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四天王が駆け抜けた青春歌謡の時代(上)~著・鈴木清美 (2012年4月の記事より)

 東京スカイツリーの開業まで、いよいよ2カ月を切りました。3月22日から始まった個人入場券の予約受付では早朝から旅行会社の前に行列ができるなど、工事中から注目を集めてきた人気も過熱の度合いを増してきています。昭和30年生まれのおじさんとしては「東京タワーも忘れないでね」と思わず呟いてしまうわけですが、今回は、その東京タワーが誕生した1958(昭和33)年にスタートし、テレビ揺籃期を代表する歌謡番組として多くの人々の記憶に刻まれている「ロッテ歌のアルバム」と青春歌謡の時代を振り返ってみようと思います。

 「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まったのは、1958(昭和33)年5月4日のことでした。
 現在も、桜前線の北上がニュースで伝えられるこの時期には、開幕したばかりのプロ野球が話題を提供してくれていますが、昭和33年と言えば、東京六大学野球で立教大学の黄金時代を築いた長嶋茂雄選手が読売巨人軍に入団した年ですから、世の中の耳目は、後年、「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれることになるスーパールーキーに注がれていたはずです。
 当日の新聞を確認してみると、紙面の上半分近くがラジオ番組欄で占められていて、テレビ番組欄としては、ラジオ番組欄の4分の1ほどのスペースが割かれているだけです。
 テレビのチャンネルもNHKと日本テレビとKRテレビ(現在のTBS)の3局しかなく、放送時間も朝7時台から夜10時台までとなっています。
 しかも、日曜日であるにもかかわらず、午前中のプログラムは一塊で紹介されているため、現在なら、新番組として華々しく紹介されているであろう「ロッテ歌のアルバム」も、「0・00 ◇15 歌 曽根史郎他」と1行でしか表記されておらず、番組タイトルさえ見当たりません。小さなスペースしか割かれていないテレビ番組の解説部分でも、全く言及されていないので、新番組として「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まることを知っていた人は一体何人いたんだろう、と今更ながら心配になってしまいます。
 『民間放送50年史』(社団法人・日本民間放送連盟)によると、1958(昭和33)年のNHK受信契約件数は、ラジオの1170万9173件に対して、テレビは僅か1万6779件にすぎません。前年の1485件からは10倍以上も増加しているとはいえ、ラジオの契約台数に比べると約700分の1という割合となりますから、「知る人ぞ知る」という状態だったのだろうと思われます。
 「一週間のご無沙汰でした」のキャッチフレーズでお馴染みとなる玉置宏さんも、「ロッテ歌のアルバム」の放送が開始される前は、ラジオの東京文化放送で主婦向けの情報番組を担当していました。
 2003(平成15)年にレコード会社8社による横断企画として発売されたCD「ロッテ歌のアルバム」にナレーションで参加している玉置さんは、当時の状況を次のように振り返っています。
 「この番組を、新しいテレビの歌謡番組を作ろうとしていたTBS(当時はKRテレビ)、スポンサーに決まっておりました当時のロッテ製菓、それに、広告代理店といった関係者が聞いてくれまして、司会の候補として白羽の矢を立てていただいたのでございます」
 当日の新聞紙面では、詳細が不明だった新番組の内容についても、同じCDの解説書に掲載されている玉置さんの文章で言及されており、「第1回の出演者は『若いお巡りさん』の曽根史郎、『哀愁の街に霧が降る』の東宝映画スター山田眞二、雪村いづみの妹=朝比奈愛子」というようなメンバーだったそうです。
 第2回は、「喜びも悲しみも幾歳月」の若山彰さんや「ここに幸あり」の大津美子さんなど、第3回は、歌う映画スター鶴田浩二さんやデュークエイセスなど。それ以降は、春日八郎さん、藤島桓夫さん、田端義夫さん、小坂一也さん、岡晴夫さんといったビッグスターをメインに放送が続けられました。
 株式会社ロッテが1998(平成10)年に発行した『ロッテ50年のあゆみ』では、「ロッテ歌のアルバム」がスタートした1958(昭和33)年について、「歌謡曲からポピュラーへの転換期。神戸一郎、青木光一など青春歌手、山下敬二郎、ミッキー・カーチスなどウエスタン歌手登場。新人として村田英雄、小林旭出演」と記されています。

