昭和のメディアと流行り歌

四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(下)~著・鈴木清美 (2012年6月の記事より)

 「東京スカイツリーの開業まで、いよいよ2カ月を切りました」という書き出しの前文で今回のシリーズの最初の原稿を書いてから2カ月以上が経ち、東京スカイツリーも先週、本当にグランドオープンしてしまいました。先日の皆既日食の報道を見ていたら、「ロッテ歌のアルバム」がスタートした昭和33年にも日本で皆既日食が観測されたそうで、色々な偶然の一致に驚いています。シリーズ最後の原稿となる今回は、青春歌謡を支えた銀幕スターにも言及しつつ、その原点も探ってみたいと思います。

 前回は、橋幸夫さん・舟木一夫さん・西郷輝彦さんの御三家に三田明さんを加えた“青春ビッグ4(フォー)”が、「圧倒的なパワーで流行り歌を若者の娯楽に組み立て直し」(『玉置宏の昔の話で、ございます』[小学館])、青春歌謡のムーブメントを牽引して、ロッテ歌のアルバムを「支えてくれた大きな原動力」(玉置宏さん)となったことを書きました。
 4人が初めて「ロッテ歌のアルバム」で顔を揃えたのは1966(昭和41年)1月30日に放送された第400回記念番組の時だったことも紹介した通りですが、実は、玉置さんは、著書で次のようなエピソードも披露しています。
 「以後、御三家、又は青春ビッグ4で集まるのは『ロッテ…』だけにしようという了解が、私の知らないうちに4人の中で取れていたようで、それから100回記念ごとに集まってくれて、その度に番組も大いに盛り上がったのです」
 株式会社ロッテが1998(平成10)年に発行した『ロッテ50年のあゆみ』の年表によると、美空ひばりさん・江利チエミさん・雪村いずみさんの初代“三人娘”が初顔合わせをしたのは1962(昭和37年)の正月特別番組、三波春夫さんと村田英雄さんがテレビ初共演したのは300回記念の時だったそうですから、改めて、昭和30年代の歌謡曲界におけるテレビの歌番組として「ロッテ歌のアルバム」が如何に大きな影響力を持っていたかを思い知らされます。
 しかし、その「ロッテ歌のアルバム」をしても、なかなか出演してもらえなかったのが、まだ、娯楽の王者としての地位を占めていた映画に出演している銀幕スターの皆さんでした。
 玉置さんは、2003(平成15)年にレコード会社8社による横断企画として発売されたCD「ロッテ歌のアルバム」のナレーションで、次のように、当時を振り返っています。
 「当時、映画主題歌からヒットが沢山生まれました。特に、日活の水ノ江滝子プロデューサーは『俳優さんすべてが歌える映画スターでなくてはいけない』、こんなお考えをお持ちでした。ですから、(石原)裕次郎さんをはじめ、とにかく、俳優さんのほとんどが歌のオリジナルを発表しております」
 「ところが、映画の撮影が忙しく、なかなか、番組に登場してもらうことはできませんでした。しかし、日活スターが登場するという時の代々木山野ホールは長蛇の列で、入場整理券の奪い合いがあったのも懐かしい思い出でございます」

 青春歌謡のヒット曲の多くも、そのままのタイトルで映画化され、歌手の皆さんも銀幕スターとともにスクリーンに登場した時代でもあったわけですが、今回のテーマである青春歌謡ということでは、吉永小百合さんについて言及しないわけにはいきません。
 玉置さんは、銀幕スターの皆さんに「なかなか、番組に登場してもらうことができませんでした」と語っていますが、以前、作詞家の佐伯孝夫さんを特集したテレビ番組に出演した橋幸夫さんは、第4回日本レコード大賞を受賞することになる「いつでも夢を」のレコーディングでも、多忙を極めていた小百合さんが築地にあったビクターのスタジオに来ることができず、「オーケストラとの同時録音が一般的だった当時、初めて、ダビングでの音入れを経験しました」と述懐されています。橋さんによると、オーケストラの伴奏録音には、先に小百合さんの声が入っており、それに合わせて、橋さんがスタジオで歌ったのでした。お二人が初めて「いつでも夢を」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)を実際にデュエットされたのは、1962年(昭和37年)12月27日に日比谷公会堂で開かれた第4回日本レコード大賞受賞発表音楽会の時だったといいますから、本当に驚いてしまいます。
 小百合さんのデビュー曲「寒い朝」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)が発売されたのは1962年(昭和37年)4月のことですから、デビューした年に「いつでも夢を」で日本レコード大賞を受賞してしまったわけで、橋さんとのデュエットソングだったとはいえ、新人がいきなり大賞を受賞したというのは、長い日本レコード大賞の歴史の中でも、恐らく、空前絶後のこととなっているはずです。
 小百合さんは、「いつでも夢を」以外にも「若い東京の屋根の下」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「そこは青い空だった」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)などを橋さんと歌っているほか、三田さんとも「若い二人の心斎橋」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)、「明日は咲こう花咲こう」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)などのデュエットソングを発表して、何れも大ヒットしました。そもそも、デビュー曲の「寒い朝」も和田弘とマヒナスターズとの共演だったわけですし、グループサウンズ(GS)ブームの初期で、まだ、GSではなくフォークロック・グループなどと呼ばれていた1966年(昭和41年)10月には「勇気あるもの」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)でトニーズとも一緒にレコーディングをしています。
 青春ビッグ4のうち、橋さん・三田さんというビクターのお二人とデュエットソングを発表していること、「いつでも夢を」でレコード大賞も受賞していること、そして、何よりも、デビュー曲「寒い朝」から始まる一連のヒット曲が全て佐伯・吉田コンビによる青春歌謡の王道を行くような作品だったことを踏まえると、吉永小百合さんもまた、青春ビッグ4と並んで、青春歌謡を牽引した一人であったことは間違いありません。

 青春ビッグ4と小百合さん以外にも、青春歌謡を代表する歌手として記憶に残る皆さんを列挙すると、「湖愁」の松島アキラさん、「霧の中の少女」の久保浩さん、「若いふたり」の北原謙二さん、「青春の城下町」の梶光夫さん、「十七歳は一度だけ」の高田美和さん、「花はおそかった」の美樹克彦さんなどの名前が浮かんできます。
島倉千代子さんも「涙の谷間に太陽を」と、守屋浩さんとのデュエットによる「星空に両手を」という青春歌謡の佳作2曲をヒットさせました。個人的には、梶さんと高田さんのお二人によるデュエットソング「わが愛を星に祈りて」が、青春歌謡における珠玉の名曲として、僕の記憶の中に燦然と光り輝いています。
 それから、松竹の青春スターだった倍賞千恵子さんの「下町の太陽」も、やはり、青春歌謡に連なる名曲として歌謡史に刻まれていることも書き添えなければなりません。
 橋さんがデビューした昭和30年代半ばの状況について、玉置さんは著書で「この時期、10代の歌謡スターを作ろうというのは、歌謡界全体の使命でした」と振り返っています。
 そして、橋さんの成功により、各レコード会社もハイティーン歌手の育成に本腰を入れ始めるわけですが、玉置さんの著書によると、ビクターのライバルだったコロムビアは「あちらがハシをゆくなら、こちらは真ん中を渡ろうじゃないか」と、1961年(昭和36年)に中尾渉(なかおわたる)という歌手をデビューさせたという冗談みたいな話もあったそうです。
 その2年後の1963年(昭和38年)に舟木一夫さんが「高校三年生」でデビューし、ライバルのビクターも橋さんと同じ吉田門下の三田さんを「美しい十代」でデビューさせ、御三家の一角を占めることになる西郷さんも合わせて、青春ビッグ4を軸とする青春歌謡の一大ムーブメントへと発展していきました。
 「青春歌謡の原点はどこか」という命題は、僕だけでなく昭和歌謡のファンなら一度は思いを巡らしたことのあるテーマでしょうが、個人的には、3回連続で書かせていただいたコラムの執筆を通じて、一人の歌手や作詞家・作曲家、あるいは、特定の時期に絞り込めるような話ではないような気がしてきています。
 橋さんがデビューした1960年(昭和35年)から西郷さんが登場する1964年(昭和39年)までの5年間、つまり、60年安保の喧騒から東京オリンピックの興奮にいたる戦後日本の「青春」とも言える高度成長期に、青春ビッグ4や吉永小百合さんに代表される歌手の皆さんを熱烈に支持した当時の若者たちが体現していた“時代の空気”こそ、「青春歌謡の原点」だったのではないかと思うのですが、皆さんは、どのようにお考えになるでしょうか。

著者・鈴木清美

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四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(中)~著・鈴木清美 (2012年5月の記事より)

 1週間の御無沙汰…ではなく、1カ月の御無沙汰でした。前回は「ロッテ歌のアルバム」の番組スタート当初の事情から橋幸夫さんのデビューまでを紹介させていただきましたが、今回は、橋さんに続いて、舟木一夫さん、西郷輝彦さんが登場し、後に「御三家」と呼ばれる三人に三田明さんを加えた“青春歌謡四天王”について振り返らせていただこうと思います。

 前回の連載でも言及した通り、橋幸夫さんが「ロッテ歌のアルバム」に登場したのは、1960年(昭和35年)6月26日に放送された第108回のフランク永井ショーでの新人紹介でした。
 その時の様子を、玉置宏さんは自著『玉置宏の昔の話で、ございます』で、次のように振り返っています。
 「会場の回りには朝早くから、女子高生など若い女性を中心に大勢の客が並び、いったい何事が始まるのかというような人だかりで埋め尽くされていたのです」
 実は、この女子高生たちは、ビクターが用意した黄色い声援を張り上げるための動員だったそうで、フランクさんは会場に到着して「これは俺の客じゃない」と、まず眉をひそめます。リハーサルがスタートすると、会場の外が突然キャーキャーと騒がしくなり、フランクさんも音合わせのオーケストラを止めて外を確認したところ、到着した橋さんをファンが囲んで騒いでいるところでした。
 これも、ビクターが仕込んだ演出だったのですが、呼ばれていたマスコミ各誌も一斉にフラッシュを浴びせるなど大騒ぎとなっていて、事情を知らされていなかったフランクさんは激怒し、「俺は帰る」と言い出す始末となります。前年の1959年(昭和34年)にスタートした第1回日本レコード大賞で「夜霧に消えたチャコ」で歌唱賞を受賞し、翌年には「君恋し」で第3回日本レコード大賞まで受賞するフランクさんですから、当時、人気も実力も絶頂期で、プライドも人一倍高かったわけです。
 慌てたディレクターと一緒になって玉置さんも何とか引き止め、「フランクさんの歌になったら静かに聞くことを客に約束させる、という条件でフランクさんに納得してもらった」そうですが、「もし騒ぐようなことがあったら、本番中でも帰る」とフランクさんの剣幕は収まらず、橋さんのテレビ初出演は「ピリピリとした緊張感に包まれた」ものとなりました。
 玉置さんによると、中CMの前に登場した橋さんは、着流しスタイルではなく「目の覚めるようなスカイブルーのブレザー姿」で、学校を早退して会場に学生服でやってきた時とは別人のような眩しさに、動員された女の子たちも「すっかり虜になってしまい、その場でファンクラブに入会する子も大勢いました」というような展開となったそうです。
 それ以降はトレードマークの着流し姿となってしまったため、玉置さんも「そのブレザー姿はまだビデオもない時代の一度だけの幻のスタイルとして、いまだに私の目に初々しく焼きついています」と書き残すことになりました。

