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2013年12月

ラジオが生んだヒット曲(下)著者・鈴木清美

 前回は、南こうせつさんが1972年(昭和47年)10月から1974年(昭和49年)3月までの1年半にわたり、TBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」のパーソナリティーを務め、かぐや姫による「神田川」の大ヒットもその間の出来事だったことを書かせていただきました。その直後に新聞の夕刊で南こうせつさんの連載記事が始まり、大ヒットの裏話にも言及されていましたので、改めて、筆者にとっても思い出深い「神田川」をめぐるエピソードを続けさせていただくことにします。

 「神田川」の大ヒットにより、リアルタイマーの同世代の間でかぐや姫の存在を知らない人はいないほど全国区の超人気フォークグループとなりましたが、「神田川」をヒットさせたのは第2次かぐや姫であったことを知る人は少ないかもしれません。初代かぐや姫は、1970年(昭和45年)に「酔いどれかぐや姫」というシングル曲でクラウンからデビューし、五木ひろしさんや八代亜紀さんなどを輩出した「全日本歌謡選手権」にも出場したことのある異色グループでした。
 森昌子さんの「越冬つばめ」を作詞した石原信一さんの著書『あの日フォークが流れていた』(シンコーミュージック)の中で、南こうせつさんは「レコード会社のキャンペーンに振り回されていましたね。このままでは僕が音楽をやろうとしたメッセージが伝わらなくなると思って、グループを再結成したんです」と当時を振り返っています。
 レコードセールスよりもライブを中心にして、自分たちの音楽を直接広めていこうという方針に転換し、1971年(昭和46年)9月には、吉田拓郎さんや小室等さんの六文銭などをゲストに招いて、日本青年館ホールで華やかな結成コンサートも開いています。同時に発売された再デビュー・シングル「青春」のB面に収録されていた「山椒哀歌」を作詞したのが、後に「神田川」を書くことになる喜多条忠さんでした。
 数年前に放送された「神田川」をテーマにしたテレビ番組で、南こうせつさんは、喜多条忠さんとの出会いについて、次のように語っています。
 「文化放送にレコード会社の人と売り込みに行った時に、まだ無名だった放送作家の喜多条さんを紹介してもらい、『混沌とした時代に面白いことやりたいよね、詞を書いてみない』と強引にお願いしました」
 1973年(昭和48年)7月に発売された3枚目のアルバム「かぐや姫さあど」に収められている「神田川」には、興味深い誕生秘話が残されています。
 前述のテレビ番組によると、アルバム制作のために、当時はまだ珍しかった16チャンネルの録音機材を備えたスタジオを、レコード会社が半日だけ押さえることに成功。発売日までのスケジュールを逆算すると「今日が締め切り」という日に、徹夜明けで番組の収録を終えたばかりの喜多條忠さんに、南こうせつさんがアルバム用の作詞を依頼したものの、いったんは「無理」と断られてしまいます。
 ところが、タクシーで放送局から家に帰る際、視界に飛び込んできた神田川を見て「この川の上流で学生時代に一緒に暮らした女性がいたんだ…」と感慨にふけった喜多条さんの頭に浮かんだのが、あの「神田川」のイメージだったのでした。

 一気に詞を書き上げた喜多条さんが、その日の夕方、完成したばかりの詞を電話で伝えてきた時の様子を、南こうせつさんは鮮明に覚えているそうです。
 「ファックスもメールもない時代でしたから、そばにあった新聞のチラシの裏側にボールペンで書きとめました。それでも、『赤い手ぬぐいマフラーにして』とか変な歌詞だなと思いつつ、書きとめているうちにメロディーが浮かんできて、全部書き終えた時には、ほぼメロディーが出来上がっていました」(前述のテレビ番組)
 実は、筆者も一度、学生時代に喜多条さんのお宅にお邪魔したことがあり、喜多條さんが学生運動を行っていた早稲田大学の2年生当時、3畳一間の彼女の家に転がり込んで同棲生活を送っていたというお話を聞かせていただいてことがありました。「同棲していたのは、この人じゃないんだけどね」と、横にいらっしゃった奥様と目を合わせながら苦笑されていたのを鮮明に覚えています。
 結局、「神田川」も収録されたアルバム「かぐや姫さあど」からシングルカットされたのは、山田パンダさんの作詞・作曲による「僕の胸でおやすみ」でしたが、冒頭でも書かせていただいた通り、アルバムが発売された年からTBSラジオの深夜放送「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを務めた南こうせつさんが、番組で「神田川」を紹介したところ、大反響を呼んだのでした。
 「『神田川』はアルバムのB面の1曲にすぎず、レコード会社も何の関心も払わなかった。ある日、パックインの番組の中でかけたら翌日、段ボール箱2つ分のリクエストはがきが届いた。これはすごい。オリコンで何位までいくか、僕たち3人は『こっくりさん』という当時、はやっていた占いをやってみた。結果は72位。そんなもんかと思っていたら、神田川は、あっという間にオリコン1位まで駆け上がった」(日本経済新聞・2013年11月19日夕刊「こころの玉手箱/南こうせつ[2]」)
 アルバム「かぐや姫さあど」から急きょシングルカットされた「神田川」は、ミリオンセラーとなる爆発的な大ヒットを記録し、続いて発売された「赤ちょうちん」「妹」もヒット。ヒットした曲の映画化など、メンバーの気持ちとはかけ離れた形でのビジネス展開に戸惑いを感じたかぐや姫は、1975年(昭和50年)4月に突然解散しますが、かぐや姫はデビューから3年半ほどの間に、シングル300万枚・アルバム677万枚という不滅の大記録を打ち立てました。

