野口義修

さて、今回は、作曲家の服部良一 (はっとり りょういち、1907年10月1日 - 1993年1月30日)さんをご紹介します。
日本の歌謡曲の父とも言える天才作曲家であり、洋楽(ジャズやタンゴ、ブルースなど)を日本の音楽に取り込んで、新しい音楽(=歌謡曲)の礎を築いた最高の功労者です。

服部さんは、専門の音楽教育を受けた訳ではありません。作曲家の道は天賦の才と独学で切り開いていったのです。服部さんと同期で日本を代表する歌謡曲の作曲家、古賀政男さん(「影を慕いて」)や古関裕而さん(「高原列車は行く」)も独学です。
歌謡曲の歴史は、こうした天才達の努力の賜物と言えそうです。

小学校を卒業後は、夜学で商業を学び、出雲屋少年音楽隊から大阪フィルハーモニック・オーケストラと、どちらかと言えばクラシック畑の演奏者(サックス)としての道を歩みました。
このオーケストラで、人生を変える出会いを経験したのです。
指揮者を務めていた亡命ウクライナ人の音楽家エマヌエル・メッテル先生にその才能を見出され、4年にわたって音楽理論・作曲・指揮の指導を受けたのでした。
オーケストラでクラシックを演奏しつつも、服部さんは、ジャズに魅せられていきました。
その魅力を自分の音楽に取り込みたいという気持ちが高まったのでした。
その後の服部さんのエネルギー源であり、アイデアの源となったのは、アメリカのジャズだったのです。
1936年、29歳でコロムビア・レコードの専属作曲家となりました。ご承知のように、当時はレコード会社の専属になることがプロの作曲家となったことの証です。
さて、服部歌謡の第1号と言っても良い作品が、淡谷のり子さん歌の「おしゃれ娘」でした。
この歌は、イントロからエンディングまで、どこを切り取ってもスイングジャズの香りがする佳作です。正直、淡谷さんのクラシック風味のソプラノが、ジャズの香りと溶け合っている訳ではなく、作曲も歌唱もまだ試行錯誤といった印象です。
でも、サウンドはアメリカの最先端の響きを醸し出していました。
翌年、ジャズ・コーラス「山寺の和尚さん」を作曲しました。あの、♪山寺の和尚さん~~というメロディー、服部さんの手によるものだったのですね。
実は、この2曲のメロディーには、共通点があり(♪ダカヂク ダカヂク ダカヂク ダカヂク エイホホーの部分)、そこからも試行錯誤の時代を感じ取れるのです。

しかし、ここから服部先生の快進撃が始まります。
1938年、淡谷のり子さんに書いた「別れのブルース」「雨のブルース」は大ヒットしました。
ブルースとは、ジャズやロックで耳にする音楽形式のことですが、服部先生は、その形式を意識するにも拘らず、日本式歌謡ブルースを作り上げることに成功しました。
淡谷さんには、低音の歌唱を要求したそうです。
先の「おしゃれ娘」で、クラシック系のソプラノが、自分のメロディーに合わないと考えたのでしょうか?
淡谷さんに、低くしわがれた声質を求め、それを譲らなかったそうです。彼女も、レコーディング前に、タバコを一晩中吸って、喉を痛めつけ、あの歴史に残る名歌唱を残しました。
これで、淡谷さんは和製ブルースの女王と呼ばれるようになったのでした。

そして、「蘇州夜曲」! 服部さんの代表曲の一つです。服部さんは、自分の葬儀のときに、この音楽を流してくれと遺言を残していたそうで、実際に、服部さんは「蘇州夜曲」に送られて旅だったそうです。
このメロディーは、中国メロディーをベースにジャズや日本の旋律を合体させたものです。服部さんは、このメロディーを軍の慰問団として訪れた上海で作ったそうです(1938年)。
服部さんは、こう語っています。
「ぼくは、アメリカのジャズの物真似ではない、日本のジャズ、東洋のジャズを作りたいとずっと考えてきました。それがぼくたち若い者の使命だと信じて仕事をやってきました。
 『蘇州夜曲』は、アメリカのスウィート・ジャズと、中国のイメージと、日本人の感覚とをミックスさせたもので、ぼくのイメージの中には上海の強烈な印象がありました。
ですから、『蘇州夜曲』はあの時の上海の体験から生まれたものであると言ってもいいでしょう。」
当時の上海は、ジャズの本場として、日本のミュージシャンのあこがれの地だったそうです。
しかし、上海のジャズは、アメリカのモノマネや受け売りではなく、中国のメロディーをジャズ風にアレンジした、つまり、ジャズを解釈し理解した上での、新しい中国メロディーだったようです。
それが、若い服部さんを大いに刺激しました。
西洋や他の文化から採り入れた新しい音楽に日本のメロディーを合体させ、新しい音楽を生みだすという服部さんの、音楽的姿勢は、この時から始まったのかも知れませんね。

戦中、多くの作曲家は、軍歌を作る事を強要されました。
しかし、服部さんには軍歌のヒット作品は多くありません。一説に、戦争反対の心から服部さんは、軍歌を作らなかったと言われます。どうも、そうではないようです。基本的に、明るく前向きのメロディーが得意の服部さん、軍歌だけは得意ではなかったようです。

戦後の混乱期、日本国民は明るく前向きな音楽を求めていました。
たとえば、戦後の「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー 作曲:万城目正)の大ヒットも、まさにそういった背景からでした。

戦後の服部さんは、名曲を連発して、日本人の心を勇気づけます。あるいは、感動を届けます。
まずは、笠置シヅコさん歌う「東京ブギウギ」が、終戦の翌々年大ヒットしました。
ブギウギというリズムもまた、服部さんが日本に持ち込んだ、ジャズのリズムです。
戦争中は、敵国音楽としてジャズなどを聴いたら、処罰ものだったでしょう。でも、服部さんは、密かにジャズを聴き、ジャズを自分のものとして解釈した音楽を世に送り出したいと考えていました、

もともとは、ブギウギは黒人のリズム感から生まれた3連符を基本とする強力なビートです。
「東京ブギウギ」では、それを服部流の解釈で、日本人向けにしたのでした。
実は、ブギの3連符のリズムは、阿波踊りのリズムに共通する部分があります。元々、ブギは日本人にドンピシャなリズムだったのです。
その後、ブギは大変なブームを巻き起こしました。
「ジャングルブギ」「買い物ブギ」「三味線ブギ」……なんでもかんでもブギが付けば売れました。
「三味線ブギ」は、大人数の三味線が、♪ジャンガ・ジャンガ・ジャンガ・ジャンガ……と、ブギのリズムを刻みます。そこに人気歌手で芸者の市丸さんが、粋な歌唱を載せるのです。
まさに、他の追従を許さぬ服部ワールド全開と言って良いでしょう。