 橋さんは、「潮来笠」で一気にスターダムへと駆け上り、その後も、「南海の美少年」「江梨子」など次々とヒットを飛ばし、デビューから2年後の1967年(昭和37年)には吉永小百合さんとのデュエットによる「いつでも夢を」で第4回日本レコード大賞を受賞するなど、まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気となります。
 こうした橋さんの活躍に触発される形で、レコード各社も新しいマーケットとして定着した十代の若者向けスター歌手の発掘を急ぐことになっていきます。
 ビクターのライバル会社である日本コロムビアでは、当時の流行だったドドンパのリズムを取り入れて遠藤実さんが作曲した北原謙二さんの「若いふたり」(1962年[昭和37年]8月発売)が大ヒットしました。
 玉置さんは、この「若いふたり」で「コロムビアの青春路線がスタートしたのです」と振り返っていますが、「若いふたり」を書き下ろした遠藤さんの秘蔵っ子として登場することになるのが舟木一夫さんだったのです。
 橋さんは、吉永小百合さんや三田明さんなどと共に、ビクターの専属作曲家・吉田正さんの門下生として知られていますが、実は、デビュー前には、コロムビアの専属作曲家だった遠藤さんの歌謡教室に通っていました。橋さんの実力を認めた遠藤さんは、自信を持ってコロムビアのオーディションを受けさせますが、用意した曲は後に村田英雄さんがレコーディングした「蟹工船」で、橋さんも村田さん風にこの曲を歌ってしまったため、「村田英雄は二人要らない」と判断したコロムビアが、橋さんの採用を見送ります。
 責任を感じた遠藤さんが奔走し、何とかオーディションを受ける段取りをつけたビクターで、橋さんは見事に合格したのでした。
 もちろん、ビクターとしては、橋さんをコロムビアの専属作家である遠藤さんの元に預けておくわけにはいかないため、吉田正さんに預けられることになったわけです。
 当時の事情を知る玉置さんは、自著の中で、次のように振り返っています。
 「この一件は、遠藤さんにとって自分の非力が非常に悔しくもあり、心残りだったらしく」「舟木一夫くんがコロムビアからデビューする時は、真っ先に手を挙げて、舟木くんを育てることに燃えるのです」
 その遠藤さんが、橋さんで果たせなかった思いを込めて書き下ろした青春讃歌のメロディーが「高校三年生」(1963年[昭和38年]6月発売)でした。作詞は、遠藤さんが早くからその青春歌謡詞の世界に注目していたという丘灯至夫さんです。
 コロムビアの専属作詞家だった丘さんは毎日新聞の記者でもあり、担当していた『毎日グラフ』の学園祭特集の取材で、世田谷・松陰高校定時制の男子生徒と女子生徒がフォークダンスを踊っているのを見て、ショックを受けたそうです。大正生まれの丘さんには、男女の生徒が手をつなぐなど考えられないことで、その鮮烈な感動が「フォークダンスの手を取れば」というモチーフを生み、「赤い夕陽が校舎を染めて・・・」で始まる歌詞の誕生につながったのでした。

 「高校三年生」はレコードセールスが累計で100万枚を突破するミリオンセラーとなり、「修学旅行」(1963[昭和38年]8月発売)、「学園広場」(1963年[昭和38年]10月発売)と連続ヒットを飛ばした舟木さんは学園ソング路線を確立、年末には第5回日本レコード大賞の新人賞を受賞し、その人気を不動のものとします。
 これを見たビクターが対抗策として起用したのが、橋さんと同じ吉田門下の三田明さんで、デビュー曲「美しい十代」(1963年[昭和38年]10月発売)は、「高校三年生」と並ぶ学園ソングの代表的作品に位置づけられるものとなりました。それまで学校で歌うことはタブーだったはずの歌謡曲ですが、この一連の学園ソングは修学旅行のバスの中でも大合唱されるという現象を生み、「流行り歌が中学生に解放された」(玉置さん)のでした。
 一方、1963年(昭和38年)に発足したばかりの新生レコード会社だったクラウンからも、社運をかけた新人発掘の努力の結果、1964年(昭和39年)2月に西郷輝彦さんが「君だけを」でデビューを果たします。
 後年「青春歌謡」と総称されることになる当時の十代歌手による一群の楽曲では定番だった女性コーラスのイントロで始まる「君だけを」ですが、プレスリーに憧れて歌手を目指し、バンドボーイとしての下積み経験もある西郷さんですから、同じ青春歌謡ではあっても、エイトビートを体得したグルーヴ感は、他の楽曲とは一線を画すものでした。
 玉置さんも、歌謡曲の世界における西郷さんの存在感について、次のように解説しています。
 「西郷さんは若者向けの歌謡曲をもっとポップス寄りに展開してみせました。デビュー当時は『言葉がはっきりしない』と歌い方を非難する向きもございました。しかし、日本語をポップスのリズムとメロディーに乗せるための新しい試みであったことを知らされました」
 橋さんと舟木さん、西郷さんの人気は絶大なもので、やがて「御三家」と呼ばれるまでになり、この3人に三田さんを加えた四天王が「圧倒的なパワーで流行り歌を若者の娯楽に組み立て直してみせた」(玉置さん)のです。
 その4人が初めて「ロッテ歌のアルバム」で初めて顔を揃えたのは、1966年(昭和41年)1月30日に放送された第400回記念番組の時でした。もちろん、この揃い踏みに至るまでも、最多出演回数を誇る橋さんをはじめ、舟木さん、西郷さん、三田さんといった「青春歌謡」を代表する歌手の皆さんが、番組を通じて当時の歌謡曲ファンを大いに楽しませてくれたことは言うまでもありません。
 その「ロッテ歌のアルバム」と青春歌謡がピークを迎える前後のエピソードは、次回の連載で、改めて詳しく紹介させていただくことにしますので、お楽しみに。

著者・鈴木清美

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四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(上)~著・鈴木清美 (2012年4月の記事より)

 東京スカイツリーの開業まで、いよいよ2カ月を切りました。3月22日から始まった個人入場券の予約受付では早朝から旅行会社の前に行列ができるなど、工事中から注目を集めてきた人気も過熱の度合いを増してきています。昭和30年生まれのおじさんとしては「東京タワーも忘れないでね」と思わず呟いてしまうわけですが、今回は、その東京タワーが誕生した1958(昭和33)年にスタートし、テレビ揺籃期を代表する歌謡番組として多くの人々の記憶に刻まれている「ロッテ歌のアルバム」と青春歌謡の時代を振り返ってみようと思います。

 「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まったのは、1958(昭和33)年5月4日のことでした。
 現在も、桜前線の北上がニュースで伝えられるこの時期には、開幕したばかりのプロ野球が話題を提供してくれていますが、昭和33年と言えば、東京六大学野球で立教大学の黄金時代を築いた長嶋茂雄選手が読売巨人軍に入団した年ですから、世の中の耳目は、後年、「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれることになるスーパールーキーに注がれていたはずです。
 当日の新聞を確認してみると、紙面の上半分近くがラジオ番組欄で占められていて、テレビ番組欄としては、ラジオ番組欄の4分の1ほどのスペースが割かれているだけです。
 テレビのチャンネルもNHKと日本テレビとKRテレビ(現在のTBS)の3局しかなく、放送時間も朝7時台から夜10時台までとなっています。
 しかも、日曜日であるにもかかわらず、午前中のプログラムは一塊で紹介されているため、現在なら、新番組として華々しく紹介されているであろう「ロッテ歌のアルバム」も、「0・00 ◇15 歌 曽根史郎他」と1行でしか表記されておらず、番組タイトルさえ見当たりません。小さなスペースしか割かれていないテレビ番組の解説部分でも、全く言及されていないので、新番組として「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まることを知っていた人は一体何人いたんだろう、と今更ながら心配になってしまいます。
 『民間放送50年史』(社団法人・日本民間放送連盟)によると、1958(昭和33)年のNHK受信契約件数は、ラジオの1170万9173件に対して、テレビは僅か1万6779件にすぎません。前年の1485件からは10倍以上も増加しているとはいえ、ラジオの契約台数に比べると約700分の1という割合となりますから、「知る人ぞ知る」という状態だったのだろうと思われます。
 「一週間のご無沙汰でした」のキャッチフレーズでお馴染みとなる玉置宏さんも、「ロッテ歌のアルバム」の放送が開始される前は、ラジオの東京文化放送で主婦向けの情報番組を担当していました。
 2003(平成15)年にレコード会社8社による横断企画として発売されたCD「ロッテ歌のアルバム」にナレーションで参加している玉置さんは、当時の状況を次のように振り返っています。
 「この番組を、新しいテレビの歌謡番組を作ろうとしていたTBS(当時はKRテレビ)、スポンサーに決まっておりました当時のロッテ製菓、それに、広告代理店といった関係者が聞いてくれまして、司会の候補として白羽の矢を立てていただいたのでございます」
 当日の新聞紙面では、詳細が不明だった新番組の内容についても、同じCDの解説書に掲載されている玉置さんの文章で言及されており、「第1回の出演者は『若いお巡りさん』の曽根史郎、『哀愁の街に霧が降る』の東宝映画スター山田眞二、雪村いづみの妹=朝比奈愛子」というようなメンバーだったそうです。
 第2回は、「喜びも悲しみも幾歳月」の若山彰さんや「ここに幸あり」の大津美子さんなど、第3回は、歌う映画スター鶴田浩二さんやデュークエイセスなど。それ以降は、春日八郎さん、藤島桓夫さん、田端義夫さん、小坂一也さん、岡晴夫さんといったビッグスターをメインに放送が続けられました。
 株式会社ロッテが1998(平成10)年に発行した『ロッテ50年のあゆみ』では、「ロッテ歌のアルバム」がスタートした1958(昭和33)年について、「歌謡曲からポピュラーへの転換期。神戸一郎、青木光一など青春歌手、山下敬二郎、ミッキー・カーチスなどウエスタン歌手登場。新人として村田英雄、小林旭出演」と記されています。

 「ロッテ歌のアルバム」をリアルタイムで知る世代の皆さんにとって、番組の冒頭でBGMに乗って響き渡る「お口の恋人ロッテ提供、『ロッテ歌のアルバム』」という玉置さんの歯切れの良い番組タイトルと、それに続く「一週間のご無沙汰でした。司会の玉置宏です」というお馴染みのキャッチフレーズは、今でも耳にはっきりと残っているのではないかと思います。
 でも、この「一週間のご無沙汰でした」という名セリフが、実は、玉置さんのオリジナルではないということを知る人は少ないかもしれません。
 レコード会社8社の横断企画CDのナレーションで、玉置さんは、第2回から使い続けて自身の代名詞ともなったキャッチフレーズについて、次のように告白しています。
 「当時のラジオ東京の人気番組『素人寄席』の司会をやってらした漫談家の牧野周一さんが時折使っておられました。この番組がテレビ番組としてスライドしていった時に司会者も交代しました。そこで、私は、牧野さんが出演中の上野・鈴本演芸場へ、この『一週間のご無沙汰』をいただきにあがりました」
 後年、テレビの番組で一緒に司会をすることになった時、牧野さんに「あなたのおかげで、あの言葉が全国区になりましたなぁ。礼を言いたいのは私の方ですよ」と言われ、玉置さんは本当に嬉しく思ったと述懐しています。
 「ロッテ歌のアルバム」がスタートした当時、24歳だった玉置さんは「歌謡曲に関する知識はほとんどゼロだった」ため、ありとあらゆる資料を集めたり、各レコード会社から毎月の新曲テスト盤を送ってもらい、聞きまくったりしたそうです。
 ビデオテープが開発される前の時代で、もちろん、番組はナマ放送ですから、時間内に収めるために25秒のイントロを15秒に縮めて本番に入るというようなことも珍しくありませんでした。玉置さん自身も、自分で紹介コメントを短く作り変えなければならないといった苦労もしたそうですが、「番組の流れを壊さないように工夫を重ねているうちに、世間一般からは玉置節などと言っていただけるようになった」と振り返っています。
 放送開始当初はTBSだけの放送でしたが、玉置さんをはじめ番組スタッフらの努力により、ネット局はどんどん増えてライバルの日本テレビ系列にも割り込み、完全全国ネットの番組に成長していきました。
 放送スタート当初、「宣伝効果が上がれば、どんどん、ネット局を増やしていきますよ。一所懸命、やってください」と玉置さんにハッパをかけたプレハブの宣伝部には、「ハリスを倒せ」(※「ハリス」はライバル会社のガムのブランド名)という張り紙がしてあったというのも時代を感じさせるエピソードです。

 「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まった1958(昭和33)年は、2月8日から1週間にわたって東京・有楽町の日劇で「第1回ウエスタンカーニバル」が開催され、ロカビリー旋風が巻き起こった年でもあります。
 そのロカビリー旋風の熱も冷めやらない1960(昭和35)年。番組が念願の完全全国ネットを実現したこの年の7月、ビクターから粋な着流し姿の少年が股旅演歌で鮮烈なデビューを飾りました。
 ♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
  薄情そうな 渡り鳥♪
 昭和30年代後半から40年代にかけて、「いつでも夢を」と「霧氷」で2度もレコード大賞を受賞した橋幸夫さんが、「潮来笠」で颯爽と登場したのです。
 私事となりますが、筆者が初めて覚えた歌謡曲も、実は、この「潮来笠」でした。
 当時、毎週日曜日になると、自宅と同じ長岡市内にあった母親の実家へ連れていかれ、お昼の店屋物などを食べさせてもらいながら見ていたテレビの画面には、必ず「ロッテ歌のアルバム」が映し出されていたものです。まだ、5歳だった自分が、レコードを聞いたり、ラジオを聞いたりすることはありませんでしたから、この「潮来笠」を最初に覚えてしまったのは、間違いなく「ロッテ歌のアルバム」の存在があったからでした。
 『ロッテ50年のあゆみ』には、「新人・橋幸夫、『ロッテ歌のアルバム』でテレビ初出演」と記されており、玉置さんの文章によると、「彼のテレビ出演は、1960年6月26日、「ロッテ歌のアルバム」108回、フランク永井ショーの新人紹介コーナー」だったそうです。「潮来笠」の発売はこの年の7月ですから、レコードがリリースされる前に、テレビでデビュー曲を披露したことになります。あるいは、筆者も、この時の「ロッテ歌のアルバム」を見ていたのかもしれません。
 玉置さんは、「潮来笠」前後の事情を、次のように振り返っています。
 「橋幸夫さんの成功以降、歌謡界の人気者は十代のアイドルが中心になりました。(中略)もちろん、それ以前にも、美空ひばりさんを筆頭に、十代のスターは時折、現れました。しかし、みんな、例外的な存在でございました」
 流行り歌は“大人の娯楽”だったのであり、「潮来笠」も大人向けの企画として誕生したわけです。玉置さんは、「それを17歳の若者が歌ったところに清々しく新鮮味がございました。思いがけなく、若いファンが激しく動きました。レコード業界は若い購買層を開拓する新しいビジネスを発見したわけでございます」と指摘しています。
 そして、この橋さんの成功を受けて、レコード各社は十代のアイドルスターを誕生させるべく動き始め、やがて、コロンビアの舟木一夫さん、クラウンの西郷輝彦さんが登場し、橋・舟木・西郷の御三家と三田明を含めた四天王を中心とする青春歌謡の熱いムーブメントが広がることにになるわけですが、その展開は、次回の連載で続けさせていただきます。