 「神田川」は、楽曲を歌ったミュージシャンが自ら担当するラジオ番組で紹介し、大ヒットにつながったケースですが、この昭和40年代末から50年代初めにかけては、全国のラジオ局のフォーク担当ディレクターが自らの推薦する曲を積極的に放送し、ヒット曲が相次いで誕生した時期で、石原信一さんは著書『あの日フォークが流れていた』の中で、その代表曲がイルカの「なごり雪」だったと記しています。
 伊勢正三さんの作詞・作曲による「なごり雪」も、「神田川」と同様にかぐや姫のアルバムに収録されていた曲でした。イルカのレコード制作を担当していたユイ音楽出版の陣山俊一ディレクターは、「ラジオ局に遊びに行くと、あの『なごり雪』はもったいない。誰かに歌わせることはできないだろうかとよく言われたんです。僕もこの曲を歌うことで一人のアーティストが売れると思いました」と語り、かぐや姫の解散で残された名曲が、イルカによって1975年(昭和50年)リリースされるにいたった経緯を振り返っています。
 「なごり雪」の編曲は、荒井由美さん(当時)の曲のアレンジをしていた松任谷正隆さんが担当しましたが、ピアノのシンプルなタッチで始まるイントロの長さは、レコーディングの際、半分に短縮されました。「イントロが長いと、その分、歌が途中でカットされかねない」と考えた陣山ディレクターが、松任谷正隆さんに説明して納得してもらったそうです。「なごり雪」大ヒットの背景には、ラジオを大きな武器として展開する戦略が立てられれていたのでした。
 石原信一さんによると、「陣山俊一にとってイルカの『なごり雪』のプロモーションはラジオ局回りしか考えられなかった。75年当時、まだ、CMとのタイアップもなく、テレビに出るとアーティストの寿命は短くなると言われていた」のに加え、テレビをはじめとするマス媒体も、「『フォークは若者のものであり一般大衆の音楽ではない』という認識があった」と指摘。ラジオ局内部でも同様で、フォーク担当ディレクターは少数派だったため、逆に、「彼らは若者の音楽文化を担っているというプライドがあったし、新しい音楽の波を自分たちで作ろうとしていた」(石原信一さん)そうです。
 同時に、この頃から広がり始めた「ニューミュージック」という言い方をめぐり、石原信一さんは、「荒井由美の従来のフォークと差別化したニューミュージックという言葉とは違って、イルカの場合、フォークをより大衆と結びつける形のニューミュージックだった」と喝破しています。
 1960年代の半ばに、マイク眞木さんの「バラが咲いた」やブロードサイドフォーの「若者たち」、森山良子さんの「この広い野原いっぱい」、荒木一郎さんの「空に星があるように」など、キャンパス・フォークともカレッジ・フォークとも呼ばれた一連の楽曲が、当時の若者の間に広まっていくうえで、ニッポン放送の「バイタリス・フォーク・ビレッジ」をはじめ様々なラジオ番組が大きな役割を果たしました。そして、フォーク・クルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」を世に送り出して以降も、数多くの名曲を世に送り出してきた深夜放送に代表されるラジオの若者向け番組は、フォークやニューミュージックが時代を代表する音楽として地位を固めるのを支え、今も歌い継がれる数多くの名曲を残してくれたのでした。

著者・鈴木清美

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Jポップの革命児、井上大輔。「昭和の作詞・作曲家列伝」著者・野口義修

さて今回は、Jポップの革命児、井上大輔(いのうえ だいすけ、1941年9月13日 - 2000年5月30日)さんをご紹介いたします。
井上さんは、東京都出身のミュージシャン、作編曲家です。本名の井上忠夫として、GS(グループサウンズ)の王者、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのボーカル&フルート/サックス奏者としての印象の方が強い方も多いのではないでしょうか?