また、平成の世になっても、後世に残したい歌で、必ず上位にランキングされる「青い山脈」もまた、服部作品です(1949年)。

さて、多くのミュージシャンにカバーされている「買物ブギ」(作詞:村雨まさを)ですが、実は、作詞家の村雨まさおさんは、服部さんご本です。日本初のラップ作品と言ってもいい歌ですね。
とにかく、言葉の連射砲、単語の雨あられですが、作曲家自ら言葉を書いているので、リズムのキレが良いのは、納得できますね。
ちなみに、決め台詞の♪わてほんまによういわんわ……は、歌の笠置シヅコさんの、本音から出た言葉だそうです。
こんなに多くの単語の羅列の歌詞、歌えないわ……という意味で、彼女の口からふっと出た「♪わてほんまによういわんわ」という言葉を、即、歌詞に取り込んだそうです。
この遊びの感覚、笑いの感性は、服部さんが大阪の出身と言うことも大きく関係していると思います。

服部さんの家族は、素晴らしい音楽家一家です。
長男の服部克久さんは作編曲家、孫の隆之さんも作編曲家です。
お二人とも、フランスの大学に留学し、作編曲を学んでいます。
服部さんご自身は、独学でしたね。でも、人生最大の恩師、エマヌエル・メッテルさんから学んだ経験を思い出し、子どもや孫には、学ぶことの大切さを感じて欲しいと願ったのかも知れません。

日本の歌謡曲~ポップス界を切り開いてきた服部良一さん、最期は、国民栄誉賞を受賞されました。
今一度、先生の音楽を味わいたいですね。

著者・野口義修

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Jポップの革命児、井上大輔。「昭和の作詞・作曲家列伝」著者・野口義修

さて今回は、Jポップの革命児、井上大輔(いのうえ だいすけ、1941年9月13日 - 2000年5月30日)さんをご紹介いたします。
井上さんは、東京都出身のミュージシャン、作編曲家です。本名の井上忠夫として、GS(グループサウンズ)の王者、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのボーカル&フルート/サックス奏者としての印象の方が強い方も多いのではないでしょうか?

井上さんは、日大芸術学部出身です。同大学の後輩には、ザ・ゴールデン・カップスのデイブ平尾さんがいます。
また、『機動戦士ガンダム』などで知られる巨匠の富野由悠季監督は、井上さんの大学の同級生。この事実は、井上さんのキャリアに大きな意味を持っています(後述)。
大学では、映画学科演出コースから音楽学科作曲部門に移って勉強したそうです。
冨野さんとの出会いも必然であったわけですね。
日大時代には、学生バンドを作ってジャズ喫茶などでモダン・ジャズを演奏していたそうで、その時(1963年)、ジャッキー吉川にスカウトされブルー・コメッツ(ブルコメ)に参加しました。
井上さんは、このバンドで数々の伝説的なヒット曲を書きました。GSというと若手作家が楽曲提供をして、それを演奏するというイメージが強いのですが、井上さんに限っては、大卒でインテリしかも理論にも通じている本格派であるという点で、一線を画している存在でした。
ブルコメのレコードデビューは、1966年3月。GSブームの2年ほど前です、彼らのサウンドを理解する人も少なかったため、日本コロムビアの海外レーベルから英語の歌詞「青い瞳」でデビューしたのです。
このシングルは、今聞いてもカッコ良く井上さんの、そしてブルコメの実力が十分発揮されています。
実際、井上さんは、本質的に洋楽系のロックやインテリジェンスあふれる曲をやりたかったのでした。

デビューの年に、いきなり大きな仕事が舞い込みます。ビートルズ武道館公演に前座として参加したのでした。
まだ若かった井上さんに、ビートルズの演奏は計り知れない影響を与えたはずです。
井上さんは、その後、GS自体の運命を変えるほどの作曲をします。
それが、「ブルー・シャトウ」(作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫、編曲:森岡賢一郎)です。
同曲は、1967年3月15日に発売され、レコード売上150万枚というブルコメ最大のヒット曲となりました。そして、第9回日本レコード大賞を受賞したのです。
長髪で何となく不良っぽいという印象だったGSが、この曲のヒットによって、音楽的にも社会的にも認知された形になりました。
それは、井上さんのインテリな部分が下支えをしていたと言えるでしょう。
しかし、彼はこの1曲で後に大きく後悔をするのです。
この曲は、橋本淳さんに歌詞を見せられて、ほんの3分で出来たメロディーでした。
井上さんの中の日本的な部分がスッと表現された楽曲だったのですが、それは当時の井上さんの思い描いていた音楽感やGSの進むべき方向性とは、真逆の音楽だったというわけです。
正直、レコード大賞を取った時点で「ここで終わった」と感じたそうです。また、「もうブルコメはやめよう」とも真剣に考えました。
井上さんが、ミュージシャンとして本当に追求したかったのは、下半身で感じるポップスでした。
自分が作った「ブルー・シャトウ」で、図らずもGS全体の方向性を歌謡曲の方にシフトさせてしまったわけですから、井上さんの葛藤は計り知れないですね。
しかも、♪森とんかつ~~泉にんじん~~かこんにゃく~~まれ天ぷら……と、尻取りソングのように子供達に広がったのですから、その替え歌は、おそらく井上さんの心をチクチクと刺したでしょう。
翌年、ブルコメは「ブルー・シャトウ」の邦楽バージョンをひっさげて、アメリカの人気音楽番組、(ビートルズもそれに出演しブレイクしたという)エドサリバンショーに出演します。
イントロでメンバーのキーボード奏者、高橋さんの琴をフィーチャーし、まるで邦楽のように歌い出します。
その後、英語訳で歌い、最後は日本語オリジナルバージョンで締めくくります。
素晴らしい演奏でした! やはり、心の底では井上さんの叫びが聞えてきそうです。

GS時代に、井上さんに大きな影響を与えたのは、当時の日本の歌謡界を支えていた作曲家やアレンジャー達でした。
宮川泰、東海林修、筒美京平……といった素晴らしい才能達に、自分自身負けていると感じていたそうです。
ですから、ブルコメ解散後は、迷わず、作家の道に進んだのです。

その後の井上さんの活躍には目を見張るものがありました。
フィンガー5「学園天国」「恋のダイヤル6700」、シャネルズ(のちのラッツ&スター)「ランナウェイ」「街角トワイライト」「め組のひと」、郷ひろみ「2億4千万の瞳~エキゾチック・ジャパン」、沢田研二「きめてやる今夜」「どん底」、葛城ユキ「ボヘミアン」 、シブガキ隊「NAINAI16」「処女的衝撃」「100%…そうかもね」「ZIGZAGセブンティーン」「挑発∞」、鈴木聖美「TAXI」 、ヴィーナス「キッスは目にして」(編曲)……etc. まさに、大ヒットメーカーですね。