著者・鈴木清美

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ラジオが生んだヒット曲(下)著者・鈴木清美

 前回は、南こうせつさんが1972年(昭和47年)10月から1974年(昭和49年)3月までの1年半にわたり、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティーを務め、かぐや姫による「神田川」の大ヒットもその間の出来事だったことを書かせていただきました。その直後に新聞の夕刊で南こうせつさんの連載記事が始まり、大ヒットの裏話にも言及されていましたので、改めて、筆者にとっても思い出深い「神田川」をめぐるエピソードを続けさせていただくことにします。

 「神田川」の大ヒットにより、リアルタイマーの同世代の間でかぐや姫の存在を知らない人はいないほど全国区の超人気フォークグループとなりましたが、「神田川」をヒットさせたのは第2次かぐや姫であったことを知る人は少ないかもしれません。初代かぐや姫は、1970年(昭和45年)に「酔いどれかぐや姫」というシングル曲でクラウンからデビューし、五木ひろしさんや八代亜紀さんなどを輩出した「全日本歌謡選手権」にも出場したことのある異色グループでした。
 森昌子さんの「越冬つばめ」を作詞した石原信一さんの著書『あの日フォークが流れていた』(シンコーミュージック)の中で、南こうせつさんは「レコード会社のキャンペーンに振り回されていましたね。このままでは僕が音楽をやろうとしたメッセージが伝わらなくなると思って、グループを再結成したんです」と当時を振り返っています。
 レコードセールスよりもライブを中心にして、自分たちの音楽を直接広めていこうという方針に転換し、1971年(昭和46年)9月には、吉田拓郎さんや小室等さんの六文銭などをゲストに招いて、日本青年館ホールで華やかな結成コンサートも開いています。同時に発売された再デビュー・シングル「青春」のB面に収録されていた「山椒哀歌」を作詞したのが、後に「神田川」を書くことになる喜多条忠さんでした。
 数年前に放送された「神田川」をテーマにしたテレビ番組で、南こうせつさんは、喜多条忠さんとの出会いについて、次のように語っています。
 「文化放送にレコード会社の人と売り込みに行った時に、まだ無名だった放送作家の喜多条さんを紹介してもらい、『混沌とした時代に面白いことやりたいよね、詞を書いてみない』と強引にお願いしました」
 1973年(昭和48年)7月に発売された3枚目のアルバム「かぐや姫さあど」に収められている「神田川」には、興味深い誕生秘話が残されています。
 前述のテレビ番組によると、アルバム制作のために、当時はまだ珍しかった16チャンネルの録音機材を備えたスタジオを、レコード会社が半日だけ押さえることに成功。発売日までのスケジュールを逆算すると「今日が締め切り」という日に、徹夜明けで番組の収録を終えたばかりの喜多條忠さんに、南こうせつさんがアルバム用の作詞を依頼したものの、いったんは「無理」と断られてしまいます。
 ところが、タクシーで放送局から家に帰る際、視界に飛び込んできた神田川を見て「この川の上流で学生時代に一緒に暮らした女性がいたんだ…」と感慨にふけった喜多条さんの頭に浮かんだのが、あの「神田川」のイメージだったのでした。

 一気に詞を書き上げた喜多条さんが、その日の夕方、完成したばかりの詞を電話で伝えてきた時の様子を、南こうせつさんは鮮明に覚えているそうです。
 「ファックスもメールもない時代でしたから、そばにあった新聞のチラシの裏側にボールペンで書きとめました。それでも、『赤い手ぬぐいマフラーにして』とか変な歌詞だなと思いつつ、書きとめているうちにメロディーが浮かんできて、全部書き終えた時には、ほぼメロディーが出来上がっていました」(前述のテレビ番組)
 実は、筆者も一度、学生時代に喜多条さんのお宅にお邪魔したことがあり、喜多條さんが学生運動を行っていた早稲田大学の2年生当時、3畳一間の彼女の家に転がり込んで同棲生活を送っていたというお話を聞かせていただいてことがありました。「同棲していたのは、この人じゃないんだけどね」と、横にいらっしゃった奥様と目を合わせながら苦笑されていたのを鮮明に覚えています。
 結局、「神田川」も収録されたアルバム「かぐや姫さあど」からシングルカットされたのは、山田パンダさんの作詞・作曲による「僕の胸でおやすみ」でしたが、冒頭でも書かせていただいた通り、アルバムが発売された年からTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを務めた南こうせつさんが、番組で「神田川」を紹介したところ、大反響を呼んだのでした。
 「『神田川』はアルバムのB面の1曲にすぎず、レコード会社も何の関心も払わなかった。ある日、パックインの番組の中でかけたら翌日、段ボール箱2つ分のリクエストはがきが届いた。これはすごい。オリコンで何位までいくか、僕たち3人は『こっくりさん』という当時、はやっていた占いをやってみた。結果は72位。そんなもんかと思っていたら、神田川は、あっという間にオリコン1位まで駆け上がった」(日本経済新聞・2013年11月19日夕刊「こころの玉手箱/南こうせつ[2]」)
 アルバム「かぐや姫さあど」から急きょシングルカットされた「神田川」は、ミリオンセラーとなる爆発的な大ヒットを記録し、続いて発売された「赤ちょうちん」「妹」もヒット。ヒットした曲の映画化など、メンバーの気持ちとはかけ離れた形でのビジネス展開に戸惑いを感じたかぐや姫は、1975年(昭和50年)4月に突然解散しますが、かぐや姫はデビューから3年半ほどの間に、シングル300万枚・アルバム677万枚という不滅の大記録を打ち立てました。

 「神田川」は、楽曲を歌ったミュージシャンが自ら担当するラジオ番組で紹介し、大ヒットにつながったケースですが、この昭和40年代末から50年代初めにかけては、全国のラジオ局のフォーク担当ディレクターが自らの推薦する曲を積極的に放送し、ヒット曲が相次いで誕生した時期で、石原信一さんは著書『あの日フォークが流れていた』の中で、その代表曲がイルカの「なごり雪」だったと記しています。
 伊勢正三さんの作詞・作曲による「なごり雪」も、「神田川」と同様にかぐや姫のアルバムに収録されていた曲でした。イルカのレコード制作を担当していたユイ音楽出版の陣山俊一ディレクターは、「ラジオ局に遊びに行くと、あの『なごり雪』はもったいない。誰かに歌わせることはできないだろうかとよく言われたんです。僕もこの曲を歌うことで一人のアーティストが売れると思いました」と語り、かぐや姫の解散で残された名曲が、イルカによって1975年(昭和50年)リリースされるにいたった経緯を振り返っています。
 「なごり雪」の編曲は、荒井由美さん(当時)の曲のアレンジをしていた松任谷正隆さんが担当しましたが、ピアノのシンプルなタッチで始まるイントロの長さは、レコーディングの際、半分に短縮されました。「イントロが長いと、その分、歌が途中でカットされかねない」と考えた陣山ディレクターが、松任谷正隆さんに説明して納得してもらったそうです。「なごり雪」大ヒットの背景には、ラジオを大きな武器として展開する戦略が立てられれていたのでした。
 石原信一さんによると、「陣山俊一にとってイルカの『なごり雪』のプロモーションはラジオ局回りしか考えられなかった。75年当時、まだ、CMとのタイアップもなく、テレビに出るとアーティストの寿命は短くなると言われていた」のに加え、テレビをはじめとするマス媒体も、「『フォークは若者のものであり一般大衆の音楽ではない』という認識があった」と指摘。ラジオ局内部でも同様で、フォーク担当ディレクターは少数派だったため、逆に、「彼らは若者の音楽文化を担っているというプライドがあったし、新しい音楽の波を自分たちで作ろうとしていた」(石原信一さん)そうです。
 同時に、この頃から広がり始めた「ニューミュージック」という言い方をめぐり、石原信一さんは、「荒井由美の従来のフォークと差別化したニューミュージックという言葉とは違って、イルカの場合、フォークをより大衆と結びつける形のニューミュージックだった」と喝破しています。
 1960年代の半ばに、マイク眞木さんの「バラが咲いた」やブロードサイドフォーの「若者たち」、森山良子さんの「この広い野原いっぱい」、荒木一郎さんの「空に星があるように」など、キャンパス・フォークともカレッジ・フォークとも呼ばれた一連の楽曲が、当時の若者の間に広まっていくうえで、ニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ビレッジ」をはじめ様々なラジオ番組が大きな役割を果たしました。そして、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」を世に送り出して以降も、数多くの名曲を世に送り出してきた深夜放送に代表されるラジオの若者向け番組は、フォークやニューミュージックが時代を代表する音楽として地位を固めるのを支え、今も歌い継がれる数多くの名曲を残してくれたのでした。

著者・鈴木清美

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テレビが人気を加速させたグループサウンズ(下)著者・鈴木清美

 このシリーズでは、(上)で「ザ・ヒットパレード」と「ヤング720」、(中)で「今週のヒット速報」と「歌のグランドショー」を取り上げてきましたが、最終回では、1966年(昭和41年)をホップ、1967年(昭和42年)をステップとすれば、いよいよジャンプとなる1968年(昭和43年)を中心にグループサウンズ(GS)に特化した番組を振り返りながら、GS人気を加速させた当時のテレビ音楽番組を総括してみることにします。

 ジャッキー吉川とブルーコメッツが「ブルーシャトウ」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)で第9回日本レコード大賞を受賞した1967年(昭和42年)は、GS全盛期を象徴する年だったわけですが、そのブームが最高潮に達した時期は、同年の夏から翌1968年(昭和43年)の夏までの1年間ほどだったように記憶しています。
 1968年(昭和43年)1月1日の新聞テレビ欄を見ると、前年の元旦の紙面に名前が掲載されていたのはブルコメくらいだったのが、1年後にはブルコメをはじめ、田辺昭知とザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズ、ザ・テンプターズなど10以上のグループ名が登場するまでになりました。
 さらに、番組自体も、GSだけ出演するものが4つもあるほか、個々の番組の中においても、当時の流行り歌の世界でGSがひとつのジャンルとして確立された存在となっていたことをうかがわせるような構成になっており、NHKを除く在京の民放5局すべてがGSの登場する番組を放送しています。
 当日の新聞紙面から番組と出演者を拾い出してみると、次の通りです。

日本テレビ…14:00-15:15「初春歌の大饗宴(第一部)『四つの太陽』」美空ひばり、橋幸夫、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、田辺昭知とスパイダース/15:15-16:25「初春歌の大饗宴(第二部)『グループ・サウンズ・フェスティバル』」ブルーコメッツ、ザ・スパイダース、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズ、アウトキャスト/19:00-19:30[カラー] 「あなた出番です」ザ・ドリフターズ、ザ・ジャガーズ、ザ・ピーナッツ、伊東ゆかりほか

TBSテレビ…07:20-08:00「ヤング720」ザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズ、ジュディ・オング、山田太郎、浜田光夫/13:00-14:00[カラー] 「夢のゴールデンコンビショー」①舟木一夫、吉永小百合②ブルーコメッツ、ザ・スパイダース③美空ひばり、橋幸夫/15:00-16:00「お年玉プレゼントショー・新春クレージー読本」クレージーキャッツ、中尾ミエ、布施明、ザ・タイガース、梓みちよ、田辺靖雄

フジテレビ…16:00-18:00「新春かくし芸大会」ブルーコメッツ、ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース、ザ・スパイダース (※GSのみ)

NETテレビ…13:00-14:00「レッツゴーグループ・サウンズ」(浅草国際劇場から録画中継) ザ・ジャガーズ、ブルーコメッツ、ザ・スパイダース、ザ・カーナビーツほか

東京12チャンネル…11:00-12:00「カーナビー・ヤングポップス'68(フィリップス・レコードフェア) 」カーナビーツ、ジャガーズ、テンプターズ、ザ・マイクス、リンド・アンド・リンダーズ、レモン・レモンズほか/19:30-20:00「ジャポップストップ10」ザ・モップス、ザ・ダイナマイツ、ビーバーズ、ガリバーズ、F・B・Iほか