井上さんは、日大芸術学部出身です。同大学の後輩には、ザ・ゴールデン・カップスのデイブ平尾さんがいます。
また、『機動戦士ガンダム』などで知られる巨匠の富野由悠季監督は、井上さんの大学の同級生。この事実は、井上さんのキャリアに大きな意味を持っています(後述)。
大学では、映画学科演出コースから音楽学科作曲部門に移って勉強したそうです。
冨野さんとの出会いも必然であったわけですね。
日大時代には、学生バンドを作ってジャズ喫茶などでモダン・ジャズを演奏していたそうで、その時(1963年)、ジャッキー吉川にスカウトされブルー・コメッツ(ブルコメ)に参加しました。
井上さんは、このバンドで数々の伝説的なヒット曲を書きました。GSというと若手作家が楽曲提供をして、それを演奏するというイメージが強いのですが、井上さんに限っては、大卒でインテリしかも理論にも通じている本格派であるという点で、一線を画している存在でした。
ブルコメのレコードデビューは、1966年3月。GSブームの2年ほど前です、彼らのサウンドを理解する人も少なかったため、日本コロムビアの海外レーベルから英語の歌詞「青い瞳」でデビューしたのです。
このシングルは、今聞いてもカッコ良く井上さんの、そしてブルコメの実力が十分発揮されています。
実際、井上さんは、本質的に洋楽系のロックやインテリジェンスあふれる曲をやりたかったのでした。

デビューの年に、いきなり大きな仕事が舞い込みます。ビートルズ武道館公演に前座として参加したのでした。
まだ若かった井上さんに、ビートルズの演奏は計り知れない影響を与えたはずです。
井上さんは、その後、GS自体の運命を変えるほどの作曲をします。
それが、「ブルー・シャトウ」(作詞:橋本淳、作曲:井上忠夫、編曲:森岡賢一郎)です。
同曲は、1967年3月15日に発売され、レコード売上150万枚というブルコメ最大のヒット曲となりました。そして、第9回日本レコード大賞を受賞したのです。
長髪で何となく不良っぽいという印象だったGSが、この曲のヒットによって、音楽的にも社会的にも認知された形になりました。
それは、井上さんのインテリな部分が下支えをしていたと言えるでしょう。
しかし、彼はこの1曲で後に大きく後悔をするのです。
この曲は、橋本淳さんに歌詞を見せられて、ほんの3分で出来たメロディーでした。
井上さんの中の日本的な部分がスッと表現された楽曲だったのですが、それは当時の井上さんの思い描いていた音楽感やGSの進むべき方向性とは、真逆の音楽だったというわけです。
正直、レコード大賞を取った時点で「ここで終わった」と感じたそうです。また、「もうブルコメはやめよう」とも真剣に考えました。
井上さんが、ミュージシャンとして本当に追求したかったのは、下半身で感じるポップスでした。
自分が作った「ブルー・シャトウ」で、図らずもGS全体の方向性を歌謡曲の方にシフトさせてしまったわけですから、井上さんの葛藤は計り知れないですね。
しかも、♪森とんかつ~~泉にんじん~~かこんにゃく~~まれ天ぷら……と、尻取りソングのように子供達に広がったのですから、その替え歌は、おそらく井上さんの心をチクチクと刺したでしょう。
翌年、ブルコメは「ブルー・シャトウ」の邦楽バージョンをひっさげて、アメリカの人気音楽番組、(ビートルズもそれに出演しブレイクしたという)エドサリバンショーに出演します。
イントロでメンバーのキーボード奏者、高橋さんの琴をフィーチャーし、まるで邦楽のように歌い出します。
その後、英語訳で歌い、最後は日本語オリジナルバージョンで締めくくります。
素晴らしい演奏でした! やはり、心の底では井上さんの叫びが聞えてきそうです。

GS時代に、井上さんに大きな影響を与えたのは、当時の日本の歌謡界を支えていた作曲家やアレンジャー達でした。
宮川泰、東海林修、筒美京平……といった素晴らしい才能達に、自分自身負けていると感じていたそうです。
ですから、ブルコメ解散後は、迷わず、作家の道に進んだのです。

その後の井上さんの活躍には目を見張るものがありました。
フィンガー5「学園天国」「恋のダイヤル6700」、シャネルズ(のちのラッツ&スター)「ランナウェイ」「街角トワイライト」「め組のひと」、郷ひろみ「2億4千万の瞳~エキゾチック・ジャパン」、沢田研二「きめてやる今夜」「どん底」、葛城ユキ「ボヘミアン」 、シブガキ隊「NAINAI16」「処女的衝撃」「100%…そうかもね」「ZIGZAGセブンティーン」「挑発∞」、鈴木聖美「TAXI」 、ヴィーナス「キッスは目にして」(編曲)……etc. まさに、大ヒットメーカーですね。