たとえば、シャネルズ(ラッツ&スター)。
ラジカセ『ランナウェイ』のCMソングを歌わせるアーティストを探していた井上さんは、黒塗りの面白いバンドがいると聞きつけ、早速会いに行きました。
彼らは、アメリカの1950年代のロカビリー・サウンドが得意なバンドでしたが、井上さんに言わせると、自分がGS時代に出来なかったことを形にしているバンドでした。
GSが、歌謡曲に曲がってしまわなければ、シャネルズのような形もGSに生まれていたはずだと感じたのです。
だから、彼らには自分の音楽的なノウハウや演奏法、歌い方など徹底的に指導したそうです。
音楽には、実験的な部分が必要であるというのが井上さんの考えです。
だから、割と自由に出来るCMソングという制作現場で、彼は様々な実験を行ったのでした。
「ランナウェイ」も、最初はCMだけのはずが、狙いが当りシャネルズ(ラッツ&スター)のデビュー曲としてミリオンを記録しました。

裏方として作曲やプロデュースの世界で頑張れば頑張るほど、自分がフロントで歌いたいという想いも強かったのでした。
しかし、なかなか自分でのヒットは難しかったのですが、大学の同級生との出会いで、その願いが叶いました。
機動戦士ガンダムの映画の主題歌「哀・戦士」です。
実は、ガンダムのアニメ映画を作ることになった富野由悠季監督は、「CMをやっているような人が、受けてくれたら、アニメの楽曲、やっぱりちょっと変わってくんじゃないのかな。であの、ダメ元でとにかく、やってくれっていうのを僕のほうからお願いした」のだそうです。
ある意味、その後のアニメ音楽の大きな流れを作ったといっても過言で無い意味のあるコラボでした。
また、監督は……井上さんについて
「なまじ名前が出てしまった後って、本当に大変だ! 作曲家として割り切ってしまえば、食っていけるけれど、井上さんはやはり歌いたいんだ!だから、このガンダムの仕事をベースメントにしようとなりふり構わずやってくれた!」
といった内容のことを語っています。

井上さんは、常に革命児として、世間や業界、仲間、ファンなどに、戦いを挑みながらやってこられたと思います。
1975年頃から、洋子夫人が体調を崩し入退院を繰り返すといった闘病生活が続いていました。介護や看病は井上さんが、20年以上にわたって、自身で行っていたそうです。そんな中、ご自分も重度の網膜剥離となってしまいました。

そして、2000年、自らあの世へ旅立たれました。享年58歳、遺書には「洋子 ごめん もう 治らない」と書かれていたそうです。
翌年、洋子さんも大輔さんを追うように自ら命を絶ってしまいました。
お二人のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

Jポップの革命児、井上大輔さんの作品の数々をもう一度聴いてみませんか?

著者・野口義修

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和製ポップスの黎明期をけん引した作曲家、宮川泰。著者は音楽家、野口義修。

さて、今回は、作編曲家の宮川泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日-2006年3月21日)さんをご紹介します。
作編曲家!よく耳にすることばですが、作曲家と編曲家は、それぞれどのような役割になっているのでしょうか?

作曲家は、基本的に歌部分のメロディーのみを考えます。
編曲家は、メロディー以外のすべてを担当します。
イントロや間奏、エンディングなどの仕掛けもそうですし、伴奏に加わるすべての楽器をどう使い、どのように演奏するかを考えるのです。基本的には、楽譜を書いて指示しますから、音楽理論や楽譜の知識(楽典)などを深く理解していないと、とても務まらない大変かつ重要なお仕事です。

作曲家には著作権が認められていて、作った曲が売れれば印税が入ってきます。が、売れなかった曲の印税は、まさに雀の涙と言えます。
編曲家には(特別な例を除いて)著作権が認められていません。編曲は1曲いくらのお仕事です。
どんなに担当した曲が売れても売れなくても、編曲家の手取りは変わりません。

宮川さんは、作曲も編曲も両方ともこなすことの出来る、非常に才能の豊かな作編曲家だったのです。
彼は、日本のポップス<和製ポップス>の黎明期を、ライバルである、いずみたくさんや中村八大さんとともに支え、引っ張ってきました。
その黎明期は、テレビが本放送を始め(昭和28年)、様々な実験番組やトライアルが行われていた時期と重なります。
昭和の30年代、若き日の宮川さんは、テレビを中心に腕を磨き、頭角を現していったのです。
そう、天才テレビディレクターで作曲家の、すぎやまこういちさんが演出した伝説的音楽番組「ザ・ヒットパレード」が、宮川さんの修行の場でした。
毎週、洋楽のヒット曲の日本語カバーを紹介する生番組です。宮川さんは、同じ曲を毎週違う編曲にするなど好き放題に編曲を行い、仕事=勉強の精神で腕を上げていきました。編曲家、宮川泰の基礎固めの道場だったといえます。

この番組では、はじめて作曲家へのチャレンジも行いました。ザ・ヒットパレードで人気が出始めた双子姉妹のザ・ピーナッツ用の曲を作曲したのです。
実は、宮川さんが名古屋のクラブで歌っている彼女らを見出し、東京でデビューできるように段取りを付けたのです。まさに、ザ・ピーナッツの育ての親だったのです。

彼は、最初、結構作曲を舐めてかかり、アメリカのヒット曲(ポールアンカの「ダイアナ」)のコード進行をちょちょいと真似て、やはり、アメリカンポップスやロカビリーにありがちな「ウォウウォウウォウ~」的なフレーズを応用して、気軽に作ったそうです。それが、1962年に発表された、岩谷時子作詞、宮川泰作曲の「ふりむかないで」です。
ところが、結構なヒットに繋がりました。作曲家、宮川泰の誕生です!

味をしめた宮川さんは、次の曲「恋のバカンス」も同じ手法で作りました。
やはり当時の大ヒット曲、ポール・アンカの「ユー・アー・マイ・デスティニー」の伴奏パターンを真似てメロディーを作ったのです。
すると、ピーナッツが所属する事務所の社長、当時の音楽業界のドン、渡辺プロダクションの渡辺晋さんから。
「メロディーは良いけれど、真似になっちゃうから、その伴奏はやめて、4ビートジャズの感じでやったら」とアドバイスを受けたそうです。
ジャズの人気バンド「渡辺晋とシックス・ジョーズ」でピアニスト兼編曲家としても演奏していた宮川さんにとっては、実は一番得意な分野です。
さすが、ナベプロ王国とまで呼ばれたプロダクションを率いた人物のディレクションは、素晴らしかったのでした。そうこうして、作曲家としての宮川さんも育っていきました。

作曲家と編曲家の両方が宮川さんの中でバランスよく絡み合い、大ヒットが生まれたエピソードがあります。
これまた、ザ・ピーナッツの代表曲のひとつ「恋のフーガ」です。
作曲は前出のすぎやまこういちさんでした。宮川さんは、編曲のみの担当。ティンパニーで始まるイントロが素晴らしい編曲にすぎやまさんが感動して、
「この作品の曲は自分だけど、前奏・間奏・エンディングは宮チャンが作曲してくれたんだから、印税をあげたい(すぎやまさん談)」と、作曲印税を宮川さんにも分配したそうです。
前述した通り、本来なら編曲には印税がありません。でも、これで宮川さんにも多額の印税が入ったのでした!
やはり、作編曲家としても卓越した実力を持つ、すぎやまさんならではの暖かい配慮でした。

