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「昭和の作詞・作曲家列伝」裕次郎との運命的な出会い~なかにし礼。著者・野口義修

さて、今回は、日本歌謡曲の黄金時代をその素晴らしい歌詞で支え、小説や舞台、TVのコメンテーターなど多方面で幅広く活躍されているなかにし 礼 (なかにし れい 本名 中西 禮三<なかにし れいぞう> 1938年9月2日 - )さんをご紹介いたします。

なかにしさんは、その人生において、壮絶な光と影を体験してきています。
光……常人ではおよそ見当もつかない「曲(作詞)を出せばヒット、小説を書けば受章」といった華やかなその天才から発せられるまばゆいばかりの光!
影……終戦、満州からの引き上げ、貧困、退学、退学、浮気、離婚、兄の膨大な借金の返済、ガンの闘病からの復活〜と苦しみを背負ってきた人生。光がまばゆければ、まばゆいほどその影は濃くどす黒く見えるのです。

この光と影のセットがなかにしさんを、日本を代表する作詞家、作家に育て上げたことは、間違いないでしょう。
凡人は、チャンスを探し求め、万が一見つけても門前払いされるのが常ですが、天才は、チャンスのほうから手招きをしてくれるといいます。
なかにしさんは、人生をかけた大一番のチャンスの神様からの手招きを経験しています。
25才のなかにしさんの最初の新婚旅行の夜、下田のホテルのロビーにいたなかにしさんを“手招き”する人がいたそうです。
それが、なんとホテルのバーで飲んでいた石原裕次郎さん! 当時28才頃。
数多いる新婚旅行のカップルの中で、一番光っている二人を選んで「新婚カップル賞」をあげようという裕次郎さんお得意のお遊びで、なかにしさんカップルを選んだのでした。
裕次郎さんは『太平洋ひとりぼっち』の撮影で来ていていたのです。
その頃のなかにしさんは、フランス語を猛勉強中で、学生ながらシャンソンの訳詞でそうとう仕事もあったそうです。
それを裕次郎さんに伝えると、
「 (そんな外国の歌の訳なんかやめちゃって)日本の歌を書けよ。書いて俺のところに持ってきたら、俺が売り込んでやるよ」と(軽く)言われました。
まさにチャンスの神様からの手招きです。
そのあとすぐ映画『太平洋ひとりぼっち』が封切り(1963 年)されて、裕次郎さんの「俺も一生懸命つくってるんだから、観てくれよ」の言葉を思い出し、観に行きました。
その映画のワンシーンが、もう一つのチャンスでした。
太平洋での難局を切り抜けた後、ハワイ放送のラジオから、村田英雄の「王将」が流れてくる場面。
裕次郎さん(映画では主人公の堀江謙一役)が、「♪吹けば飛ぶような 小さなヨットに賭けた命を 笑わば笑え」と涙ぐみ、嵐の静まったヨットの中でベッドに横になるシーンでした。
そのときになかにしさんは、相当ジーンときて、「これはちょっと日本の歌を書いてみるのもいいかなあ」と思ったそうです。
ひょっとすると、裕次郎さんもこのシーンと王将という歌に、大きな意味を感じていて……若いなかにしさんに、日本の歌! 歌謡曲の歌詞を書いて欲しい!そして君なら出来る! そう直感したのではないでしょうか?

一年後、自身の作詞作曲で「涙と雨にぬれて」という楽曲を持っていき、石原プロの裕圭子 (ひろけいこ) とロス・インディオスでレコーディングされたのです。作詞家、なかにし礼の誕生です。
裕次郎さんの、仁義に厚く約束を守るところに、なかにしさんはほんとうに感激したそうです。
その後、裕次郎さんから「今度デビューさせる黛ジュン、あの子のことは礼ちゃんに任せるからな。よろしくたのむよ」と連絡があり、実際、彼女に書いた「恋のハレルヤ」は大ヒットしました。