たとえば、シャネルズ(ラッツ&スター)。
ラジカセ『ランナウェイ』のCMソングを歌わせるアーティストを探していた井上さんは、黒塗りの面白いバンドがいると聞きつけ、早速会いに行きました。
彼らは、アメリカの1950年代のロカビリー・サウンドが得意なバンドでしたが、井上さんに言わせると、自分がGS時代に出来なかったことを形にしているバンドでした。
GSが、歌謡曲に曲がってしまわなければ、シャネルズのような形もGSに生まれていたはずだと感じたのです。
だから、彼らには自分の音楽的なノウハウや演奏法、歌い方など徹底的に指導したそうです。
音楽には、実験的な部分が必要であるというのが井上さんの考えです。
だから、割と自由に出来るCMソングという制作現場で、彼は様々な実験を行ったのでした。
「ランナウェイ」も、最初はCMだけのはずが、狙いが当りシャネルズ(ラッツ&スター)のデビュー曲としてミリオンを記録しました。

裏方として作曲やプロデュースの世界で頑張れば頑張るほど、自分がフロントで歌いたいという想いも強かったのでした。
しかし、なかなか自分でのヒットは難しかったのですが、大学の同級生との出会いで、その願いが叶いました。
機動戦士ガンダムの映画の主題歌「哀・戦士」です。
実は、ガンダムのアニメ映画を作ることになった富野由悠季監督は、「CMをやっているような人が、受けてくれたら、アニメの楽曲、やっぱりちょっと変わってくんじゃないのかな。であの、ダメ元でとにかく、やってくれっていうのを僕のほうからお願いした」のだそうです。
ある意味、その後のアニメ音楽の大きな流れを作ったといっても過言で無い意味のあるコラボでした。
また、監督は……井上さんについて
「なまじ名前が出てしまった後って、本当に大変だ! 作曲家として割り切ってしまえば、食っていけるけれど、井上さんはやはり歌いたいんだ!だから、このガンダムの仕事をベースメントにしようとなりふり構わずやってくれた!」
といった内容のことを語っています。

井上さんは、常に革命児として、世間や業界、仲間、ファンなどに、戦いを挑みながらやってこられたと思います。
1975年頃から、洋子夫人が体調を崩し入退院を繰り返すといった闘病生活が続いていました。介護や看病は井上さんが、20年以上にわたって、自身で行っていたそうです。そんな中、ご自分も重度の網膜剥離となってしまいました。

そして、2000年、自らあの世へ旅立たれました。享年58歳、遺書には「洋子 ごめん もう 治らない」と書かれていたそうです。
翌年、洋子さんも大輔さんを追うように自ら命を絶ってしまいました。
お二人のご冥福を心よりお祈りしたいと思います。

Jポップの革命児、井上大輔さんの作品の数々をもう一度聴いてみませんか?

著者・野口義修

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テレビが人気を加速させたグループサウンズ(下)著者・鈴木清美

 このシリーズでは、(上)で「ザ・ヒットパレード」と「ヤング720」、(中)で「今週のヒット速報」と「歌のグランドショー」を取り上げてきましたが、最終回では、1966年(昭和41年)をホップ、1967年(昭和42年)をステップとすれば、いよいよジャンプとなる1968年(昭和43年)を中心にグループサウンズ(GS)に特化した番組を振り返りながら、GS人気を加速させた当時のテレビ音楽番組を総括してみることにします。

 ジャッキー吉川とブルーコメッツが「ブルーシャトウ」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)で第9回日本レコード大賞を受賞した1967年(昭和42年)は、GS全盛期を象徴する年だったわけですが、そのブームが最高潮に達した時期は、同年の夏から翌1968年(昭和43年)の夏までの1年間ほどだったように記憶しています。
 1968年(昭和43年)1月1日の新聞テレビ欄を見ると、前年の元旦の紙面に名前が掲載されていたのはブルコメくらいだったのが、1年後にはブルコメをはじめ、田辺昭知とザ・スパイダース、ザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズ、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズ、ザ・テンプターズなど10以上のグループ名が登場するまでになりました。
 さらに、番組自体も、GSだけ出演するものが4つもあるほか、個々の番組の中においても、当時の流行り歌の世界でGSがひとつのジャンルとして確立された存在となっていたことをうかがわせるような構成になっており、NHKを除く在京の民放5局すべてがGSの登場する番組を放送しています。
 当日の新聞紙面から番組と出演者を拾い出してみると、次の通りです。

日本テレビ…14:00-15:15「初春歌の大饗宴(第一部)『四つの太陽』」美空ひばり、橋幸夫、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、田辺昭知とスパイダース/15:15-16:25「初春歌の大饗宴(第二部)『グループ・サウンズ・フェスティバル』」ブルーコメッツ、ザ・スパイダース、ザ・カーナビーツ、ザ・ジャガーズ、アウトキャスト/19:00-19:30[カラー] 「あなた出番です」ザ・ドリフターズ、ザ・ジャガーズ、ザ・ピーナッツ、伊東ゆかりほか

TBSテレビ…07:20-08:00「ヤング720」ザ・タイガース、ザ・ワイルドワンズ、ジュディ・オング、山田太郎、浜田光夫/13:00-14:00[カラー] 「夢のゴールデンコンビショー」①舟木一夫、吉永小百合②ブルーコメッツ、ザ・スパイダース③美空ひばり、橋幸夫/15:00-16:00「お年玉プレゼントショー・新春クレージー読本」クレージーキャッツ、中尾ミエ、布施明、ザ・タイガース、梓みちよ、田辺靖雄