作曲も編曲もばっちり、ピアノもうまく、TVに出ればダジャレの連発で面白いこと大好きな宮川さん。
この逸材の才能を、ナベプロの大物タレント、クレージーキャッツのリーダー・ハナ肇さんが見逃すわけはありません。なんとクレージーに参加しないかと誘いをかけたそうです。なんでもクレージーのピアニスト、石橋エータローさんが病気がちなのでその替わりという話です。
もし、宮川さんがクレージーキャッツにメンバーとして参加していたら……日本アニメ史上最高の名曲「宇宙戦艦ヤマト」は、生まれなかったかも!?ですね。
ちなみに、クレージー入りのお話は、宮川さんの奥様が即断で「あんな下品なバンドはダメ!」とNOを出して流れたそうです。奥様の直感は正しかった!?

さて、宮川さんの代表作「宇宙戦艦ヤマト」ですが、単にささきいさおさんの歌う主題歌の作曲だけでなく、サウンドトラック全編の作編曲を手がけているのです。
それだけに、ご自分でも「宮川音楽の全てが入っている」とおっしゃるほど作品に入れ込んでいました。
映像とサウンドとの絡みをとても重視して音楽を制作されました。

たとえば、主題歌「宇宙戦艦ヤマト」ですが、さらば地球よ……で始まるAメロは、ヤマトに改造する前の戦艦大和が海底に沈んでいたイメージで、キー(音域)を低く作曲しました。
そして、宇宙の彼方イスカンダルへ……のBメロは、乗組員が隊列を組んで行進しながらヤマトへ乗り込むイメージで、軍歌調にしたそうです。
サビから終わりにかけては、ヤマトが地上から宇宙へ飛び立つイメージから、次第にキー(音域)を高くしたそうです。
映像とサウンドのコラボレーション!
それだけに創作の苦労は並大抵ではなかったようです。作曲にも編曲にも飛び抜けた才能を持った宮川さんだからの苦しみであり、だからこその傑作であったと言えますね。

その宮川さんが「あいつはスゴイよ!」と認めた作編曲家がいます。息子の宮川彬良(アキラ)さんです。彬良(アキラ)さんが、作編曲の仕事(特にミュージカル関係)で素晴らしい音を生みだすようになった頃、父である宮川さんは、「(実力はついた……)「後は、ヒット曲を出すだけだな!」と言ったそうです。
この世界、並に上手いだけではダメだ! 自分を代表するようなヒット曲を出してこそ、はじめて一人前になれる!という厳しくも愛情溢れるアドバイスをしたそうです。
それは、宮川さんご自身の人生を振り返ってのアドバイスでもあったのでしょう。
その後、彬良さんの作曲した「マツケンサンバⅡ」が、ご存知の通り国民的な大ヒットを記録し、その時は、まだ存命だった宮川さんも、心から嬉しかったでしょうね。
そして、本当のライバルとして息子さんを認めたことでしょう。

昭和世代の人間なら、テレビ番組やヒット曲、映画音楽などで、宮川節ともいうべき素敵な作曲や編曲作品を数え切れないほど耳にしているはずです。
ウナ・セラ・ディ東京(ザ・ピーナッツ)、銀色の道(ダーク・ダックス)、逢いたくて逢いたくて(園まり)、涙のかわくまで(西田佐知子)、青空のゆくえ(伊東ゆかり)、シビレ節(植木等)、君をのせて(沢田研二)、巨泉×前武ゲバゲバ90分!のテーマ、ズームイン!!朝!テーマ曲(1979年-2001年)、ズームイン!!SUPERテーマ曲(2001年-2011年)……。
あのゲバゲバのオープニングの粋なこと、楽しいこと! あのズームインの清々しさと元気感!本当に懐かしい曲ばかりです。

さて、2011年の印税ランキング(日本音楽著作権協会<ジャスラック>発表)ベスト10に、宮川さんの作品が2曲も入っているです。印税ランキングというのは、CDやカラオケ、放送、着うた等ダウンロード販売、CMでのオンエア……で、いかに沢山の人に聴かれたかの順位です。7位に「若いってすばらしい」、10位に「ゲバゲバ90分!のテーマ」がランキングされています。 
最近のCMで起用されているとはいえ凄いことだと思います。
宮川さんの楽曲を是非もう一度お聴きください!あの時代がきっと蘇って来ることでしょう。そして、その素晴らしさを再認識出来ると思います。

著者・野口義修

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歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる~作曲家・いずみたく。昭和の青春ポップス「昭和の作詞・作曲家列伝」から。著者は音楽家、野口義修氏

今回ご紹介するのは、作曲家のいずみたくさん(1930年1月20日-1992年5月11日)です。
日本の歌謡界、ポピュラー音楽の世界において、いずみさんほど多様な側面を見せる作曲家を僕は知りません。幅が広いという表現では収まらないほどの多面性をもった作家でした。

「いずみたく」という名前をみて最初に思い浮かぶのは……年齢によって違うかも知れませんし、名前は知らないけれど、曲なら知っているのかもしれませんね……坂本九「見上げてごらん夜の星を」、布施明「貴様と俺」(日本テレビの学園ドラマ『青春とはなんだ』挿入歌)、佐良直美「世界は二人のために」、中村雅俊「ふれあい」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、TVアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」、「手のひらを太陽に」、「伊東温泉ハトヤホテル」(CM)、「徹子の部屋」(テレビ朝日系)のテーマ曲……昭和世代なら誰でも知っている名曲ばかりですね。
CMソングから、歌謡曲、ミュージカル、番組テーマ、冗談音楽まで、多岐に渡る作曲活動!!
そして、(今なら必ずこう呼ばれるでしょう)音楽プロデューサー的な活動(後述します)。それでいて元参議院議員(第二院クラブ)。まさに、他の作家の追随を許さない万華鏡の活躍をされていました。
いずみさんは、感性が1番瑞々しく、鋭い十代の頃、太平洋戦争を経験し、15才で終戦を迎えました。戦争がなにであるか、平和とはなにかそれを体と心で感じたと思います。
その後、鎌倉アカデミア演劇科で学び、1950年(20才)で舞台芸術学院演劇学科を卒業しました。
いずみさんが、後年、ミュージカルに目覚めていくのは、こうした下地があったからでしょう。