 いかがでしょうか。
 後年のレコード会社各社によるジャンル横断型のコンピレーションCDや当時のヒットランキングなどでは、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)までのGS全盛期であっても、GSは流行り歌の世界における「ワンノブゼム」でしかなかったような位置づけに見えることが多く、音楽シーンを席巻していたような印象を持っていたのは、僕らのようなGS大好き少年だけの錯覚だったのではないかと考えることもあったりするのですが、この1968年(昭和43年)元旦の新聞テレビ欄を見る限り、「GSが音楽シーンを席巻」という印象も決してGS大好き少年の錯覚などではなかったことを証明してくれているように思います。
 それにしても、この昭和43年正月時点におけるブルコメとスパイダースの別格ぶりには、驚かざるをえません。
 特に、日本テレビが14:00から16:25まで2時間25分の枠で放送した「初春歌の大饗宴」では、ブルコメとスパイダースは第一部と第二部の両方で登場し、しかも、「四つの太陽」と銘打たれた第一部での競演者は、美空ひばりさんと橋幸夫さんという大御所二人だったわけですから、GSの中にあっても、この2つの老舗グループの格の違いを示しています。
 また、TBSテレビが13:00から14:00までの枠でカラー放送した「夢のゴールデンコンビショー」でも、一組目が舟木一夫さんと吉永小百合さん、3組目が美空ひばりさんと橋幸夫さんで、その二組に挟まれて2組目として登場するのがブルコメとスパイダースという流れになっていて、この番組構成もブルスパのブルスパたる所以を物語っているようです。
 NETテレビでは13:00から14:00の1時間枠で、“演歌の殿堂”と呼ばれた新宿コマ劇場に次ぐ演歌歌手の晴れ舞台というイメージが強い浅草国際劇場から「「レッツゴーグループサウンズ」という番組を録画中継しており、もちろん、この番組にもブルコメとスパイダースは登場しています。
 さらに、大晦日の紅白歌合戦と並ぶ年末年始の定番大型番組として国民的人気を獲得し始めていたフジテレビの「新春かくし芸大会」(16:00-18:00)にも、ザ・タイガースとザ・ワイルドワンズと共に、ブルコメとスパイダースも出演者として名前を連ねていました。1969年(昭和44年)からはTBSが大晦日にレコード大賞の授賞発表音楽会を独占生中継するようになり、「レコ大・紅白・かくし芸」がテレビ界における年末年始の“三種の神器”的存在となっていったわけですが、「新春かくし芸大会」は既にブラウン管から姿を消し…という表現も既に死語でしょうから、ブラウン管改め液晶画面から姿を消し、レコ大も大晦日から12月30日に移動してしまったため、年末年始の昭和テレビ模様も今は昔の話となりつつあるのかもしれません。
 さて、話を本題に戻しまして、東京では後発のテレビ局だった東京12チャンネルも、11:00から12:00の1時間枠で「カーナビー・ヤングポップス'68」、19:30から20:00の30分枠で「ジャポップストップ10」という2つの番組を放送しており、こちらにはブルスパこそ登場しないものの、リンド・アンド・リンダースやモップス、ダイナマイツ、ビーバーズ、ガリバーズなどマニアックなGSが出演していますから、当時のGSファンは、チャンネルをハシゴすれば、正月元旦から1日中、居ながらにしてディープなGS三昧を楽しめたわけです。タイムマシンがあるなら、ビデオデッキを担いで当時に戻り、朝から晩までひたすら番組を録画してきたいものだと思わずにいられません。

 この元旦の新聞テレビ欄に漂うGS全盛期の濃密な空気は、そのまま、1968年(昭和43年)の年間を通じてブラウン管にも映し出されることになります。
 地方都市出身のGS大好き少年だったリアルタイマーとしての私の記憶を辿ると、この連載シリーズの第11回「テレビCMに刻まれたグループサウンズ」でも書かせていただいたように、21世紀に入ってからコマーシャル映像のBGMとして復活を遂げたヴィレッジシンガーズの「亜麻色の髪の乙女」(作詞・橋本淳/作曲・すぎやまこういち)やワイルドワンズの「バラの恋人」(作詞・安井かずみ/作曲・加瀬邦彦)などがヒットしていたこの年の春辺りが、世の中におけるGS濃度が一番高い時期だったように思えますので、その時期のテレビにおける音楽番組の状況を確認してみることにしましょう。
 1968年(昭和43年)4月の朝日新聞縮刷版で4月8日(月)から14日(日)までの1週間にわたる番組表で、出演者としてGSの名前が掲載されている番組数は、延べ25本ありました。
 「延べ」と書いたのは、月曜日から土曜日まで1週間のうち6日間も放送されていたTBSの「ヤング720」が含まれているからです。
 「ヤング720」については、この連載のシリーズの(上)でも、フジテレビの「ザ・ヒットパレード」とともに、GS黎明期にブームへの道筋を作った貢献度の高い番組として紹介させていただきましたが、それから2年後のGSブーム全盛期においても、その役割を果たし続けていたわけです。
 この週にカウントしたGS出演番組の中には、ワイルドワンズが出演した「桂小金治アフタヌーンショー」やタイガースが登場した「スター千一夜」、「ケメ子の唄」(作詞・作曲/馬場祥弘)のザ・ジャイアンツが出演した「パンパカ天国」などワイドショーやバラエティなども含まれていますので、純度の高い音楽系番組だけに絞ると17本という数になりました。
 また、この週では、たまたまGSのグループ名は入っていなかったものの、登場頻度が高かったと思われる音楽番組として「歌のグランプリ」と「ヤングステージ」があり、恐らく、この1968年(昭和43年)春の頃に、GSの出演頻度が高かった音楽番組は週間当たり20本前後だったものと思われます。1日当たりの平均では約3本ということになるわけですから、やはり、当時のテレビにおける音楽番組の比率は今よりも高かったようですし、それらの音楽番組がGSブームを支えていたことは間違いなさそうです。
 さらに、GSだけしか出演しない、あるいは、GSの出演比率が極めて高い番組としては、月曜日から順に挙げていくと、「ヤング720」から「あなた出番です」「ヤングジャンボリー」「ジャポップストップ10」「ザ・ヒットパレード」「若さで歌おうヤアヤアヤング」「レ・ガールズ」「トップバラエティ」「今週のヒット速報」まで10本を数えます。このうち、完全なGS特化番組と言えるのは、「若さで歌おうヤアヤアヤング」だけですが、この頃に僕が見ていたはずの完全GS特化番組で山内賢さんが司会を務めていた「レッツゴーヤングサウンズ」は見つけられませんでした。
 1968年(昭和43年)の1月と3月のテレビ欄を確認したところ、1月に新番組として始まった「グループ・サウンズヒット10」という番組は3月までのワンクールで終了したようですし、1月の時点で放映されていたスパイダース・テンプターズ・サベージなど日本フィリップスのGSが出演していた「ゴー・ゴー!ゴー!!」という番組も4月の時点では姿を消していますので、あるいは、「レッツゴーヤングサウンズ」も含めて、GS完全特化番組のサイクルは非常にめまぐるしいものだったのかもしれません。
 この1968年(昭和43年)は5月にオックスが「ガール・フレンド」(作詞・橋本淳/作曲・筒美京平)でデビュー。「ダンシング・セブンティーン」(同)、「スワンの涙」(同)と連続ヒットを飛ばして、先行していたタイガースやテンプターズの人気にも迫ろうかという勢いを示す一方で、キーボードを担当していた赤松愛さんの失神パフォーマンスが社会現象化するまでになりました。
 しかし、そうした喧騒とは裏腹に、全盛を極めたGSブームも、翌1969年(昭和44年)の3月にタイガースの加橋かつみさんがグループを脱退した辺りを境に、その勢いが急速に衰え始めていき、1970年代に入るとほとんどのグループが姿を消してしまい、1971年(昭和46年)1月24日に武道館で行われたタイガースの解散コンサートで、GSブームは事実上の終焉を迎えました。
 それでも、特に1967年(昭和42年)と1968年(昭和43年)のGSブーム全盛期に生み出された多くのヒット曲は、後年になって多くの歌手やグループによってカバーされたり、テレビCMで復活するなど、スタンダード化した楽曲も少なくありません。「亜麻色の髪の乙女」や「バラの恋人」以前には、ザ・ジャガーズの「君に会いたい」(作詞/作曲・清川正一)やスパイダースの「なんとなくなんとなく」(作詞/作曲・かまやつひろし)などもビールや自動車のCMに登場して、オールドファンを喜ばせてくれました。
 また、GSブームが終焉した後も、主要グループのメンバーの多くが、ソロ歌手として活躍したり作曲家やプロデューサーとして日本の音楽シーンをリードしてきた事実も、音楽ムーブメントとしてのGSが単なるブームではなかったことを証明しており、GSリアルタイマーとしては本当に嬉しい限りです。

著者・鈴木清美

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テレビが人気を加速させたグループサウンズ(中)著者・鈴木清美

 前回は、「GS(グループサウンズ)元年」とも言うべき1966年(昭和41年)を中心に、テレビの音楽番組におけるGSの台頭を振り返ってみましたが、今回は、「GS全盛期」の始まりとなった1967年(昭和42年)のテレビの音楽番組、特に、GSブームを如実に反映することになるフジテレビ「今週のヒット速報」と、NHKとGSの微妙な関係の引き金となった当時のNHKの看板音楽番組「歌のグランドショー」を軸に、良くも悪くも加熱するGSブームの追い風となったテレビの存在を検証してみたいと思います。

 ジャッキー吉川とブルーコメッツ (以下ブルコメ)が「ブルーシャトウ」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)を大ヒットさせ、田辺昭知とザ・スパイダースも「太陽の翼」(作詞・作曲/利根常昭)(以下スパイダース)で安定した人気を維持し、ザ・タイガース(以下タイガース)が「僕のマリー」(作詞・橋本淳/作曲・すぎやまこういち)のデビューから一気にスターダムへの階段を昇り始めた1967年(昭和42年)4月、フジテレビで新番組「今週のヒット速報」(毎週金曜日の20:00-20:56)がスタートしました。
 この連載コラムの第7回で取り上げさせていただいたテレビの音楽番組史上に燦然と輝く「夜のヒットスタジオ」の露払い的な存在だったとも言えるのが「今週のヒット速報」ですけれども、フジテレビの歴史においても看板番組の一つであることは間違いない「夜のヒットスタジオ」の印象があまりにも強いため、この「今週のヒット速報」はリアルタイマーの皆さんにとっても記憶の薄い番組になってしまっているかもしれません。
 NHKを離れてフリーアナウンサーになっていた高橋圭三さんが司会を務めた「今週のヒット速報」の放送が始まったのは4月7日のことで、当日の新聞のテレビ番組欄によりますと、記念すべき第1回の出演者は「石原裕次郎・加山雄三・舟木一夫・橋幸夫・西郷輝彦・水原弘・水前寺清子他」となっており、銀幕の大スターと一大ブームを巻き起こした若大将と御三家が揃い踏みするという豪華絢爛な顔ぶれですが、残念ながら、GSはこの中に名前を連ねていませんでした。
 それでも、番組が始まった4月中の21日と28日にはスパイダースが出演、5月以降は、全盛期を迎えるGSブームを反映するようにGSの登場頻度が高くなり、6月2日にはブルコメとスパイダースが顔を揃えています。当日のテレビ番組欄から出演者を引用させていただきますと、「石原裕次郎、ブルーコメッツ、橋幸夫、西郷輝彦、ザ・スパイダース、扇ひろ子、園まり他」というラインナップでした。
 1967年(昭和42年)6月というタイミングですから、ブルーコメッツは「マリアの泉」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)、スパイダースは「風が泣いている」(作詞・作曲/浜口庫之助)といったヒット曲をひっさげての登場だったものと思われます。
 「今週のヒット速報」の番組欄を見ていると、月を追う毎に出演者の名前に占めるカタカナの割合が高くなりますが、1967年中は、番組欄をすべてカタカナが占めるというようなことはありませんでした。
 しかし、1968年(昭和43年)に入ると、二年越しに及ぶGS全盛期がピークを迎える5月には、10日と17日の番組欄で「ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ワイルドワンズ、サ・スパイダース」、24日と31日の番組欄で「ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ワイルドワンズ、ブルーコメッツ」という風に、出演者が全てカタカナだけになってしまいます。
 この現象は6月に入っても続き、7日と14日は「ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ワイルドワンズ、ザ・テンプターズ」となっており、21日に「ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・ワイルド・ワンズ、ロス・プリモス、伊東ゆかり」という形で漢字と平仮名が入るまで、実に6週間にわたって、番組欄がカタカナで占められるというGS全盛期ならではの事態が発生したのでした。
 漢字の名前の歌手の皆さんに比べ、カタカナ表記のGS名が長いということもありますけれども、あえて、新聞の番組欄にGSしか表記されていないという事実は、GSがランキングの上位を占めていたことやGSの名前を出した方が視聴率も上がるといったテレビ局の思惑などを反映するものでもありそうです。