フジテレビ…16:00-18:00「新春かくし芸大会」ブルーコメッツ、ザ・ワイルドワンズ、ザ・タイガース、ザ・スパイダース (※GSのみ)

NETテレビ…13:00-14:00「レッツゴーグループ・サウンズ」(浅草国際劇場から録画中継) ザ・ジャガーズ、ブルーコメッツ、ザ・スパイダース、ザ・カーナビーツほか

東京12チャンネル…11:00-12:00「カーナビー・ヤングポップス'68(フィリップス・レコードフェア) 」カーナビーツ、ジャガーズ、テンプターズ、ザ・マイクス、リンド・アンド・リンダーズ、レモン・レモンズほか/19:30-20:00「ジャポップストップ10」ザ・モップス、ザ・ダイナマイツ、ビーバーズ、ガリバーズ、F・B・Iほか

 いかがでしょうか。
 後年のレコード会社各社によるジャンル横断型のコンピレーションCDや当時のヒットランキングなどでは、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)までのGS全盛期であっても、GSは流行り歌の世界における「ワンノブゼム」でしかなかったような位置づけに見えることが多く、音楽シーンを席巻していたような印象を持っていたのは、僕らのようなGS大好き少年だけの錯覚だったのではないかと考えることもあったりするのですが、この1968年(昭和43年)元旦の新聞テレビ欄を見る限り、「GSが音楽シーンを席巻」という印象も決してGS大好き少年の錯覚などではなかったことを証明してくれているように思います。
 それにしても、この昭和43年正月時点におけるブルコメとスパイダースの別格ぶりには、驚かざるをえません。
 特に、日本テレビが14:00から16:25まで2時間25分の枠で放送した「初春歌の大饗宴」では、ブルコメとスパイダースは第一部と第二部の両方で登場し、しかも、「四つの太陽」と銘打たれた第一部での競演者は、美空ひばりさんと橋幸夫さんという大御所二人だったわけですから、GSの中にあっても、この2つの老舗グループの格の違いを示しています。
 また、TBSテレビが13:00から14:00までの枠でカラー放送した「夢のゴールデンコンビショー」でも、一組目が舟木一夫さんと吉永小百合さん、3組目が美空ひばりさんと橋幸夫さんで、その二組に挟まれて2組目として登場するのがブルコメとスパイダースという流れになっていて、この番組構成もブルスパのブルスパたる所以を物語っているようです。
 NETテレビでは13:00から14:00の1時間枠で、“演歌の殿堂”と呼ばれた新宿コマ劇場に次ぐ演歌歌手の晴れ舞台というイメージが強い浅草国際劇場から「「レッツゴーグループサウンズ」という番組を録画中継しており、もちろん、この番組にもブルコメとスパイダースは登場しています。
 さらに、大晦日の紅白歌合戦と並ぶ年末年始の定番大型番組として国民的人気を獲得し始めていたフジテレビの「新春かくし芸大会」(16:00-18:00)にも、ザ・タイガースとザ・ワイルドワンズと共に、ブルコメとスパイダースも出演者として名前を連ねていました。1969年(昭和44年)からはTBSが大晦日にレコード大賞の授賞発表音楽会を独占生中継するようになり、「レコ大・紅白・かくし芸」がテレビ界における年末年始の“三種の神器”的存在となっていったわけですが、「新春かくし芸大会」は既にブラウン管から姿を消し…という表現も既に死語でしょうから、ブラウン管改め液晶画面から姿を消し、レコ大も大晦日から12月30日に移動してしまったため、年末年始の昭和テレビ模様も今は昔の話となりつつあるのかもしれません。
 さて、話を本題に戻しまして、東京では後発のテレビ局だった東京12チャンネルも、11:00から12:00の1時間枠で「カーナビー・ヤングポップス'68」、19:30から20:00の30分枠で「ジャポップストップ10」という2つの番組を放送しており、こちらにはブルスパこそ登場しないものの、リンド・アンド・リンダースやモップス、ダイナマイツ、ビーバーズ、ガリバーズなどマニアックなGSが出演していますから、当時のGSファンは、チャンネルをハシゴすれば、正月元旦から1日中、居ながらにしてディープなGS三昧を楽しめたわけです。タイムマシンがあるなら、ビデオデッキを担いで当時に戻り、朝から晩までひたすら番組を録画してきたいものだと思わずにいられません。