卒業後、作曲に目覚め、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志(作曲家、芥川龍之介の息子)に作曲の基礎を学んだそうです。いずみさんの根底には、クラシックを学んだという基礎があるのですね。実は、彼の親戚に(現在も大活躍中の)指揮者、飯森範親さんがいて、「子供の頃、クラシックのことは、親戚のいずみたくに教えてもらった」と述懐しています。
いずみさんの転機は公募でした!!
1955年(25才)に、「朝日放送ホームソングコンクール」でグランプリを受賞したのです。公募は、人の人生を変えるほどのパワーを持つことがあります。
そこで審査員をしていた三木鶏郎さん……当時、飛ぶ鳥を落す勢いがあった作曲家……が、いずみさんの才能を買って、電報で自分の仕事を手伝ってほしいと呼び出したそうです。
三木鶏郎さんといえば、戦後の日本を音楽で明るくした天才です。日本で初めてCMソングを作り、CMソングの帝王の座にいた作家で、冗談音楽を極めた粋な才人です。その彼からのお誘い。まさに、人生の転機でした。
いずみさんは、鶏郎さんの運転手をしながら、CMソングを作り始めました。鶏郎さんの回りには、素晴らしい才能を持った若者がいっぱい集まっていました。永六輔、野坂昭如、神津善行、ジョージ川口、小野満、楠トシエ、中村メイコ、なべおさみ、左とん平など、そうそうたる人材!
いずみたくさんも、そうした中でもまれ、刺激をうけ、才能が開花していったのでしょう。
CMソングとしては、前述の「伊東に行くならハトヤ」のハトヤホテルのほか、「明治マーブルチョコレート」、 「チョコレートは明治」(明治製菓(現・明治))などが、有名ですね。

さて、いずみさんには、プロデューサーとしての資質もありました。若い才能を見付けだし、その人に最高の楽曲を作って、世に送り出す!
たとえば、十代の今陽子を「ピンキーとキラーズ」としてデビューさせ、大スターに育て上げたのはいずみさんの力でした。デビュー曲の「恋の季節」は、200万枚を超す大ヒットとなりました。
ピンキーとキラーズ(愛称:ピンキラ)のデビューとほぼ同時期に、イギリスでピンキラと同じ編成のバンドが大ヒットを放ちました。「マンチェスターとリバプール」の「ピンキーとフェラス」です。
いずみさんが、鶏郎師匠から学んだ冗談のセンスで、「よし、ピンキーとフェラスならぬピンキーとキラーズでいっちゃえ」なんてノリで決まったのかも知れません。
また、明治製菓「アルファチョコレート」のCM曲「世界は二人のために」でデビューした佐良直美もまた、いずみさんのプロデュースといえます。1969年の『第11回日本レコード大賞』で大賞を受賞した佐良直美「いいじゃないの幸せならば」も彼の作曲でした。いしだあゆみ、由紀さおりや青い三角定規らも彼のプロデュースでデビューあるいはヒットを飛ばした歌手です。

実は、いずみさんが活躍し始めた50年代から60年代の音楽業界は、作詞家・作曲家はレコード会社専属というのが普通でした。ですから、基本的には、仕事は会社から与えられた歌手への楽曲提供がメインだったわけです。
ところが、クレージーキャッツの楽曲を書いていた「萩原哲晶」(はぎわらひろあき)、「上を向いて歩こう」などの「中村八大」(なかむらはちだい)、「長い髪の少女」(ザ・ゴールデンカップス)などの「鈴木邦彦(すずきくにひこ)」らと共に、いずみさんはどこのレコード会社にも属さない、実力勝負のフリーの作曲家でした。
だからこそ、自由にプロデューサー感覚で若手を育て、世に送り出すことが出来たのでした。逆に言えば、良いもの、売れるものを作らないと、レコードを出すことも出来ないわけです。
だから、メロディーにはこだわりを持ち、歌手や歌詞の力に頼らないという考えを持っていました。「曲が何よりも大切だ」という自負を自著で熱く語っています。
結果、いずみさんの作った作品は、オリジナル歌手を離れて、さまざまな歌手が歌い、人々の心の中に浸透していく事が実に多いのです。
ドリフターズの「いい湯だな」(元歌はデューク・エイセス)、子供の歌として定着している「手のひらを太陽に」(元歌は宮城まり子)、和製フォークの定番曲「希望」(元歌は岸洋子)……なども誰もが知っているいずみたく作曲のスタンダードですね。
いずみさんは、「歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる」という確信を持っていたそうです。いずみさんの原点が、この言葉にあるようです。
誰もが歌えるメロディーを皆が歌ってスタンダードになっていく。つまり、歌で人々の思いを共有していく。その為の音楽作りには、気取った理論や作家の独りよがりな態度は邪魔になります。あくまでも、歌う人ありきの姿勢です。
いずみさんの原点には、戦後の昭和のうたごえ運動、あるいは歌声喫茶のムーブメントがあります。
まさに、歌で思いを共有するというコンセプトですね。

最後に、うたごえ運動で中心的な活躍をしていた「関西合唱団25周年コンサート」に寄せたいずみさんの祝いの言葉を紹介します。
『ボクはいつまでも、いつまでも、良い日本の歌を作曲し続けます。皆サン方は、いつまでも、いつまでも、歌い続け、歌い拡げて下さい。この二つの地道な努力が、日本の平和を守り、日本を素晴らしい国にする道に通じていることを信じています。コンサートおめでとう。成功を祈ってます。【いずみ・たく(作曲家)】』

皆さん、今の日本を思い考えながら、ぜひ、いずみたく作品を味わってみてください。

著者・野口義修

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「昭和の作詞・作曲家列伝」(野口義修・著)。生きた言葉を足で捜し続けた作詞家、星野哲郎。

さて、第2回目は、2010年11月15日、ご逝去された作詞家の星野哲郎先生をご紹介します。

「三百六十五歩のマーチ」「函館の女」「アンコ椿は恋の花」などの大ヒット曲で知られる先生の作詞家デビューは、公募からでした。
昭和27年、雑誌「平凡」の歌詞投稿で「チャイナの波止場」が受賞したこと、昭和32年、横浜開港100周年の歌募集で「浜っ子マドロス」「みなと踊り」が1、2位受賞したことなどで才能を見出されました。

後者の審査を務めていたのは作曲家の船村徹先生。通常、公募やコンテストで、1位2位を同じ人が受賞することは、めったにないことです。
審査員の中に、多くの人にチャンスを!といった感情が働くことが多いからです。しかし、船村先生は、本当に素晴らしい作品が2作品あるなら、両方ともに賞を与えなければならない!と決断したそうです。そして、「この人は天才かと思ったし、俺の勘は狂ってなかったことは自分でもうれしかった」と述懐されています。
星野先生の作品は、なぜに多くの日本人の心に残っているのでしょうか? その答えは、先生の創作における姿勢から見つけることができそうです。
「作品には情景が見えなければならない!」。
星野作品を聴けば、作品というドラマの映像や情景が自然に浮かんでくるのです。歌は3分のドラマという形容は、星野先生の為にあるような言葉ですね。

そして、「最初の2行で勝負する!」。
先生の作品のどの歌でも構いません。出だしを思い出してください。
「幸せは歩いてこない だから歩いていくんだね」、「京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの」、「はるばるきたぜ函館へさかまく波をのりこえて」……。どれも次を聴きたくなる、渾身の2行ですね。しかも、たった2行から、情景も見えてきそうです。