 一方、GSが登場する頻度の高かったNHKの歌番組として、リアルタイマーの皆さんの記憶にも残っているのが「歌のグランドショー」(毎週日曜日の19:30-20:15)ということになるのではないかと思います。
 1967年(昭和42年)当時の新聞のテレビ番組欄で確認してみますと、1月8日にザ・サベージ、2月5日と4月30日にスパイダース、6月4日にザ・ワイルドワンズ (以下ワイルドワンズ)、6月18日には再びスパイダース、7月9日にブルコメ、8月6日にもスパイダース、9月10日にも再びブルコメ、10月15日には5回目のスパイダース、11月19日には再びワイルドワンズという登場の仕方で、1月から11月までの間に、4グループが延べ10回にわたって出演しており、語り草となっている「長髪GSはNHKには出られなかった」という伝説(?)も見事に覆される展開となっています。
 ちなみに、この1967年(昭和42年)に各グループが最初に登場した回の出演者を、新聞の番組欄からそのまま引用させていただくと次の通りです。

 1月8日=村田英雄、三田明、三沢あけみ、高橋元太郎、東ひかり、ザ・サベージ、金井克子、アントニオ古賀、中尾ミエ、一竜斉貞鳳
 2月5日=西田佐知子、西郷輝彦、畠山みどり、荒木一郎、ザ・スパイダース、藤山一郎、金井克子、アントニオ古賀、中尾ミエ他
 6月4日=西郷輝彦、三田明、藤ひろ子、ザ・ワイルドワンズ、ドンキー・カルテット、金井克子、アントニオ古賀、小野満と楽団他
 7月9日=舟木一夫、朝丘雪路、井沢八郎、山田太郎、青江三奈、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、いかりや長介とザ・ドリフターズ(「他」なし)

 如何でしょうか。金井克子さんと中尾ミエさん、アントニオ古賀さんの3人は、どうやらレギュラーあるいは準レギュラーとしての出演だったようですが、演歌の大御所から御三家、フォークからGS、コミックバンド、講談に至るまで、あらゆるジャンルをカバーする音楽の坩堝とも言うべき状態ですけれども、それだけに、当時の流行り歌の世界でGSが一つのジャンルとして確固たる地位を占めていたことを物語っているとも言えそうです。
 実は、筆者自身も、当時、小学6年生だったとはいえ、一応、曲がりなりにもリアルタイマーでありながら、「歌のグランドショー」にブルコメ以外のGS、特に、スパイダースがそんなに出演していたということは、今回、当時の新聞の番組欄を子細に調べさせていただいて、初めて知ったというのが実情で、本当にびっくりしました。
 リアルタイマーのくせに、そこまで意外に思うほどの印象しか残っていないのか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう風に思い込んでしまっていた背景には、当時のGSファンなら誰もが強烈に覚えているはずの「歌のグランドショー」に関わる大きな出来事があったからなのです。

 1967年(昭和42年)11月6日付の朝日新聞朝刊・社会面に「将棋倒し、20人重軽傷/奈良のザ・タイガース公演、8千人が押合う」という見出しで、次のような記事が掲載されました。

[奈良]飛石連休最後の五日の日曜日、奈良市あやめ池遊園地の野外劇場で、アトラクションのエレキバンドの公演に殺到した観客が押合い、各所で将棋倒しとなって、二十数人が重軽傷を負った。けが人は十代の男女が多く、詰めかけたファンは高校生がほとんど。
 同日午後二時前、奈良市あやめ池北町、あやめ池遊園地内で催されている毎日新聞社主催「あやめ池菊人形幕末明治百年記念」のアトラクションとして、あやめ池遊園地内の野外劇場で、グループ・サウンズ「ザ・タイガース」の公演第一回が終わり、二回目の入替えがおこなわれたとき、場外で列を作って入場を待っていた約八千人が入口めがけて、どっとくずれたため、木ワクで作った仮設の入り口付近で身動きできない観客があちこちで折重なったり、踏みつけられたりした。

 この事件を受けて、NHKは既に収録済みで11月12日に放映が予定されていた「歌のグランドショー」について、ザ・タイガースが出演していた部分をカットして放送することを決定。この出来事を境に、「ミリタリールックで長髪のグループサウンズはNHKには出演させない」ことがNHK上層部の決断として、局内に徹底されることになったのです。
 上述した通り、その翌週の11月19日の「歌のグランドショー」にはワイルドワンズが出演していますから、ビジュアル的にはアイビー系で“湘南さわやかサウンド”だったワイルドワンスは「セーフ」だったことになりますが、これ以降、タイガースはもちろん、スパイダースなどもNHKの歌番組からは姿を消すことになりました。
 筆者のように小学生だったファンにとっては、あまりにも強烈な出来事で、その強烈さの故に、それ以前にNHKでスパイダースを見た記憶など吹っ飛んでしまい「NHK=長髪GS締め出し」という印象だけがインプットされ、その後は、半ば都市伝説化したエピソードが独り歩きを始めたというようなことなのかもしれません。
 タイガースのメンバー自身が不祥事を起こしたわけではなく、たまたま、警備の手薄だった会場でコンサートを行ったため、不幸にして事故が起き、ファンが重軽傷を負ったという事実の重さを前に、プロダクションも含めて反論の余地はなかったというのが実情だったのだろうと思われます。
 事件後に発売された『週刊平凡』1967年(昭和42年)11月30日号は、「ザ・タイガースが緊急作戦会議!! 」という4ページ構成の記事で、東京・四谷にあった合宿所でのメンバーによる座談会を紹介。タイガースのリーダーだった岸部一徳 (当時は修三)さんは、次のように語っていました。
 「わるいことはなにもやってないのにオロされるという事態にぶつかって、まったく信じられない気持ちなんだ。世の中にこんなことがあっていいのだろうか、という気持ちだよ」
 また、沢田研二さんの次のような発言も紹介されています。
 「スパイダースも11月15日(原文ママ)の『グランド・ショー』がダメになったということで、うちだけの問題じゃなくなったね。グループ・サウンズ全体のことになってきたような気がする」
 瞳みのるさんが40数年ぶりにタイガースのメンバーとして復帰する契機となった「SONGS」をはじめ、最近数年間のNHKの音楽番組での沢田研二さんのソロ歌手としての出演や再結成されたタイガースの武道館ライブなどを見ていると、リアルタイマーとしてはNHKの贖罪意識すら感じてしまったりするわけですが、NHKの現場にいる若いスタッフの皆さんは、往年のエピソードなど知らずに番組を作っているのかもしれません。
 「長髪」が「NHKから締め出し」の理由として正当化された時代も、遠い昔のことになってしまいました。

著者・鈴木清美

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テレビが人気を加速させたグループサウンズ(上)著者・鈴木清美

 前回は、TVコマーシャルにリバイバルで登場したグループサウンズ(GS)の名曲や、リアルタイムの当時に話題を呼んだGSによるCMソングなどのエピソードを紹介しました。今回からは、GS全盛時代の1967年(昭和42年)と1968年(昭和43年)の歌番組を中心に、GSの一大ムーブメントづくりに一役かった当時のテレビ番組を振り返ってみたいと思います。

 レコードの世界でGS時代の幕を開けたのは、1965年(昭和40年)5月にクラウンから発売された田辺昭知とザ・スパイダース (以下スパイダース)の「フリフリ」(作詞・作曲/かまやつひろし)でしたが、テレビの世界でGSが一般的に認知されるキッカケを作ったのは、ジャッキー吉川とブルーコメッツ (以下ブルコメ)の「青い瞳」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)だったと言えるのではないかと思います。
 ブルコメのメンバーだった井上忠夫さんがブルコメにとっての初めてのオリジナルとなる「青い瞳」を作ったのは1965年(昭和40年)秋のことで、当時、フジテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」でブルコメを起用した、すぎやまこういちさんに同曲を聴いてもらい、すぎやまさんのアシスタントだった橋本淳さんが英語で詞をつけたのです。
 「青い瞳」が日本コロムビアから発売されたのは1966(昭和41年)3月で、ブルコメがレギュラー出演していた「ザ・ヒットパレード」で歌っているうちにジワジワとレコードが売れ始めたのでした。
 ブルコメでリードギターを担当していた三原綱木さんは、当時のことを次のように振り返っています。
 「すぎやま先生が『俺が協力するからオマエ達もビートルズみたいに歌ってみろよ』と言ってくれた。『協力する』というのは、番組のヒットチャートで上位曲として『青い瞳』を紹介してくれるということだった」(2000年[平成12年]11月に発売されたCD10枚組『ブルーコメッツ・パストマスターズ・ボックス』解説書)  今なら「ヤラセ」事件として糾弾されかねない話ですが、当時は、おおらかだったというべきなのか、演出の範囲として許容されることだったようで、「青い瞳」は発売から3カ月で10万枚を超えるヒットを記録します。
 それまでは、バックバンド出身でインストルメンタルが中心だったブルコメに歌わせることには消極的だった日本コロムビアも、CBSレーベルで本格的なレコード制作に乗り出すことになり、1966年(昭和41年)7月には日本語詞の「青い瞳」がCBSレーベルからの初めての日本語盤レコードとして発売されました。
 結果的には、これが50万枚を超える大ヒットとなり、9月に発売されたブルー・シリーズ第2弾の「青い渚」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)も連続ヒットを記録して、1966年(昭和41年)の大晦日には、ブルコメがGSとして初めてNHK紅白歌合戦への出場を果たすことになります。
 コロムビアのホームページによると、第2弾の「青い渚」も「ザ・ヒットパレード」で7週連続第1位を記録したといいますから、初期のブルコメ人気を支えた一つの要因として、当時の人気音楽番組の存在があったことは間違いないようです。
 再び、レコードの世界に目を転じてみると、ブルコメが「青い瞳」日本語盤をリリースした1966年(昭和41年)7月には、ザ・サベージ (以下サベージ)が「いつまでもいつまでも」(作詞・作曲/佐々木勉)でデビュー、同年9月には、スパイダースの「夕陽が泣いている」(作詞・作曲/浜口庫之助)が発売されて大ヒット、さらに、同年11月には、加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ (以下ワイルドワンズ)が「想い出の渚」でデビュー・ヒットを飾りました。
 この連載では、最初からGSと書かせてもらっていますが、ブルコメが初出場した1966年(昭和41年)の紅白歌合戦で、司会の宮田輝アナウンサーはブルコメが登場する時には「フォークロックを聞いていただきましょう」と紹介しています。つまり、この時点では、まだ、ブルコメやスパイダース、ワイルドワンズなどは「グループサウンズ」とは呼ばれていなかったのです。
 1966年暮れには、既に、スパイダース、ブルコメ、ワイルドワンズと全盛期のGSブームを牽引した老舗グループが顔を揃えることになっていたわけですが、1966年(昭和41年)12月の新聞のテレビ番組欄を見ても、GSのグループ名は見当たりませんし、大晦日の紅白歌合戦の番組欄を見ても、出演者の欄でブルコメの名前にはスペースが割かれておらず、まだ、GSが全国区の認知を得るまでにはいたっていなかったことが推察される状況となっています。
 年が明けて、1967年(昭和42年)正月三が日のテレビ欄でも、日本テレビが元旦のお昼に放送した「新春バラエティ おめでとう'67」に「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」の名前を見つけることしかできませんでした。
 それでも、1月7日(土)のTBS「ヤングジャンボリー」(19:00-19:30)ではスパイダースとブルコメが揃い踏みしたのに続き、1月8日(日)の日本テレビ「ゴールデンショー」(19:00-19:30)にもスパイダース、同日のNHK「歌のグランドショー」(19:30-20:15)にはサベージが登場しており、ブームの兆しを感じさせる雰囲気が漂い始めています。
 一方、そういう状況の中で、忘れてはならない存在として思い出されるのが、TBSが1966年(昭和41年)10月から放送を開始した朝の番組「ヤング720」です。
 この番組は当初からGSの登場頻度の高い番組として、若者の絶大な支持を集め、テレビの世界におけるGS特化番組の先駆け的存在として、大きな役割を果たしたと言えるかもしれません。
 手元の資料(『GS&POPS No.12』)に掲載されている「ヤング720」出演者リストによりますと、放送開始第1週(10月31日[月]~11月5日[土])こそ「弘田三枝子、西郷輝彦・城卓也、湯川れい子、佐々木新一、日野てる子・古谷敏、恵とも子」ということでGSの名前は見当たりませんが、2週目以降は、スイングウエスト (8日)、ワイルドワンズ (12日・22日)、ブルージーンズ (16日・30日)、スパイダース (18日)、サベージ (23日)などの名前が登場し、さらに、12月に入ると、シャープファイブ (3日)、スパイダース (5日・10日・19日)、ブルーコメッツ (6日・20日・27日)、サベージ (17日・30日)ということで、当時のジャズ喫茶を彷彿とさせる頻度で人気グループが出演するようになります。