 この元旦の新聞テレビ欄に漂うGS全盛期の濃密な空気は、そのまま、1968年(昭和43年)の年間を通じてブラウン管にも映し出されることになります。
 地方都市出身のGS大好き少年だったリアルタイマーとしての私の記憶を辿ると、この連載シリーズの第11回「テレビCMに刻まれたグループサウンズ」でも書かせていただいたように、21世紀に入ってからコマーシャル映像のBGMとして復活を遂げたヴィレッジシンガーズの「亜麻色の髪の乙女」(作詞・橋本淳/作曲・すぎやまこういち)やワイルドワンズの「バラの恋人」(作詞・安井かずみ/作曲・加瀬邦彦)などがヒットしていたこの年の春辺りが、世の中におけるGS濃度が一番高い時期だったように思えますので、その時期のテレビにおける音楽番組の状況を確認してみることにしましょう。
 1968年(昭和43年)4月の朝日新聞縮刷版で4月8日(月)から14日(日)までの1週間にわたる番組表で、出演者としてGSの名前が掲載されている番組数は、延べ25本ありました。
 「延べ」と書いたのは、月曜日から土曜日まで1週間のうち6日間も放送されていたTBSの「ヤング720」が含まれているからです。
 「ヤング720」については、この連載のシリーズの(上)でも、フジテレビの「ザ・ヒットパレード」とともに、GS黎明期にブームへの道筋を作った貢献度の高い番組として紹介させていただきましたが、それから2年後のGSブーム全盛期においても、その役割を果たし続けていたわけです。
 この週にカウントしたGS出演番組の中には、ワイルドワンズが出演した「桂小金治アフタヌーンショー」やタイガースが登場した「スター千一夜」、「ケメ子の唄」(作詞・作曲/馬場祥弘)のザ・ジャイアンツが出演した「パンパカ天国」などワイドショーやバラエティなども含まれていますので、純度の高い音楽系番組だけに絞ると17本という数になりました。
 また、この週では、たまたまGSのグループ名は入っていなかったものの、登場頻度が高かったと思われる音楽番組として「歌のグランプリ」と「ヤングステージ」があり、恐らく、この1968年(昭和43年)春の頃に、GSの出演頻度が高かった音楽番組は週間当たり20本前後だったものと思われます。1日当たりの平均では約3本ということになるわけですから、やはり、当時のテレビにおける音楽番組の比率は今よりも高かったようですし、それらの音楽番組がGSブームを支えていたことは間違いなさそうです。
 さらに、GSだけしか出演しない、あるいは、GSの出演比率が極めて高い番組としては、月曜日から順に挙げていくと、「ヤング720」から「あなた出番です」「ヤングジャンボリー」「ジャポップストップ10」「ザ・ヒットパレード」「若さで歌おうヤアヤアヤング」「レ・ガールズ」「トップバラエティ」「今週のヒット速報」まで10本を数えます。このうち、完全なGS特化番組と言えるのは、「若さで歌おうヤアヤアヤング」だけですが、この頃に僕が見ていたはずの完全GS特化番組で山内賢さんが司会を務めていた「レッツゴーヤングサウンズ」は見つけられませんでした。
 1968年(昭和43年)の1月と3月のテレビ欄を確認したところ、1月に新番組として始まった「グループ・サウンズヒット10」という番組は3月までのワンクールで終了したようですし、1月の時点で放映されていたスパイダース・テンプターズ・サベージなど日本フィリップスのGSが出演していた「ゴー・ゴー!ゴー!!」という番組も4月の時点では姿を消していますので、あるいは、「レッツゴーヤングサウンズ」も含めて、GS完全特化番組のサイクルは非常にめまぐるしいものだったのかもしれません。
 この1968年(昭和43年)は5月にオックスが「ガール・フレンド」(作詞・橋本淳/作曲・筒美京平)でデビュー。「ダンシング・セブンティーン」(同)、「スワンの涙」(同)と連続ヒットを飛ばして、先行していたタイガースやテンプターズの人気にも迫ろうかという勢いを示す一方で、キーボードを担当していた赤松愛さんの失神パフォーマンスが社会現象化するまでになりました。
 しかし、そうした喧騒とは裏腹に、全盛を極めたGSブームも、翌1969年(昭和44年)の3月にタイガースの加橋かつみさんがグループを脱退した辺りを境に、その勢いが急速に衰え始めていき、1970年代に入るとほとんどのグループが姿を消してしまい、1971年(昭和46年)1月24日に武道館で行われたタイガースの解散コンサートで、GSブームは事実上の終焉を迎えました。
 それでも、特に1967年(昭和42年)と1968年(昭和43年)のGSブーム全盛期に生み出された多くのヒット曲は、後年になって多くの歌手やグループによってカバーされたり、テレビCMで復活するなど、スタンダード化した楽曲も少なくありません。「亜麻色の髪の乙女」や「バラの恋人」以前には、ザ・ジャガーズの「君に会いたい」(作詞/作曲・清川正一)やスパイダースの「なんとなくなんとなく」(作詞/作曲・かまやつひろし)などもビールや自動車のCMに登場して、オールドファンを喜ばせてくれました。
 また、GSブームが終焉した後も、主要グループのメンバーの多くが、ソロ歌手として活躍したり作曲家やプロデューサーとして日本の音楽シーンをリードしてきた事実も、音楽ムーブメントとしてのGSが単なるブームではなかったことを証明しており、GSリアルタイマーとしては本当に嬉しい限りです。