また、先生は詞について「生きた言葉は、頭で考えたって出てくるわけはない。私は足で詞を書くことにしていますと語っています。
夜の新宿を歩き、ホステスや飲み屋のおかみさんとの会話からひらめいた言葉を、コースターや割り箸の袋などに書きためたそうです。これぞ、生きた言葉ですね。

野口は、パーティーなどで先生とお目にかかり、お話をさせていただいたことが何度もあります。
上機嫌の先生は、「いまの若い作詞家は、仕事がない仕事がないと嘆きすぎだ。公募があるじゃないか! 公募でチャンスを掴めばいいんだ!」 野口の心に突き刺さりました。

若いころ大病を患い、4年間も病床にあって、大好きな海の仕事、船員の仕事を辞めなくてはならなかった悔しさ、つらさ、切なさ……を体験した先生。
そこから今度は、作詞家としての新たなる人生の船出を決心した先生の新たなスタートを祝福してくれた「公募」に対する、先生の限りない愛情を感じるのです。

本サイトは、公募情報のパイオニア公募ガイド社の運営です。姉妹サイトの「公募懸賞ガイドでは、長きにわたって、星野先生の作詞講座を連載していました(すでに終了)。
その講座の文面から登竜門としての公募を認め、担当する歌手の人間性を愛し、全力で作詞し……その先に、自分の歌を聴いてくれる大好きな大好きな人間、演歌を愛する日本人がいて……きっと、そんな思いで約60年の作家生活を送られたのでしょう。

先生の命日となった11月15日は、やはり人間を、日本人を、そして海を愛してやまなかった坂本龍馬の命日でもあります。それを思うと感無量であります。大きな大きな財産を失ってしまったのです。
星野哲郎先生のご冥福をお祈りいたします。

著者・野口義修

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当サイトのコーナー「昭和の作詞・作曲家列伝」(野口義修・著)から、2012年1月にご紹介した岩谷時子です。岩谷さんは、今月25日に逝去されました。ここに、慎んでご冥福をお祈り致します。

さて、今回は、作詞家の岩谷時子(いわたに ときこ、1916年3月28日生まれ)さんをご紹介します。
岩谷さんは、今年(2012年)の誕生日で96才を迎えるご高齢にもかかわらず、いまだに現役の作詞家という世界でも例を見ない活躍をされています。
岩谷さんは、京城(現在のソウル特別市)に生まれ、5歳の頃に西宮市に移住したそうです。
若い頃から、アートの才能が花開いていたようで、女学校5年生の秋、兵庫県中等学校絵画展で知事賞を受賞したり、「宝塚グラフ」「歌劇」などの雑誌に短い詩を投稿し、発表されたりしていました。
その流れで、宝塚歌劇団出版部に就職。後に、月刊誌「歌劇」の編集長を務めたそうです。
ここで、運命的な出会いがありました。
偶然編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪と出会ったのです。二人は意気投合し、岩谷さんは越路さんの相談相手になったそうです。
後年、とびきりの大スターとなる越路吹雪の才能を、いち早く見抜く! 岩谷さんには、そんなプロデューサー的な感覚があったのでした。
それから先は、公私共に岩谷さんは、越路さんのマネージャーとなりました。
自分の信じた才能をとことん支えていく!
1951年から1963年までは、二人とも東宝文芸部に所属し、仕事として正式なマネージャー業務に尽きましたが、それ以外でも、私設のマネージャーとして越路が死去するまでの約30年間、強い信頼関係で支え続けました。
なんと、マネジメント料としての報酬は1円も受け取らなかったそうです。
二人の関係は、岩谷さんのインタビューによれば……
「彼女から報酬をもらったことはありません。だから、越路さんは、わたしのことを欲のない世話好きのお姉さんと思っていたんじゃないかしら。わたしにしてみれば、彼女は世話のやける妹でしたけどね」(笑い)
恋多き越路さんが男性を振るとき、男性に引導を渡しに行くのは、岩谷さんの役割だったようです。
でも、お互いの私生活まで全て共有している仲だったからこそ、岩谷さんは、越路さんに最高の歌詞を提供できたのかも知れません。
越路さんの歌った曲の歌詞の大半は、岩谷さんの作詞であり、訳詞でした。
越路さんの代表曲!
「愛の讃歌」、「サン・トワ・マミー」、「ラストダンスは私に」……全て、岩谷さんによる訳詞です。

岩谷さんの訳詞で、常に語られるのが、その“意訳”の部分です。
たとえば、エディット・ピアフが歌ったシャンソンの名曲「愛の讃歌」は、元の歌詞は「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容です。しかし、岩谷さんの訳詞では一途な愛を貫くという前向きな讃歌なのです。
シャンソン好きの方やシャンソンの関係者は、このことを快く思わない方もいらっしゃるようです。
しかし、岩谷さんは、越路さんの持ち歌として、彼女が何をどう歌えば最善か? そういった大きな見地、コンセプトで、訳詞を進めたのだと思うのです。
それは、もはや訳詞ではなく、エディット・ピアフが歌ったシャンソンのメロディーを借りた、オリジナル歌詞の創作だったのです。
岩谷さんという作詞家は、そういった感覚を持ち合わせているのです。
岩谷さんの感性を、他のアーティストが必要としない訳はありません。
編集長として雑誌をまとめ上げる才能を持ち、プロデューサー感覚を持ち合わせた作詞家!
そのような逸材は、当時の日本の歌謡界には、多くはなかったはずです。
ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」、加山雄三「君といつまでも」「旅人よ」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、園まり「逢いたくて逢いたくて」、岸洋子「夜明けのうた」、布施明「これが青春だ」、佐良直美「いいじゃないの幸せならば」、郷ひろみ「男の子女の子」「花とみつばち」、アニメ主題歌「サインはV」……岩谷さんの作詞したヒット曲のタイトルを書きながら、枚挙にいとまがないという言葉が浮かんできました。それ程、我々の心に残る言葉を紡いで来たのですね。

岩谷さんは、ミュージカルにも素晴らしい作品を残されています。
ミュージカルとしての初作品は、1960年、大阪労音ミュージカル「泥の中のルビー」で、作曲家いずみたく先生と組んで、2曲の歌詞を担当しました。
また、劇団四季などで……
「王様と私」「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「ミュージカル赤毛のアン」(ミュージカル)……他、多くの歌詞を手がけています。
聖書を題材に、イエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」(劇団四季)では、岩谷さんは聖書を1から勉強し、訳詞に向ったそうです。
岩谷さんの編集者感覚、プロデューサー感覚は、ミュージカルの訳詞においても光っていました。
素晴らしいミュージカルにおける訳詞での活躍に対し、第5回菊田一夫演劇賞・特別賞を受章されています。宝塚歌劇団からそのキャリアをスタートされた岩谷さんですから、ミュージカルでの活躍は当然かも知れませんね。

