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2014年2月

「昭和の作詞・作曲家列伝」~歌謡曲の元祖・作詞家、西條八十。著者・野口義修

さて、今回は、作詞家の西條八十(さいじょう やそ、1892年1月15日 - 1970年8月12日)さんをご紹介します。
西條さんほど、言葉の世界で幅広く活躍した作家はおそらくいないと思います。
詩人、作詞家、仏文学者、大学教授……。
その作品は、童謡から演歌、民謡、歌謡曲、軍歌までジャンルの垣根を越えた活躍です。

西條さんは、東京府(現・東京都)出身で早稲田中学時代から文筆の世界で身を立てたいと感じていたそうで、それは、中学で出会った生涯の恩師、吉江喬松先生(フランス文学者、詩人、作家、評論家、早稲田大学教授)の影響が大きかったと思います。
西條さんも、早稲田大学に進み、後にフランスのソルボンヌ大学へ留学し、帰国後、早大仏文学科教授になっています。
学生時代、早稲田の天才詩人と謳われた三木露風 (赤とんぼ 十五夜)と活動を共にしたり、同じく、早稲田出身の北原白秋 (ゆりかごのうた からたちの花)、野口雨情 (十五夜お月さん 七つの子 シャボン玉)とともに、童謡界の三大詩人と謳われました。
当の西條さんは、「かなりあ」「肩たたき」「鞠と殿様」など、今も我々の心に残る童謡を残しています。
「唄をわすれた金糸雀(かなりあ)は後ろの山に棄てましょか?」と問う「かなりあ」には、一つのエピソードがあります。
西條さんは、大正の初めの一時期、株式相場にのめりこみました。なんとしても(平成のお金にして)50億円という大金を稼いで、詩人会館を作るという大きな夢があったのです。そして、49億円までため込みました。詩人にしておくには惜しい才能ですね(笑)。
ところが、大正9年の株暴落で無一文になってしまいます。
当然、その株に夢中だった間は、創作は行っていません。
当然のように、親戚たちは、西條さんの奥さんである春子さんに、離婚を勧めました。
春子さんは、自分がなんとか旦那さんを立ち直らせると言い張り、離婚をせず、添い遂げたそうです。
これを機に、西條は創作に打ち込み始めます。
そこで生まれたのが「かなりあ」でした。
歌を忘れた“かなりあ”は、西條さん自身のことだったのです。そして、♪いえいえそれは かわいそう……の部分は、まさに、妻の春子さんの言葉だったのですね。

西條さんには、もうひとつ想い出がありました。
少年時代のクリスマス、教会で切れた電球の真下にいた“かなりあ”。それが、まるでさえずることを忘れた鳥のように、哀れに思えたそうです。
西條は、「わたしはいつか自分自身がその『唄を忘れたかなりあ』であるような感じがしみじみとしてきた」と自叙伝に著しています。
このように、西條さんは、単なる作り話としての詩ではなく、自分を投影するスクリーンとして詩を書いていると言えます。また、ヒットをとばしている多くの作家が、自分の人生をその作品の中に滲ませているのです。
創作のエピソードを見ていくと、作家の人となりがよく分かる訳です。

さて、奥様の春子さんという名前で、ふと気が付くのは西條さん作詞の「王将」です。
坂田三吉という天才棋士の人生を描いた大ヒットですね。この奥様が、小春さんなのです。
ご存知の通り、「王将」は1961年にリリースされた村田英雄最大のヒット曲です。

実は、村田さんとディレクターの斎藤昇さんや事務所の社長が、西條邸を訪れて作詞の依頼をしたのですが、「男の歌詞は書かない!」と言下に断られました。
ところが、男・村田さんは、連日、西條さんのもとに頭を下げに来たそうです。
ある日、雨の中、村田さんは濡れながら西條先生を待っていると、春子奥様が可哀相と家の中に招き入れてくれたそうです。
そして、奥様の取りなしで西條さんに、もう一度頼みました。これを機に、西條先生と一緒に食事をすることとなり、村田さんの豪快さや人間味に触れた西條さんは、あの名曲「王将」を生みだすこととなったのです。
後日、作品を受け取りに西條邸をたずねると、原稿用紙には最初の一行「吹けば飛ぶような将棋の駒に」だけが書かれていたそうです。
ここで村田さんに語った言葉が西條先生の創作の秘密を教えてくれています。
「 (作詞では)出だしが肝心。この1行が歌の全て。これを作るまでが大変。いい出だしができれば、その後の詩も自然といいものができる」
確かに、西條さんの歌詞を思い出すとき、その一行目が心にスッと蘇ってきますね。

さて、西條さんといえば、舟木一夫さんを忘れることが出来ません。
西條さんの没後、形見分けとして、西條さんが生前に書きためた文章や未完の詩などを、全て舟木さんが受け取ったそうです。
それ程の師弟愛があったのですね。

舟木さんと西條さんの最初のコラボレーションは、先生が70才を越してからのこと。
舟木さんのデビュー曲「高校三年生」は、西條さんのお弟子さん作詞家の丘灯至夫さんでした。
若い舟木一夫こそ、自分の作品を託すのに最高の人材と見抜いたのでしょうか? 西條先生は丘さんに「自分にも舟木の為に歌詞を書かせてくれ」とさりげなく頼んだそうです。

ここでのエピソード!
西條さんは、しばらく前から作品を書いていませんでした。「先生はここ数年作品を書いていないのはなぜですか?」という無邪気な舟木さんの質問に、自分の奥さん(春子さん)が亡くなって、仕事をして金を稼いでも使ってくれる奥さんがいないのじゃぁ仕事をする意味も無くなってしまった……と答えています。

実は、作詞家の星野哲郎先生も奥様が亡くなった後、急に老け込んでしまったのを覚えています。
作家を支えているのは、奥様なんだなぁと思わずにはいられません。

舟木さんとの最初の作品は、「花咲く乙女たち」でした。少女を花にたとえ清らかに歌い上げる世界感は、デビュー当時の舟木さんとドンピシャでした。
西條さんの直感は当たったのです。
実は、西條さんは、吉屋信子などと並んで、少女小説の代表的な書き手でした。苦しみに耐えた少女達が最後には幸せを掴んでいくという少女小説の世界感!
まさに、舟木さんと西條先生の接点であったのでした。
そしてその後、あの名曲「絶唱」が生まれました。

西條さんの幅広さを伺わせるエピソードを最後に一つご紹介しましょう。
昭和九年ごろ早稲田大学で教鞭を執っている時の話です。
先生は、フランスの詩人ランボーの長詩「酔いどれ船」について注釈を述べていたそうでです。
すると、教室外の道路からチンドン屋さんが♪昔恋しい銀座の柳……と先生作詞の「東京行進曲」をにぎやかに演奏しはじめました。
学生たちはいっせいに爆笑。
西條さんは「わたしの歌は流行しているのですね」ととぼけた口調でつぶやきながら、そのまま講義を中止してしまったそうです。
このギャップこそ、西條さんの本質であり、魅力なのでしょうね!

西條八十さん、苦(九)が無いようにと 九を飛ばして付けられた八十という名にとどかず70才台後半で亡くなってしまいました。

もし、その頃に国民栄誉賞があれば確実に先生は手にしていたことでしょう!
なぜなら、先生の代表作と言っていい「青い山脈」は、作曲の服部良一さんも、歌唱の藤山一郎さんも、国民栄誉賞を受賞しているからです。

今一度、先生の音楽に耳を傾けたいですね!

著者・野口義修

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