大ヒットした菅原洋一さんの「知りたくないの」では、洋一さんとやり合います。
歌詞の中の「過去」という単語。今では当たり前の歌詞の言葉ですが、当時(1965年頃)、こういった漢字文字でしかも鋭いカ行(破裂音)の連続はメロディーに馴染まないというのが洋一さんの頑固な意見。
「過去」こそ、この歌詞のへそ(キーワード、売り言葉)だ! (洋一さんも)プロならプロらしく歌いこなせ! となかにしさん。
まだ、ヒットもない学生上がりのなかにしさんも一歩も引かなかったらしいです。
でも結果は、大ヒット。洋一さんの代表曲となりました。

また、なかにしさんが作詞・作曲した黒沢年男 (現:黒沢年雄)の大ヒット曲「時には娼婦のように」(1978年)は、同年に映画化となり、自らが企画・脚本・主演・歌唱も行うマルチぶりを発揮しました。まさに、なかにしさんの天才を示す作品ですね。この歌を改めて聴くと、まずはその歌詞のエロティックな響きに耳が行きます。70年代の歌謡界において、タブーとも言える内容をアーティスティックに歌詞として完成させた才能!
そして、そのメロディーに注目です。なにしろ作曲もご本人です。
そのリズム、語るような旋律~やはりシャンソンです! なかにしさんが、愛してやまないフランスのシャンソンの世界感が色濃く漂っているのです。
シャンソンには、日常の恋や人生が、日常の言葉で歌われています。なかにしさんの歌詞の世界も同じです。
やはり、なかにしさんの原点はシャンソンなのでしょう。

さて、ここでなかにしさんが初めて訳詞を手がけた頃を振り返ってみます。
学費が払えず、やむなく大学を2度も中退して、シャンソンの聴けるお店(御茶ノ水駅前のシャンソン喫茶『ジロー』)でボーイとして働き、学費を貯金していた頃です。
あるシャンソン歌手に恋をして、ラブレターを書きました。
その返事には
「あなたの思いを叶えることはできないけれど、あなたの手紙はとても詩的だから、私のシャンソンの訳詩をしてくれないか」
とありました。
そのときの訳詩料は500円。時給23円の時代の学生には、夢の様な金額ですね。
安アパートの家賃1ヶ月分になったそうです。
そして、訳詞で一生懸命資金を貯め、大学に復学しました。
なかにしさんの人生には、そんな出会いがいっぱいあったのですね。

さて、人生の大恩人、裕次郎さんが自分の死を自覚しながら、なかにしさんに歌詞を発注しました。

♪たったひとつの 星をたよりに
はるばる遠くへ 来たもんだ
長かろうと 短かろうと
わが人生に 悔いはない……

加藤登紀子さんが作曲して素晴らしい歌が生まれ、数十万枚という大ヒットもしました。
1987年4月21日にリリースされ、同年7月17日に裕次郎さんは永眠されます。
あの下田のホテルで、素晴らしい出会いのチャンスをゲットしたのは、裕次郎さん自身だったのかもしれませんね。

なかにしさんの作品は、作詞作曲したロス・インディオス「知りすぎたのね」をはじめ、黛ジュン「天使の誘惑」、ザ・テンプターズ「エメラルドの伝説」、ペトロ&カプリシャス「別れの朝」、いしだあゆみ「あなたならどうする」、奥村チヨ「恋の奴隷」、ザ・ピーナッツ「恋のフーガ」、弘田三枝子「人形の家」など、4000曲を数えます。
小説では、『兄弟』(実の兄弟を描く)、『長崎ぶらぶら節』(22回直木賞を受賞)、『赤い月』(映画化・テレビドラマ化・ラジオドラマ化で100 万部に迫るロングセラー)、『てるてる坊主の照子さん』(NHK連続テレビ小説『てるてる家族』原作)など大ヒットの連続です。

2012年ガンの闘病から復帰され、まだまだ現役! のなかにし礼さん。
さあ もう一度、なかにし礼さんの手がけた名曲の数々を聞きましょう!


著者・野口義修

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