著者・鈴木清美

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テレビが人気を加速させたグループサウンズ(中)著者・鈴木清美

 前回は、「GS(グループサウンズ)元年」とも言うべき1966年(昭和41年)を中心に、テレビの音楽番組におけるGSの台頭を振り返ってみましたが、今回は、「GS全盛期」の始まりとなった1967年(昭和42年)のテレビの音楽番組、特に、GSブームを如実に反映することになるフジテレビ「今週のヒット速報」と、NHKとGSの微妙な関係の引き金となった当時のNHKの看板音楽番組「歌のグランドショー」を軸に、良くも悪くも加熱するGSブームの追い風となったテレビの存在を検証してみたいと思います。

 ジャッキー吉川とブルーコメッツ (以下ブルコメ)が「ブルーシャトウ」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)を大ヒットさせ、田辺昭知とザ・スパイダースも「太陽の翼」(作詞・作曲/利根常昭)(以下スパイダース)で安定した人気を維持し、ザ・タイガース(以下タイガース)が「僕のマリー」(作詞・橋本淳/作曲・すぎやまこういち)のデビューから一気にスターダムへの階段を昇り始めた1967年(昭和42年)4月、フジテレビで新番組「今週のヒット速報」(毎週金曜日の20:00-20:56)がスタートしました。
 この連載コラムの第7回で取り上げさせていただいたテレビの音楽番組史上に燦然と輝く「夜のヒットスタジオ」の露払い的な存在だったとも言えるのが「今週のヒット速報」ですけれども、フジテレビの歴史においても看板番組の一つであることは間違いない「夜のヒットスタジオ」の印象があまりにも強いため、この「今週のヒット速報」はリアルタイマーの皆さんにとっても記憶の薄い番組になってしまっているかもしれません。
 NHKを離れてフリーアナウンサーになっていた高橋圭三さんが司会を務めた「今週のヒット速報」の放送が始まったのは4月7日のことで、当日の新聞のテレビ番組欄によりますと、記念すべき第1回の出演者は「石原裕次郎・加山雄三・舟木一夫・橋幸夫・西郷輝彦・水原弘・水前寺清子他」となっており、銀幕の大スターと一大ブームを巻き起こした若大将と御三家が揃い踏みするという豪華絢爛な顔ぶれですが、残念ながら、GSはこの中に名前を連ねていませんでした。
 それでも、番組が始まった4月中の21日と28日にはスパイダースが出演、5月以降は、全盛期を迎えるGSブームを反映するようにGSの登場頻度が高くなり、6月2日にはブルコメとスパイダースが顔を揃えています。当日のテレビ番組欄から出演者を引用させていただきますと、「石原裕次郎、ブルーコメッツ、橋幸夫、西郷輝彦、ザ・スパイダース、扇ひろ子、園まり他」というラインナップでした。
 1967年(昭和42年)6月というタイミングですから、ブルーコメッツは「マリアの泉」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)、スパイダースは「風が泣いている」(作詞・作曲/浜口庫之助)といったヒット曲をひっさげての登場だったものと思われます。
 「今週のヒット速報」の番組欄を見ていると、月を追う毎に出演者の名前に占めるカタカナの割合が高くなりますが、1967年中は、番組欄をすべてカタカナが占めるというようなことはありませんでした。
 しかし、1968年(昭和43年)に入ると、二年越しに及ぶGS全盛期がピークを迎える5月には、10日と17日の番組欄で「ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ワイルドワンズ、サ・スパイダース」、24日と31日の番組欄で「ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ワイルドワンズ、ブルーコメッツ」という風に、出演者が全てカタカナだけになってしまいます。
 この現象は6月に入っても続き、7日と14日は「ザ・タイガース、ザ・フォーク・クルセダーズ、ザ・ワイルドワンズ、ザ・テンプターズ」となっており、21日に「ザ・タイガース、ザ・テンプターズ、ザ・ワイルド・ワンズ、ロス・プリモス、伊東ゆかり」という形で漢字と平仮名が入るまで、実に6週間にわたって、番組欄がカタカナで占められるというGS全盛期ならではの事態が発生したのでした。
 漢字の名前の歌手の皆さんに比べ、カタカナ表記のGS名が長いということもありますけれども、あえて、新聞の番組欄にGSしか表記されていないという事実は、GSがランキングの上位を占めていたことやGSの名前を出した方が視聴率も上がるといったテレビ局の思惑などを反映するものでもありそうです。