 「ロッテ歌のアルバム」をリアルタイムで知る世代の皆さんにとって、番組の冒頭でBGMに乗って響き渡る「お口の恋人ロッテ提供、『ロッテ歌のアルバム』」という玉置さんの歯切れの良い番組タイトルと、それに続く「一週間のご無沙汰でした。司会の玉置宏です」というお馴染みのキャッチフレーズは、今でも耳にはっきりと残っているのではないかと思います。
 でも、この「一週間のご無沙汰でした」という名セリフが、実は、玉置さんのオリジナルではないということを知る人は少ないかもしれません。
 レコード会社8社の横断企画CDのナレーションで、玉置さんは、第2回から使い続けて自身の代名詞ともなったキャッチフレーズについて、次のように告白しています。
 「当時のラジオ東京の人気番組『素人寄席』の司会をやってらした漫談家の牧野周一さんが時折使っておられました。この番組がテレビ番組としてスライドしていった時に司会者も交代しました。そこで、私は、牧野さんが出演中の上野・鈴本演芸場へ、この『一週間のご無沙汰』をいただきにあがりました」
 後年、テレビの番組で一緒に司会をすることになった時、牧野さんに「あなたのおかげで、あの言葉が全国区になりましたなぁ。礼を言いたいのは私の方ですよ」と言われ、玉置さんは本当に嬉しく思ったと述懐しています。
 「ロッテ歌のアルバム」がスタートした当時、24歳だった玉置さんは「歌謡曲に関する知識はほとんどゼロだった」ため、ありとあらゆる資料を集めたり、各レコード会社から毎月の新曲テスト盤を送ってもらい、聞きまくったりしたそうです。
 ビデオテープが開発される前の時代で、もちろん、番組はナマ放送ですから、時間内に収めるために25秒のイントロを15秒に縮めて本番に入るというようなことも珍しくありませんでした。玉置さん自身も、自分で紹介コメントを短く作り変えなければならないといった苦労もしたそうですが、「番組の流れを壊さないように工夫を重ねているうちに、世間一般からは玉置節などと言っていただけるようになった」と振り返っています。
 放送開始当初はTBSだけの放送でしたが、玉置さんをはじめ番組スタッフらの努力により、ネット局はどんどん増えてライバルの日本テレビ系列にも割り込み、完全全国ネットの番組に成長していきました。
 放送スタート当初、「宣伝効果が上がれば、どんどん、ネット局を増やしていきますよ。一所懸命、やってください」と玉置さんにハッパをかけたプレハブの宣伝部には、「ハリスを倒せ」(※「ハリス」はライバル会社のガムのブランド名)という張り紙がしてあったというのも時代を感じさせるエピソードです。

 「ロッテ歌のアルバム」の放送が始まった1958(昭和33)年は、2月8日から1週間にわたって東京・有楽町の日劇で「第1回ウエスタンカーニバル」が開催され、ロカビリー旋風が巻き起こった年でもあります。
 そのロカビリー旋風の熱も冷めやらない1960(昭和35)年。番組が念願の完全全国ネットを実現したこの年の7月、ビクターから粋な着流し姿の少年が股旅演歌で鮮烈なデビューを飾りました。
 ♪潮来の伊太郎 ちょっと見なれば
  薄情そうな 渡り鳥♪
 昭和30年代後半から40年代にかけて、「いつでも夢を」と「霧氷」で2度もレコード大賞を受賞した橋幸夫さんが、「潮来笠」で颯爽と登場したのです。
 私事となりますが、筆者が初めて覚えた歌謡曲も、実は、この「潮来笠」でした。
 当時、毎週日曜日になると、自宅と同じ長岡市内にあった母親の実家へ連れていかれ、お昼の店屋物などを食べさせてもらいながら見ていたテレビの画面には、必ず「ロッテ歌のアルバム」が映し出されていたものです。まだ、5歳だった自分が、レコードを聞いたり、ラジオを聞いたりすることはありませんでしたから、この「潮来笠」を最初に覚えてしまったのは、間違いなく「ロッテ歌のアルバム」の存在があったからでした。
 『ロッテ50年のあゆみ』には、「新人・橋幸夫、『ロッテ歌のアルバム』でテレビ初出演」と記されており、玉置さんの文章によると、「彼のテレビ出演は、1960年6月26日、「ロッテ歌のアルバム」108回、フランク永井ショーの新人紹介コーナー」だったそうです。「潮来笠」の発売はこの年の7月ですから、レコードがリリースされる前に、テレビでデビュー曲を披露したことになります。あるいは、筆者も、この時の「ロッテ歌のアルバム」を見ていたのかもしれません。
 玉置さんは、「潮来笠」前後の事情を、次のように振り返っています。
 「橋幸夫さんの成功以降、歌謡界の人気者は十代のアイドルが中心になりました。(中略)もちろん、それ以前にも、美空ひばりさんを筆頭に、十代のスターは時折、現れました。しかし、みんな、例外的な存在でございました」
 流行り歌は“大人の娯楽”だったのであり、「潮来笠」も大人向けの企画として誕生したわけです。玉置さんは、「それを17歳の若者が歌ったところに清々しく新鮮味がございました。思いがけなく、若いファンが激しく動きました。レコード業界は若い購買層を開拓する新しいビジネスを発見したわけでございます」と指摘しています。
 そして、この橋さんの成功を受けて、レコード各社は十代のアイドルスターを誕生させるべく動き始め、やがて、コロンビアの舟木一夫さん、クラウンの西郷輝彦さんが登場し、橋・舟木・西郷の御三家と三田明を含めた四天王を中心とする青春歌謡の熱いムーブメントが広がることにになるわけですが、その展開は、次回の連載で続けさせていただきます。

著者・鈴木清美

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