賞といえば、岩谷さんは数々の賞を受賞されています。
1964年、岸洋子さんの「夜明けのうた」で女性作詞家として初となる日本レコード大賞作詞賞を受賞されました。作詞=男性というイメージの強かった音楽業界のイメージを変えたのが岩谷さんだったのです。この時、岩谷さんは、48才!
中年とも言える年代からの大活躍。
1969年、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」で、第11回日本レコード大賞を受賞。
同年、佐良直美のアルバム「十二人の女」で芸術祭文部大臣賞奨励賞を受賞。
1986年、第2回東京都文化賞。1993年、春の叙勲 勲4等瑞宝章 受章。2009年、93歳で文化功労者として顕彰……。
輝かしい歴史を刻んできています。

ここで、一つ象徴的な賞をご紹介します。
それは、2006年第1回「渡邊晋賞」において岩谷さんが特別賞を受賞されたことです。
ご存知の方も多いと思いますが、渡邊晋さんは渡辺プロダクション初代社長で、現在のテレビ・バラエティー文化を創り上げた功労者とも言えるエンタテインメント・プロデューサーです。
「渡邊晋賞」は、氏の功績を後世に残すため、その足跡を継ぐ若い世代のプロデューサーを顕彰すべく設けられた新しい賞です。
そこで作詞家の岩谷時子さんが、特別賞を受賞されたことは、まさに、彼女の作詞家としての業績を支えてきたのは、彼女のプロデュース能力であった、との証明でもあります。
作詞という仕事を通じての岩谷さんのプロデューサー的な仕事ぶりが評価されたのです。

最後に、2009年、岩谷さん93歳の時、一般財団法人「岩谷時子音楽文化振興財団」が設立されました。そして、翌年から「岩谷時子賞」を設けました。
音楽・演劇界の明日を担う人材や、その向上・発展に功労のあった人物・団体に授与する賞です。
このことからも、岩谷さんがその人生を掛けて、プロデューサー感覚で作詞をし、人を育ててきたことが分かりますね。

現在も、帝国ホテルの一室を借り切り、創作に励んでいらっしゃるという岩谷時子さんの新作! ぜひ、聞かせて頂きたいと感じています。

著者・野口義修

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「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「恋をするなら」…。都会派歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広いジャンルで国民の支持を得た作曲家、吉田正。著・野口義修

さて、今回は、作曲家の吉田正さんをご紹介します。
吉田正さん(1921年1月20日-1998年6月10日)は、茨城県日立市出身の日本を代表する作曲家です。没後に、作曲家としては3人目となる国民栄誉賞を受賞しています。
世に大きな影響を与えるアーティストや作家の登場には、ドラマが付きものです。
戦時中、まだアマチュアであった吉田さんが、ソ連シベリア地区に抑留されていた時期に20曲ほどを作曲したそうです。おそらく、その歌たちは戦友、捕虜仲間の胸を熱くし、心を慰めたことでしょう。
その仲間の一人が、終戦後、日本に復員し、NHKの素人のど自慢番組で吉田さんの曲を歌い話題となりました。それが、代表作「異国の丘」だったのです。もし、この戦友がいなかったら、吉田さんのデビューも無かったかもしれませんね。まさに、ドラマです。
吉田さんのプロ・デビューは、昭和24年4月、日本ビクターに専属作曲家として入社した時と考えられます。今と違い、当時は作曲家や作詞家は、才能を認められレコード会社と専属契約を結んで、自社の歌手のために曲を書いたのです。今は、フリーランスの作家が多いのですが、作家が育っていくという観点で見れば、当時のシステムが羨ましいです。
昭和24年と言えば、終戦4年目です。英米の流行ものや世界の新しい価値観が怒濤の勢いで日本に入ってきた時代でした。当然、音楽もです。
吉田さんはその中で、洋と和、伝統と革新……のちょうど中間や接点に、自分の表現を模索していたように思います。
その象徴的なキーワードが、都会調歌謡曲です。

吉田さんの作品である、鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」、三浦光一に「東京の人」、フランク永井に「東京午前三時」、「有楽町で逢いましょう」など、都会(東京)をテーマにした小粋なメロディーの楽曲を、当時の言い方で、都会調歌謡曲と言ったのです。東京こそ、洋と和の接点の街でした。
日本中のまだ戦後の傷跡に喘いでいた人々が、東京という言葉や歌詞の内容に、お洒落なものを感じて、ちょっとだけ洋風な気分になることができた……そんな歌が、吉田さんの都会調歌謡なのです。

そして、先生のメロディーには、新しさがあるけれど、新しすぎない良さもあるのです。
時代は、ロカビリーブームを迎えようとしていました。洋楽をカバーし、そのまま表現するアーティストも沢山登場しました。
しかし、吉田さんの作品は、チョット違いました。歌謡曲という言葉の持つ日本的メロディーの哀愁感は残しつつ、洋楽の"微かな"香りを感じさせる作曲手法。まさに、伝統と革新のど真ん中の感性だったのです。リズム歌謡と呼ばれて一世を風靡した、橋幸夫「恋をするなら」や「恋のメキシカン・ロック」にも、背景に日本的な音楽テイストが感じられます。
演歌「潮来笠」でデビューした橋幸夫に、ラテンタッチのリズム歌謡を歌わせたのも、吉田さんならではの和と洋の中間の発想ですね。

また、吉田さんお得意の甘く切ないメロディーが素敵な、青春歌謡というジャンルも人気を博しました。
「美しい十代」の三田明、レコード大賞を受賞した橋幸夫、吉永小百合の「いつでも夢を」などがそれにあたります。考えてみたら、青春も、子どもと大人の接点、中間の時期ですね。やはり、吉田さんの守備範囲と言えます。
これら全てが、まさに、吉田正の魅力です。

先生のもう一つの顔は、音楽の指導者としてのカリスマの顔です。
吉田さんの門下生には、鶴田浩二、フランク永井、橋幸夫、吉永小百合、三田明、松尾和子……と超大物が顔を連ねます。当然、彼らのヒット曲の多くは、吉田さんの手によるものでした。
鶴田浩二の「私は吉田さんに会ったとき体の中にかっと燃えるものを感じた」という言葉や、橋幸夫の「僕は先生から唄の勉強だけではなく人間としての教訓を数え切れないほど、学ばせていただくことができました」……が示すように、吉田さんは、単なる作曲家と歌手ではなく、人間としての熱い魂で彼らに接していました。
今は、コンペという形で楽曲をあつめ、作曲家も作詞家も歌手と会うこともなく、CD制作が進んでいくことが多いのです。吉田さんの時代の音楽には、人と人の心が根底にしっかりと根付いていたからこそ、何十年の歳月を経ても人々の心の中で行き続けていくのですね。

僕の思い出の吉田メロディーに、吉永小百合とトニーズの「勇気あるもの」があります。
あのサビの歌詞が、子どもの僕にどうしても聴き取れなかったのです。
♪りはそ、らへそ、らへ~~の部分です。
「りはそ?? らえそ??」答えは、簡単でした。
♪ヒマワリは、そらへ そらへ 太陽へ……のメロディーの切れ目が少し不自然だったのです。
今なら、吉田さんの実験的なメロディー作りの意味が分かります。
普通に言葉にメロディーを乗せていくのでなく、あえて言葉の「韻」を大事に作曲したのです。
さすが、吉田正さん!!