 放送開始当初から「ヤング720」を手がけていたTBSの高樋洋子さんは、1978年に発行された『TVグラフィティ 1953-1970』(講談社)の「ヤング720騒動記」で、番組黎明期を次のように振り返っています。
 「『ヤング720』がはじまったのは、昭和41年10月31日。この年がどういう年なのかというと、7月1日、忘れもしないビートルズ日本公演という一大イヴェントがあった年である」「今でこそヤング指向のマスコミ、ミニコミは数多くあるが、そのころ“ヤング”が商売になるかもしれないという考え方はまったく新しいものだった。当事者達もあまり自信が持てなくて、大体朝7時20分から8時という時間に、若者は皆、寝てるんじゃないか、と言うのが大多数の意見だった。そこで、とにかくショッパナはロックをガンガン鳴らしてたたき起こしちまえというので、ロックバンドを沢山集めた」
 番組の放送開始当初は、リアルタイマーである僕自身も小学校5年だったため、ほとんど番組を見た記憶はありませんが、GSにはまり始めた翌42年の夏頃からは、高樋さんが書かれている通り、この番組の音で目覚めるようになったものでした。
 この頃には、GSが全盛期を迎え始めることになるわけですが、その辺りの事情についても、高樋さんが書き残してくれていますので、引用させていただきます。
 「この頃、日本のグループサウンズは花盛りで、視聴率も12~15%と、朝のこの時間では考えられない数字を示していた。何しろ、タイガース、テンプターズ、スパイダース、ジャガーズ、カーナビーツ、モップス、バニーズ、ゴールデンカップス、フォーク・クルセイダース、ジャックスなんてのが目白押しなのだもの。こりゃ、こたえられないヨ。化粧室からスタジオへGSが走る、ファンが走る、ファンにまじってミーハー・ディレクター(かくいう私)も走るって騒ぎだった」
 確かに、テレビの画面からは、スタジオの熱気がそのまま伝わってくる感じで、特に、ブルコメやスパイダース、タイガース、テンプターズ、ワイルドワンズ、ヴィレッジシンガーズ、カーナビーツ、ジャガーズなどといった人気の高いGSの曲がテレビから聞こえてきた時などは、それこそ、布団を跳ね飛ばして、テレビの前にすっ飛んで行ったものです。
 逆に、たまたま、早く目が覚めたりして、「今日は、どのグループが出てくるのかな」と思ってテレビの前で待っている時に、名前を知らないグループが出て来たり、GSではなくウエスタン系のバンドなどが出てくると、肩透かしをくらったようで、がっかりしたことを思い出します。

 ということで、今回は、GSブームの黎明期に、テレビの世界でGSの楽曲を世に知らしめる上で、大きな役割を果たした「ザ・ヒットパレード」と「ヤング720」という2つの番組を軸に、当時の状況を紹介させていただきましたが、次回からは、1967年(昭和42年)春以降の音楽番組を中心に、GS人気を加速させたテレビの役割を振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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ラジオが生んだヒット曲(中)

 前回は民放ラジオが誕生した昭和20年代から昭和30年代にかけてのラジオの歴史を辿りながら、ラジオが生んだヒット曲の数々を振り返り、昭和40年代半ばに隆盛を極めることになる深夜放送の先駆け的番組となった文化放送の「真夜中のリクエストコーナー」まで書き進めさせていただきました。今回は、昭和40年代前半にスタートしたTBSラジオ・ニッポン放送・文化放送の民放ラジオキー局による深夜放送の黎明期から、フォークシンガーやニューミュージックのアーチストの皆さんがパーソナリティを務め、ラジオから数多くのヒット曲が送り出されるようになる昭和40年代の大きなうねりを振り返ってみたいと思います。

 TBSが「パックインミュージック」の放送を開始したのは、1967年(昭和42年)8月1日(7月31日深夜)のことでしたが、その約8年前の1959年(昭和34年)10月には、ニッポン放送が夜間生活人口の増加と個人聴取の拡大という時代の変化に対応してオールナイト放送に先鞭をつけていました。この時にスタートした「オールナイトジョッキー」は、後年、オールナイトニッポンでも月曜深夜を担当することになる糸居五郎さんがDJを務めて、番組で流す全ての曲を自ら選曲するというスタイルを確立したことで知られています。
 「新しい前進態勢を確立! わが国初の二十四時間放送開始」という見出しが躍るニッポン放送の社内報『いづみ』第19号(1959年[昭和34年]10月10日発行)には、「十月十日---つまり十月九日の深夜午前〇時という時間は、オールナイト放送が、日本ではじめて開始される瞬間であり、ラジオ界にとって画期的な時間として永久に記念さるべきである」と書かれ、オールナイト放送を実現した関係者の高揚感が伝わってきます。
 この社内報の記事は、オールナイト放送の開始について、「最近益々増加の一途をたどっている深夜勤務者を直接的な聴取対象として発足する」ものであると同時に、その企画に当たっては、(1)ラジオ聴取者の家庭単位から個人単位への変化、(2)聴取者の聴取状況からラジオによるアピール度は深夜の方が高いこと、(3)総理府統計局と労働省統計調査部の資料によると、深夜の時間帯における就業者数が午前〇時台=375万人、一時台=247万人、最も就業率が低いとされる二時・三時台でも167万人に達しており、未就寝者を加えると相当数の聴取対象が見込まれ、夜間になると電離層などの関係から全国に届く電波も広がり、多くの人々が新しくラジオの受益者として登場すること、などのポイントが考慮されたと強調しています。
 さらに、この記事では「さし当たって半年くらいは経営的に苦しいと思うが、こうした人たちにサービスする意味で実施することにした」という鹿内信隆専務(当時)の新聞談話も紹介されており、昭和40年代における深夜放送の隆盛も、その原点にこうした英断があったからこそのものだったわけです。
 社内報は、オールナイト放送の開始について、「ニッポン放送が、常にラジオの公共性という本来的使命にのっとり、将来への飛躍に巨歩を踏み出した結果のあらわれであり、またLF(ニッポン放送)の底力を外に向かって示したものとして大いに誇りを感じていいと思う」と結論づけていますが、この自負も我田引水的な誇張ではなく、数年後の展開を見通した慧眼だったということになります。
 『TBS50年史』も、ニッポン放送によるオールナイト放送の開始が「若年聴取層を形成し新しい潮流を生み出していた」と指摘、「ローカルにも追随する社が現れ、66年(昭和41年)10月ラジオ関東が『オールナイト・パートナー』を始めると、TBSもオールナイト放送に背を向けていることができなくなった」と説明しています。
 さらに、若年層にはTBSがオールナイト放送をしない局というイメージが固定化し、「午後10時以降ダイヤルを他局に奪われる傾向も現れた」とも言及されていますから、TBSとしては“背に腹は代えられない”状況ともなっていたようです。

 「パック・イン・ミュージック」の番組名は、シェークスピアの「真夏の夜の夢」で夜になると活躍する妖精にちなんだもので、当初は、午前0時30分から3時までが生放送で、そのあと5時まで「乾宣夫のマジック・ピアノ」など5つの録音番組が並んでいました。
 放送開始時のパーソナリティとしては、増田貴光さんや戸川昌子さん、田中信夫さん、野沢那智さん、白石冬美さん、なべおさみさん、星加ルミ子さん、矢島正明さんなどが名前を連ねており、「最初はむしろ大人のエンターテインメントをねらった」番組だったようです。
 その後、福田一郎さんや若山弦蔵さん、八木誠さん、ロイ・ジェームスさん、永六輔さんらが登場する中で、若い聴取者に向けたメッセージ性の強い番組へと変わっていき、「福田一郎のロック、若山弦蔵・八木誠の音楽情報、『戦争を知らない子供たち』の北山修が発するメッセージなどが引き金となり、ベビー・ブーム世代と言われた若者たちの間に深夜放送ブームを巻き起こした」(『TBS50年史』)のでした。特に、北山修さんについては、「もとザ・フォーク・クルセダーズのメンバーで京都府立医大の学生だった北山修はベビー・ブーム世代に属し、折しも70年安保を前に盛り上がった学生運動と重なって、番組は学生たちの間に共鳴と共感を広げていった」と記されています。
 そのザ・フォーク・クルセダーズによる「帰って来たヨッパライ」そのものも、また、深夜のラジオから世の中に飛び出していったものでしたから、北山修さんによる「パック・イン・ミュージック」への登場は、必然的な展開だったと言えるのかもしれません。
 音楽評論家の田家秀樹さんは『読むJ-POP』の中で、「昭和42年11月5日、ラジオ関西の番組『若さでアタック』でオンエアされた『帰って来たヨッパライ』は、関西地区で爆発的な反響を呼んだ」とと書いており、一般的にも、「若さでアタック」が「帰って来たヨッパライ」を世の中に送り出した番組とされています。その事実関係は間違いないようですけれども、実は、その1カ月ちょっと前の9月26日に「ミッドナイトフォーク」というフォーク番組で初めて電波に乗り、その時の録音テープが「若さでアタック」で再放送されたという経緯だったそうです(「高度成長期マニアックス・ラジオ関西ファンのブログ」)。
 その後、「帰って来たヨッパライ」のヒットに火を付けたラジオ関西の「電話リクエスト」でDJを担当していた木崎義二さんから友人のニッポン放送・亀淵昭信さんに情報が伝わり、亀淵さんの当時の上司だった石田達郎さんの判断で、1967年(昭和42年)10月にスタートしていた「オールナイト・ニッポン」で「帰って来たヨッパライ」が独占的に放送され、全国区の人気に広がっていったのでした。
 『我ら青春の深夜放送で流行ったヒットソング100』(シンコー・ミュージック)によると、北山修さんが「パック・イン・ミュージック」で水曜深夜のパーソナリティを担当したのは、1969年(昭和44年)4月から1972年(昭和47年)3月までの3年間で、この間に、北山修さんが作詞を担当した「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)や「あの素晴しい愛をもう一度」(加藤和彦と北山修)「さらば恋人」(堺正章)などのヒット曲も誕生しています。
 北山修さんは、自切俳人(ジキルハイド)名義で「オールナイト・ニッポン」でも1977年(昭和52年)1月から1978年(昭和53年)3月まで木曜深夜を担当しており、北山修さんとのデュエットで「あの素晴しい愛をもう一度」をヒットさせたフォーク・クルセダーズの元メンバーでもある加藤和彦さんも、北山さんに先行して、1976年(昭和51年)1月から9月まで「オールナイト・ニッポン」で月曜深夜のパーソナリティーを務めました。

 北山修さんの後を受けて1972年(昭和47年)4月から9月まで「パック・イン・ミュージック」で水曜深夜を担当したのは吉田拓郎さんでした。当時、高校生だった筆者は、北山修さんの最終回に吉田拓郎さんが出演し、番組の中でパーソナリティーのバトンタッチが行われるのをリアルタイムで聞きながら、フォークシーンにおける主役の交代劇に立ち会ったような気分になったことを鮮明に覚えています。
 高校1年生から2年生に進級する春の出来事でしたが、筆者が住んでいた新潟県でTBS系列だった地元のローカル局が「パック・イン・ミュージック」の同時放送をようやく開始し、東京の送信所から発出され電離層経由でかろうじて届く微弱な電波を捉えるためにラジカセのチューナーを合わせるという苦労から開放されたのも、この頃のことでした。
 1972年(昭和47年)4月と言えば、「今日までそして明日から」で全国区となった吉田拓郎さんが「結婚しようよ」を大ヒットさせていた時期であり、吉田拓郎さんにとっての初のオリコン・チャート1位曲となる「旅の宿」がリリースされたのは、まさに、「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを担当していた同年7月でしたから、テレビには出演しなかった吉田拓郎さんですが、レコードセールスの拡大とラジオ出演の相乗効果は少なからずあったものと思われます。
 吉田拓郎さんは、その後、1974年(昭和49年)9月から1975年(昭和50年)9月まで「「オールナイト・ニッポン」で月曜深夜を担当したのに続き、1969年(昭和44年)9月からスタートしていた文化放送の「セイ!ヤング」でも1978年(昭和53年)4月から1980年(昭和55年)3月まで金曜深夜のパーソナリティーを務めており、在京3キー局全ての深夜放送を制覇した数少ないフォークシンガーの一人となりました。
 北山修さんに続いて深夜放送に登場したフォークシンガーとしては、やはり元フォーク・クルセダーズのはしだのりひこさんが1970年(昭和45年)4月から「セイ!ヤング」で火曜深夜、同年10月からは同じく「セイ!ヤング」にザ・スパイダースのかまやつひろしさんが木曜深夜を担当。同年10月からは「セイ!ヤング」の火曜深夜をはしだ・かまやつコンビが務めることになりました。
 さらに、1972年(昭和47年)10月には、吉田拓郎さんの後を受けて「パック・イン・ミュージック」に南こうせつさんが登場します。南こうせつさんは、北山修さんが九州大学の教授を退官した際に行われたコンサートで、北山修さんのヨーロッパ旅行中に務めた代役が認められ、「パック・イン・ミュージック」のレギュラーを獲得したと述懐していましたが、1974年(昭和49年)3月までの1年半にわたり水曜深夜を担当。そして、この「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを務めていた1973年(昭和48年)9月に発売された「神田川」は、同年10月から12月にかけて連続7週にわたってオリコン・チャートの首位をキープする大ヒットとなったのでした。
 この「パック・イン・ミュージック」の水曜深夜枠では、1978年(昭和53年)10月から1979年(昭和54年)9月までの1年間にわたって河島英五さんもパーソナリティを務めており、それぞれの時期を代表するようなフォークシンガーの指定席だったとも言えそうです。
 南こうせつさんが1970年代半ばから後半にかけて2度にわたって木曜深夜を担当した「オールナイト・ニッポン」では、泉谷しげるさん(1973年6月~1974年3月・火曜深夜)、あのねのね (1973年7月から1976年9月までの間に4回にわたり水曜深夜と土曜深夜を担当)、武田鉄也さん(1974年4月から1975年12月までの間に3回にわたり木曜深夜と金曜深夜を担当)、イルカさん(1974年8月から1975年9月まで金曜深夜と水曜深夜を担当)、松山千春さん(1977年10月から1981年3月まで2回にわたり水曜深夜と火曜深夜を担当)なども登場。
 文化放送の「セイ!ヤング」でも、さだまさしさんが1974年(昭和49年)10月から水曜深夜のパーソナリティーを務めて人気を集めるなど、まさに、深夜放送は百花繚乱の全盛期を迎えたのでした。
 深夜放送に先行して数多くのフォークソングを世に送り出したニッポン放送の「フォークヴィレッジ」など、今なお語り継がている伝説的な名番組や、昭和30年代から40年代にかけて洋楽のポップスやロックの楽曲情報をいち早く知ることのできる貴重な情報源だったFENなどについては、次回の連載で振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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ラジオが生んだヒット曲(上)