著者・野口義修

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昭和の作詞・作曲家列伝。ハワイアンのバンドリーダーから作曲家に転身したハマクラこと浜口庫之助。

さて、今回は、作曲家の浜口庫之助さんをご紹介します。
浜口庫之助さん(1917年7月22日-1990年12月2日)は、兵庫県神戸市出身で、日本歌謡史において、専業作家でありながら作詞も作曲もこなすという特異な存在として大ヒットを飛ばしまくっていました。
現在は、アーティストといって詞もメロディーもこなす自作自演のシンガーソングライターは当たり前です。しかし、昭和30年代までの歌謡界では、作詞家も作曲家も基本的にはレコード会社の専属契約で、それぞれ分業が当たり前でした。共に、プロを名乗れるのは、よほどの才能であったという訳です。

浜口庫之助さんは、そのダンディーで親しみやすい雰囲気からハマクラさんと呼ばれていました。ボクも、敬意を表しながらハマクラさんと呼ばせて頂きます。
ハマクラさんは、裕福な家庭で何不自由なく生まれ育って、幼少の頃から楽器や音楽に親しみ、5才ですでに楽譜も読めたそうです。
親は、当然、末は東大!!と期待を寄せていたに違いありませんが、実際は、音楽の方にのめり込み、早稲田大学に入学するも、中退して音楽の道に進みます。当時は、ジャズのムーブメントが日本にも押し寄せてきた時代です。ハマクラさんもジャズ、ラテン、ハワイアン……という洋楽の道をまっしぐらだったようです。
戦後、1953年から3年間、ハマクラさんは自身のハワイアンバンド「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として紅白歌合戦に出場しているのですから、ミュージシャン・ハマクラとしても、この時点で大成功を収めていたわけです。

しかし、転機が訪れます。
1957年、ハマクラさんは、新宿コマ劇場で西インド諸島の舞踊団の公演を観ました。その舞踊団の長老が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを聞き、ガーンと来たのでした。
彼がプロとしてやってきたのは、ジャズでありハワイアンであり……全ては海外の音楽の受け売りでした。
当時、ハマクラさんのバンドでアメリカ公演の話もあったそうですが、その際にアメリカの聴衆に向って「みなさんの真似をしに来ました」って言うのだろうか?と自問自答し、ハマクラさんは、これまでの演奏の仕事を全てキャンセル、バンドも解散し、貧乏生活を覚悟し、日本のオリジナルの歌を作る為に作曲家・作詞家の道を歩みはじめたのです。
ハマクラさん、40才の頃でした。家族(子ども二人に奥さん)をアパートに住まわせ、自分は倉庫番をしている友人の所に転がり込み、良い歌を作りたい!日本の歌を作りたい一心で作詞・作曲を追求したのです。
出来上がったのが、「黄色いさくらんぼ」(歌:スリーキャッツ)。ハマクラさんの作曲家としてのデビュー作になりました(作詞は星野哲郎さん)。
モダンで、可愛らしく、どこか異国情緒がある名曲です。その後も、ゴールデン・ハーフなど多くのシンガーにカバーされました。
この異国情緒というキーワードこそ、ハマクラ歌謡を読み解く鍵かも知れません。
日本の歌を作りたいと決心したハマクラさんが、異国情緒です!!
日本人の心の奥底にある、異国に対する“そこはかとないあこがれの気持ち”をメロディーに置き換えたのかも知れません。新しいものやタイムリーな話題、つまり一般人の心をワクワクさせたり、共感できたりするテーマを敏感に捉えるのもハマクラさんの得意技でした。

次に、ハマクラさん作詞作曲で発表した「僕は泣いちっち」(歌:守屋浩)は、まさに時代を切り取った名曲でした。
彼女が、東京へ行ってしまって寂しい! だからボクも東京へ行きたい!って内容の歌でしたが、実は、この曲がヒットした1959年は、地方から集団就職で若者達がドンドン東京へやってくる時代(1958~59年を舞台にした映画『ALWAYS三丁目の夕日』にも、青森から集団就職で上京した、ろくちゃんが登場していましたね)だったのです。まさに、「僕は泣いちっち」は、そういった時代背景があっての大ヒットでした。
それから、時代はフォークソングであると感じると、フォークシンガーのマイク真木に「バラが咲いた」を歌わせました(1966年)。
この頃は、アメリカからやってきた学生フォークのムーブメントが盛り上がっていたのです。
バラが咲いて・散ってという歌詞の流れに、アメリカン・フォークの代表曲である「花はどこへ行った」「七つの水仙」などのエッセンスをさりげなく盛込む感性は、まさにハマクラさんならではの、時代の感覚を切り取ったものでした。

そして、その後、世の中はGS(グループサウンズ)のブームになるのですが、やはり、ハマクラさんは、GSのトップ・バンドであるスパイダーズに「夕陽が泣いている」「風が泣いている」という大ヒット作品を書いています。時代を先駆けるハマクラさんが、スパイダーズに提供したのは、実に異国情緒たっぷりのメロディーを持ったナンバ―でした。
時代を見極める力と異国情緒!の感性でハマクラさんは、ヒットを飛ばしまくりました。

涙くんさよなら(歌:ジョニー・ティロットソン、坂本九)、愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)、星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)、夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎)(1967年)、空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)、人生いろいろ(歌:島倉千代子)(1987年)……名曲ばかりです。
僕が大好きなのは、作曲を担当した「恋の山手線」(小林旭)、「愛のさざなみ」(島倉千代子)。詞曲担当の「みんな夢の中」。メロディーの粋(いき)を知り尽くした音楽家でした。

1990年12月2日、ハマクラさんは、喉頭ガンの為に逝去(73歳没)されました。晩年、叙勲の話があったそうですが、「ヒット曲が大衆からの賞だ」と固辞しました。死後に見つかったノートには「芸術家は肩書をもったときに死ぬ」とあったそうです。

最後になりますが、1988年、亡くなる2年前に、NHK「おかあさんといっしょ」今月の歌(9月)で遺作に近い作品と思われますが「はしれ はしれ」を発表されています。子供心を忘れないハマクラさんの傑作! 実に軽快で楽しい童謡でした。
実は、その翌月、10月の歌が、ボクがつくった「そーっと・そっと」だったのです。敬愛して止まなかったハマクラさんと並んで、自分の作品が世に発表されたのは、自分にとっても、大きな大きな勲章となりました!!当サイトで、ぜひ ハマクラ・メロディーを存分にお楽しみください。

著者・野口義修

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