 「昭和のメディアと流行り歌」に連載タイトルを改めさせていただいていから6回、その前の「昭和のテレビと流行り歌」での19回を含めると、この連載コラムも既に25回にわたって書き続けてきていますが、これまでは、テレビと映画を中心に映像作品との関わりで流行り歌を紹介してきました。しかし、昭和のメディアには、テレビと同じ電波媒体として、戦前から人々に音楽を届け続けてきたラジオという大きな存在があり、昭和の流行り歌の中には、ラジオから生まれたヒット曲も少なくありません。今回からは、そのラジオが生み出したヒット曲の数々を、振り返ってみたいと思います。

 昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて思春期を過ごした、現在は50代後半から60代前半くらいの世代の場合、ラジオが生んだヒット曲と言えば、オリコン史上で初のミリオンセラーを記録したザ・フォーククルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」が、真っ先に思い浮かびます。
 しかし、この「帰ってきたヨッパライ」が深夜放送を通じて、爆発的な人気を集めることになるまでには、昭和20年代後半までNHKに限定されていた放送電波が開放され、民間放送によるラジオ番組が多様化するまでの10年以上にわたる歴史が必要でしたし、NHKが営々と造り上げてきたラジオにおける大衆文化の礎があったことも忘れてはならないでしょう。
 連載タイトルとして「昭和のメディアと流行り歌」を掲げさせていただいていることでもありますし、この機会に、終戦後からのラジオと流行り歌の歴史も簡単におさらいしてみたいと思います。
 戦時中は、大本営発表のニュースを聞くと同時に、空襲警報に先立つ空襲情報を知るための必需品となっていたラジオも、戦後は、家族が一家団欒での娯楽を提供する存在に様変わりしました。
 ラジオ放送は楽曲を伝播するメディアとしても大きな力を発揮することになり、歌謡曲の「リンゴの唄」、童謡の「みかんの花咲く丘」、民謡の「炭坑節」、ポピュラーの「ビギン・ザ・ビギン」などが、全国的に知られるようになる上で、NHKの番組が果たした役割は小さくありませんでした。
 1947年(昭和22年)7月からは、連合軍の民間情報教育局(CIE)によって新聞・映画・演劇・放送・出版の全メディアが管理され、ラジオ放送も一つの番組が15分単位の枠に嵌め込まれ、ドラマも15分枠の連続形式となりました。この15分枠の連続ドラマから、「鐘の鳴る丘」や「新諸国物語」などのヒット作品が登場することになるのです。
 「鐘の鳴る丘」は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までの土日祝祭日を除く毎日、午後5時15分から5時30分までの15分間にわたり放送。終戦後、世の中が落ち着きを取り戻す前の混乱の中で、信州の牧場に建てられた戦争孤児たちの収容施設を舞台に、子供たちが明るく元気に生きてゆく姿を描いた作品は、毎日の連続ドラマとしては、790日という日本最長の記録を達成するほどの人気を集めました。
 ♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台…で始まる主題歌「とんがり帽子」は、ドラマをリアルタイムで聞いたことのない世代にまで広く知られるようになり、「リンゴの唄」「青い山脈」などとともに、戦後の日本人に勇気と希望を与えた楽曲として、流行歌の枠を超えて記憶されています。
 「新諸国物語」は、1952年(昭和27年)4月1日から1956年(昭和31年)12月31日まで、月曜日から金曜日までの午後5時45分から6時までの15分間にわたって放送されました。第一話「白鳥の騎士」から第五話「七つの誓い」まで五話に分かれており、第二話の「笛吹童子」と第三話の「紅孔雀」の主題歌が人気を集め、特に「紅孔雀」は後年、東映で映画化されたりテレビでドラマ化されたりした時も繰り返しテーマ曲として使われ、筆者のお気に入りの一曲でもありました。
 「とんがり帽子」は川田正子さんと音羽ゆりかご会が、「笛吹童子」は上高田少年合唱団が、「紅孔雀」は井口小夜子さんとキング児童合唱団が、それぞれの主題歌を歌っており、後年の「月光仮面」や「矢車剣之助」「七色仮面」「白馬童子」「快傑ハリマオ」といったテレビの実写ヒーロードラマ主題歌への流れを作り出す形ともなったようです。

 1951年(昭和26年)9月に、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送(後の毎日放送)がスタートし、同年12月にはラジオ東京も放送を開始するなど、1953年(昭和28年)3月の時点では、民放ラジオ13局が全国各地で開局するまでになりました。
 実は、美空ひばりさんの「リンゴ追分」も、ラジオ東京が開局番組の一つとして放送した「リンゴ園の少女」の挿入歌として作られたもので、台本を担当していた小沢不二男さんが書い詞に、音楽担当の米山正夫さんが15分ほどで曲をつけ、間奏での台詞は、ひばりさん自身のアイデアだったといいます。レコードでは、当初、主題歌のB面扱いでしたが、ファンに支持されて息の長いヒット曲となり、美空ひばりさんの代表曲として知られるだけでなく、日本歌謡史に残る「名曲」として位置づけられるまでになりました。
 そして、1952年(昭和27年)4月10日からスタートしたNHKラジオのドラマ「君の名は」も、その主題曲・主題歌とともに、伝説の番組として今も語り継がれる名作の一つに数えられます。
 東京大空襲の夜、猛火につつまれる数寄屋橋の上で偶然出会った二人の男女が、名前も聞かずに半年後の再開を約束して別れた後、すれ違いを繰り返すという菊田一夫作による連続放送劇は、1954年(昭和29年)3月までの2年間にわたり、毎週木曜日の午後8時30分から9時まで放送されました。「木曜の夜は銭湯の女湯が空っぽになる」という伝説は、作品を映画化した松竹の宣伝コピーが独り歩きしたとも言われていますが、映画は3000万人を動員するとう大ヒットとなっています。菊田一夫作詞・古関裕而作曲による主題歌は、ラジオでは高柳二葉さんが歌い、レコードは織井茂子さんが吹き込み、織井さんの代表曲となりました。
 「君の名は」を作曲した古関裕而さんは、前述の「とんがり帽子」も手掛けているほか、1949年(昭和24年)からNHKがスポーツ放送のテーマ音楽として使っている「スポーツショー行進曲」のメロディーも作っています。早稲田大学の応援歌「紺碧の空」で作曲家として世に出た古関さんは、夏の甲子園の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」、読売巨人軍の応援歌「闘魂こめて」などのほか、1964年(昭和39年)に東京で開催された夏季オリンピックの開会式での行進曲も作曲しており、“日本のスーザ”と呼ばれるほどマーチの名曲を数多く世に送り出しました。
 「君の名は」のスタートから10日ほどさかのぼる1952年(昭和27年)3月31日、開局したばかりの文化放送が本放送を開始しています。
 手元にある文化放送の社史『50YEARS文化放送/時代を見つめたラジオの目』によると、開局当時の主な番組として「S盤アワー」と「平凡アワー」が紹介されており、当初から音楽番組が編成の目玉となっていたようです。“LIMITED”のLをとったコロンビアL盤に、“SPECIAL”のSで対抗したビクターのS盤による洋楽番組「S盤アワー」のDJは帆足まり子さんで、テーマ曲のペレスプラード楽団「エル・マンボ」は、番組の人気が上昇するととともに、マンボブームの火付け役となりました。「平凡アワー」は、芸能娯楽雑誌『平凡』のラジオ版ともいうべき歌謡番組で、テーマ音楽には「ひばりの花売り娘」が使用され、文化放送に入社して間もない玉置宏さんがDJを担当。以前、「ロッテ歌のアルバム」を振り返った際にも書かせていただいた通り、この「平凡アワー」がきっかけで、玉置さんは「ロッテ歌のアルバム」の司会も担当するようになったのでした。
 文化放送では1955年(昭和30年)10月から、新着洋画の紹介とファン投票による洋楽リクエスト曲で構成される「ユアヒットパレード」(毎週土曜日・午後8時30分~9時)の放送を開始、民放ヒットチャート番組の草分けとなりました。レコードプレゼントや番組視聴者だけの試写会などで話題となり、「S盤アワー」に続いてファンクラブが結成されるほどの人気だったといいます。
 ちなみに、ユアヒットパレード第1回のベスト10は、第1位=旅情(ロッサノ・ブラッツイ)、第2位=チャチャチャは素晴らしい(エンリケ・ホリン)、第3位=エデンの東(ビクター・ヤング楽団)、第4位=ロック・アラウンド・ザ・クロック(ビル・ヘイリーと彼のコメッツ)、第5位=月光のセレナーデ(グレン・ミラー楽団)、第6位=ドリーム(レイ・アンソニー楽団)、第7位=裸足のボレロ(ユーゴー・ウィンターハルター楽団)、第8位=慕情(フォア・エイセス)、第9位=ジョ・ジョ・ジ(アーサー・キット)、第10位=テキサスの黄色いバラ(ミッチー・ミラー合唱団)という10曲でした。

 TBSの社史『TBS50年史』によると、NHKと民放が共同で実施した聴取率調査の結果、1953年(昭和28年)5月の時点で、月曜日から金曜日までのラジオ聴取率が38.4%、各局別では、NHK第一が20.0%、ラジオ東京が12.1%、文化放送が5.1%だったのが、1955年(昭和30年)3月には、ラジオ聴取率が46.8%に上昇する一方、各局別では、NHK第一が12.9%、ラジオ東京が15.8%、文化放送が7.8%、ニッポン放送が7.4%となりました。
 2年弱という短い期間で、ラジオ全体として聴取率が高くなると同時に、民放がNHKを逆転するという事態も起きており、民放の台頭によってラジオそのものを聴く人も増加したことをうかがわせています。
 その民法による画期的な試みとして、1958年(昭和33年)9月には、文化放送と日本放送がそれぞれ片チャンネルを担当し、2つのラジオでステレオ放送を聴いてもらおうという番組も放送されました。最初のステレオ番組は「ソニー・ステレオ・アワー」で、9月15日に浅草国際劇場で行われた「ポール・アンカショー」を放送、翌年の1959年(昭和34年)には、文化放送の局内にステレオ放送専用スタジオも完成しています。
 文化放送は1961年(昭和36年)3月、日本初のステーションソングとなる「QRソング」を製作、野坂昭如さんが作詞、いずみたくさんが作曲を担当した「QRソング」を歌ったのは、ザ・ピーナッツでした。このステーションソングは、訪米した芸能部長が「シンギング・コールサインを積極的に取り上げて、聴取率の向上に役立てるべき」と提言したことにより誕生したもので、後年には、いずみたくシンガーズやキャンディーズなども歌っています。
 文化放送の社史によると、1961年(昭和36年)10月にコメディアンとタレントのコンビが司会を務める「歌謡大行進」(月曜~土曜・午後3時~3時55分)がスタートしたのに続き、1962年(昭和37年)には全国民放34局を結ぶ「全国歌謡ベストテン」(水曜・午後7時30分~8時30分)、1963年(昭和38年)4月にも全国34社111局を結ぶ「9500万人のポピュラーリクエスト」の放送も開始され、ラジオを通じて日本の軽音楽全体の動向が分かる状況となりました。「歌謡大行進」では、由利徹さんや渥美清さんのほかに三笑亭夢楽さんや三遊亭小金馬さんなどの落語家も加わり、桜京美さんや芳村真理さん、楠トシエさん、久里千春さんなどがお相手を務めています。
 さらに、1964年(昭和39年)10月からは、若年世代の聴取者掘り起こしを目指す「電話リクエストハローポップス」(月曜~土曜・午後7時~8時50分)が始まり、関光夫さんや本多俊夫さんなどの音楽評論家がDJとして登場。1965年(昭和40年)8月には、テレビの台頭によるラジオ不況時代における強化策の一環として「真夜中のリクエストコーナー」(火曜~土曜・午前0時35分~50分)がスタートしています。
 「真夜中のリクエストコーナー」は、ラジオが受験生を中心とした深夜族の友達や兄貴的な存在となりうることに着目したもので、パーソナリティとして土居まさるさんが起用され、恋愛や悩みの相談などがつづられた葉書を読みながら、ラジオならではの双方向性のコミュニケーションを創り出していきました。
 深夜放送が全盛時代を迎え、ラジオから数多くのヒット曲が生み出されるようになる昭和40年代前半以降については、次回からの連載で詳しく振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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俳優としての舟木一夫。日活青春路線に”歌謡映画”の王道確立。著者・鈴木清美

 石原裕次郎さん、吉永小百合さん、小林旭さん…、これまで、日活の歌う銀幕スターを紹介させていただいてきましたが、今回は、銀幕でも十二分に存在感を発揮した演じる青春歌謡スターの第一人者・舟木一夫さんによるスクリーンでの活躍を振り返ってみたいと思います。大ヒットしたデビュー曲「高校三年生」を皮切りに、「学園広場」「仲間たち」「君たちがいて僕がいた」「あゝ青春の胸の血は」といった一連の代表曲と同名の映画に始まり、自身が主役を務めた「北国の街」「高原のお嬢さん」「哀愁の夜」「絶唱」「夕笛」「君に幸福を/センチメンタルボーイ」「青春の鐘」などを経て、橋幸夫さん・西郷輝彦さんとともに御三家揃い踏みとなった「東京⇔パリ 青春の条件」にいたるまで、舟木さんが登場した映画作品は、デビューした1963年(昭和38年)から8年間で29本を数えました。とりわけ、日活では6年間に16本の作品が製作され、トップ俳優も顔負けの映画史に残る確かな足跡を残しています。

 舟木一夫さんのデビュー曲「高校三年生」(作詞・丘灯至夫/作曲・遠藤実)が発売されたのは1963年(昭和38年)6月のことですが、それから5カ月後の同年11月には映画「高校三年生」が公開されています。
 昨年3月に「芸能生活50周年記念公式バイオグラフィー」として刊行された労作『舟木一夫の青春賛歌』(大倉明著・産経新聞出版)によると、レコードが発売される前の5月には複数のテレビ番組で「高校三年生」を歌ったところ、「学生服で歌っていたのは誰だ」と問い合わせが殺到。前評判が高かったことから、デビュー盤の初回プレスは、当時の標準だった5000枚の8倍に当たる4万枚となりました。
 発売当時、体調を崩して福島県の猪苗代町で療養していた作詞家の丘灯至夫さんは、コロムビアの幹部から電話で売り上げ報告を受けており、そのメモによると、7月20日に11万枚、8月3日に16万枚、9月16日に41万枚と順調に売り上げを伸ばし、年末には100万枚を突破するミリオンセラーとなってしまいました。
 デビュー曲として破格のヒットを記録した「高校三年生」には、早速、大映からコロムビアとホリプロに映画化の企画が持ち込まれます。
 『舟木一夫の青春賛歌』によると、当時、大映は映画製作について“青春路線”を方針の一つとして打ち出し、その第一弾として「高校三年生」に白羽の矢が立てられたのでした。発売されて間もなく映画化が企画され、9月上旬に撮影し、11月半ばには公開されるという異例の展開だったといいます。
 「高校三年生」での共演は、橋幸夫さんの相手役として大映に入った姿美千子さん、日本初の“歌う映画スター”である高田浩吉さんの次女である高田美和さん、「ミスター平凡コンテスト」でグランプリに輝いた倉石功さん、ザ・スパイダースに加入したばかりの堺正章さんなどで、十代のニュースターばかりが揃った映画の中では、「淋しい町」や「只今授業中」(作詞・関沢新一/作曲・遠藤実)といったヒット曲のカップリング曲も流れました。
 舟木一夫さん自身も後年のインタビューで、「高校三年生」の映画化裏話として、「すげぇなと思ったのは、僕も9月にロケへ行っているんだが、企画会議やロケハン、台本づくり、配役決めなどを考えたら、7月には動き始めていないといけない」と述懐し、異例のスピードで映画化されたことに、改めて、驚いているほどです。
 シングル盤の発売ペースも凄まじく、デビューから2カ月後の8月に2枚目の「修学旅行」、10月に3枚目の「学園広場」、11月に4枚目の「仲間たち」と矢継ぎ早のリリースで、しかも、「学園広場」と「仲間たち」も映画化されており、デビューから4曲目までの間に、3曲も映画作品として残されるという異例づくめの展開となりました。
 舟木一夫さんの2枚目のシングル盤「修学旅行」も、当初、映画化の話があり、大映と所属プロダクションのホリプロで話が進められたものの、なかなか大映側の最終決定が出なかったため、しびれを切らしたホリプロ側が日活に打診したところ、当時、石原裕次郎作品などを手掛けていたプロデューサーの水の江滝子さんが発売されたばかりの3枚目のシングル版「学園広場」を映画化することを即決し、その後、舟木一夫さんの映画は日活でシリーズ化されることになったと言います(『舟木一夫の青春賛歌』)。

 当時の日活は、石原裕次郎さん、小林旭さん、赤木圭一郎さん、和田浩治さんの4人による「ダイヤモンドライン」と呼ばれたローテーションで、“アクション映画の日活”として斜陽化が始まっていた映画界にあって独り勝ち状態を続けていたものの、舟木一夫さんがデビューする前年の1962年(昭和37年)後半から翳りが見え始めていました。
 その対策として、吉永小百合さんや浜田光夫さんを中心とする青春路線も並行して確立されるようになったわけですが、それでも、テレビの急速な普及やコスト削減の要請などから、安い製作費で観客を動員できる映画づくりを迫られ、歌手のヒット曲をモチーフとする“歌謡映画”の製作が一気に拡大していくことになります。
 舟木一夫さんだけでなく、橋幸夫さんや西郷輝彦さんのヒット曲も映画化されていく中で、こうした歌謡映画を手掛ける脚本家の一人に、ニッポン放送を退社した後、水の江滝子さんの抜擢で日活の契約ライターとなっていた倉本聰さんも名前を連ねていました。
 「高校三年生」でデビューした1963年(昭和38年)から翌1964年(昭和39年)末までに、舟木一夫さんは17枚のシングル盤をリリースしていますが、この間に出演した映画は、「高校三年生」(大映)、「学園広場」(日活)、「ミスター・ジャイアンツ勝利の旗」(東京)、「仲間たち」(日活)、「君たちがいて僕がいた」(東映)、「夢のハワイで盆踊り」(東映)、「続・高校三年生」(大映)、「あゝ青春の胸の血は」(日活)の4社8作品を数えています。
 明けて1965年(昭和40年)1月に「花咲く乙女たち」が公開された後、10本目の作品となる「北国の街」で舟木一夫さんは、初めての主演を務めることになりました。
 『舟木一夫の青春賛歌』によると、「花咲く乙女たち」から舟木一夫さんは映画にも本格的に取り組むようになり、自身も「映画の主役として舟木がもつかどうかという勝負がかかっていた」という「北国の街」では、18日間のロケのために、テレビやステージなど数十本の仕事を全て断って出演するほどの力の入れようだったそうです。共演した和泉雅子さんも、「歌手がご愛嬌で出ているんじゃなくて、舟木君は役者をやっていましたよ。歌手は音程がいいから台詞が上手なんですが、舟木君は歌手の中でも断トツで完璧な芝居をやっていました」と振り返っています。脚本にある台詞の改善案などを大学ノートに書き込んでいたほどの熱心さで、和泉さんは「そんなことまでやっていたのは、日活では、小百合ちゃんと舟木君だけでしたよ」と述懐しているほどです。
 多くの歌謡映画の場合、楽曲がヒットしてから映画化されるというのが通例のパターンでしたが、この「北国の街」は、シングル盤のリリースと映画の公開が同時という異例の形となりました。舟木一夫さん自身が「ドラムを入れずにウクレレだけでリズムを刻んでいる新鮮な曲」と評価する「北国の街」は、作曲家・山路進一さんの代表曲とも言える傑作で、北村英治さんがクラリネットを担当するという贅沢な楽曲ですが、そのヒットを確信したかのようなレコード発売と映画の封切りが同時という展開は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった舟木一夫さんの全盛期の凄まじさを物語るものと言えるかもしれません。

 1966年(昭和41年)に公開された「絶唱」は、この年の日活配収第1位に輝いたヒット映画でしたが、その実現までには、紆余曲折がありました。
 映画の企画は、舟木一夫さんが年初に日活へ持ち込んだものの、亡くなった女性と結婚する話であることや1958年(昭和33年)に小林旭さんと浅丘ルリ子さんが出演した作品が苦戦したことなどから、経営陣としても製作に踏み切ることを躊躇したのです。
 出征場面での丸刈りにも意欲を示した舟木さんは、「もし入りが悪かったら、次の作品は、無条件・ノーギャラで出演します」と経営陣にかけあい、ようやく日活側からGOサインが出たと言います(『舟木一夫の青春賛歌』)。
 映画に自信を持っていた舟木一夫さんは、「主題歌は要りません」と主張したそうですが、日活側は「絶対に必要」と譲歩せず、レコード会社側もイメージが沸かずに困っていた時に、作曲家の市川昭介さんが「演歌を書いている新人作詞家の詞につけた曲を聴いて欲しい」とディレクターに持ってきた曲が、後の「絶唱」のメロディーでした。
 大御所・西條八十さんの作詞による楽曲は1966年(昭和41年)8月に発売され、並行して撮影が進行した映画は翌9月に公開されています。共演した和泉雅子さんが「2人の相性の良さが一番いい形で残った作品」と語る映画は、舟木一夫さんの思惑通りに大ヒットして、前述の通り、この年に公開された日活映画の配収第1位となりました。
 「絶唱」を作詞した西條八十さんは、「高校三年生」で作詞を担当した丘灯至夫さんの師匠でもあり、舟木一夫さんがデビュー曲で大ヒットを飛ばした後、西條八十さんは丘灯至夫さんに「俺にも舟木君の歌を書かせろよ」と冗談交じりに言っていたそうです。
 ちなみに、吉田正さんとの名コンビで橋幸夫さんの多くのヒット曲を作詞した佐伯孝夫さんも、フランス文学者でもある西條八十さんに師事したくて、西條八十さんが教授を務めていた早稲田大学文学部に進学していますから、丘灯至夫さんと佐伯孝夫さんは兄弟弟子だったことになります。
 以前も、この連載で書かせていただきましたが、舟木一夫さんのデビューからの一連のヒット曲を作曲した遠藤実さんは、デビュー前の橋幸夫さんの歌の先生でもありましたから、橋幸夫さんと舟木一夫さんが大歌手としての不動の地位を築いたバックボーンには、重要な共通のルーツがあったということになりそうです。
 映画評論家・双葉十三郎をして「彼は『絶唱』に俳優として登場し、立派な成功をおさめ、ここに輝かしい第2の出発のスタートを切った」と言わしめた舟木一夫さんは、1967年(昭和42年)にも「夕笛」で主演を務め、こちらも同年の日活配収第1位に輝きました。『舟木一夫の青春賛歌』によると、「絶唱」に続いて作詞をした西條八十さんから最初に届けられた詞のタイトルは「ふるさとの笛」だったそうですが、当初から映画化を考えていた舟木一夫さんは、映画のタイトルとして馴染まないと判断し、西條八十さんに「夕笛」への変更を打診し、西條八十さんが提案を快諾して、歌詞にも「夕笛」を追加したというエピソードも残っています。
 舟木一夫さんによる一連の日活映画への出演は、1968年(昭和43年)に公開された「青春の鐘」が最後となりました。
 「学園広場」から「青春の鐘」まで、舟木一夫さんが出演した日活作品の16本は、その殆どが曲名をそのまま映画のタイトルとしており、まさに歌謡映画の王道を極めた作品群として、日本映画史に確かな足跡を残しています。

著者・鈴木清美

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