 一方、GSが登場する頻度の高かったNHKの歌番組として、リアルタイマーの皆さんの記憶にも残っているのが「歌のグランドショー」(毎週日曜日の19:30-20:15)ということになるのではないかと思います。
 1967年(昭和42年)当時の新聞のテレビ番組欄で確認してみますと、1月8日にザ・サベージ、2月5日と4月30日にスパイダース、6月4日にザ・ワイルドワンズ (以下ワイルドワンズ)、6月18日には再びスパイダース、7月9日にブルコメ、8月6日にもスパイダース、9月10日にも再びブルコメ、10月15日には5回目のスパイダース、11月19日には再びワイルドワンズという登場の仕方で、1月から11月までの間に、4グループが延べ10回にわたって出演しており、語り草となっている「長髪GSはNHKには出られなかった」という伝説(?)も見事に覆される展開となっています。
 ちなみに、この1967年(昭和42年)に各グループが最初に登場した回の出演者を、新聞の番組欄からそのまま引用させていただくと次の通りです。

 1月8日=村田英雄、三田明、三沢あけみ、高橋元太郎、東ひかり、ザ・サベージ、金井克子、アントニオ古賀、中尾ミエ、一竜斉貞鳳
 2月5日=西田佐知子、西郷輝彦、畠山みどり、荒木一郎、ザ・スパイダース、藤山一郎、金井克子、アントニオ古賀、中尾ミエ他
 6月4日=西郷輝彦、三田明、藤ひろ子、ザ・ワイルドワンズ、ドンキー・カルテット、金井克子、アントニオ古賀、小野満と楽団他
 7月9日=舟木一夫、朝丘雪路、井沢八郎、山田太郎、青江三奈、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、いかりや長介とザ・ドリフターズ(「他」なし)

 如何でしょうか。金井克子さんと中尾ミエさん、アントニオ古賀さんの3人は、どうやらレギュラーあるいは準レギュラーとしての出演だったようですが、演歌の大御所から御三家、フォークからGS、コミックバンド、講談に至るまで、あらゆるジャンルをカバーする音楽の坩堝とも言うべき状態ですけれども、それだけに、当時の流行り歌の世界でGSが一つのジャンルとして確固たる地位を占めていたことを物語っているとも言えそうです。
 実は、筆者自身も、当時、小学6年生だったとはいえ、一応、曲がりなりにもリアルタイマーでありながら、「歌のグランドショー」にブルコメ以外のGS、特に、スパイダースがそんなに出演していたということは、今回、当時の新聞の番組欄を子細に調べさせていただいて、初めて知ったというのが実情で、本当にびっくりしました。
 リアルタイマーのくせに、そこまで意外に思うほどの印象しか残っていないのか、疑問に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう風に思い込んでしまっていた背景には、当時のGSファンなら誰もが強烈に覚えているはずの「歌のグランドショー」に関わる大きな出来事があったからなのです。

 1967年(昭和42年)11月6日付の朝日新聞朝刊・社会面に「将棋倒し、20人重軽傷/奈良のザ・タイガース公演、8千人が押合う」という見出しで、次のような記事が掲載されました。

[奈良]飛石連休最後の五日の日曜日、奈良市あやめ池遊園地の野外劇場で、アトラクションのエレキバンドの公演に殺到した観客が押合い、各所で将棋倒しとなって、二十数人が重軽傷を負った。けが人は十代の男女が多く、詰めかけたファンは高校生がほとんど。
 同日午後二時前、奈良市あやめ池北町、あやめ池遊園地内で催されている毎日新聞社主催「あやめ池菊人形幕末明治百年記念」のアトラクションとして、あやめ池遊園地内の野外劇場で、グループ・サウンズ「ザ・タイガース」の公演第一回が終わり、二回目の入替えがおこなわれたとき、場外で列を作って入場を待っていた約八千人が入口めがけて、どっとくずれたため、木ワクで作った仮設の入り口付近で身動きできない観客があちこちで折重なったり、踏みつけられたりした。

 この事件を受けて、NHKは既に収録済みで11月12日に放映が予定されていた「歌のグランドショー」について、ザ・タイガースが出演していた部分をカットして放送することを決定。この出来事を境に、「ミリタリールックで長髪のグループサウンズはNHKには出演させない」ことがNHK上層部の決断として、局内に徹底されることになったのです。
 上述した通り、その翌週の11月19日の「歌のグランドショー」にはワイルドワンズが出演していますから、ビジュアル的にはアイビー系で“湘南さわやかサウンド”だったワイルドワンスは「セーフ」だったことになりますが、これ以降、タイガースはもちろん、スパイダースなどもNHKの歌番組からは姿を消すことになりました。
 筆者のように小学生だったファンにとっては、あまりにも強烈な出来事で、その強烈さの故に、それ以前にNHKでスパイダースを見た記憶など吹っ飛んでしまい「NHK=長髪GS締め出し」という印象だけがインプットされ、その後は、半ば都市伝説化したエピソードが独り歩きを始めたというようなことなのかもしれません。
 タイガースのメンバー自身が不祥事を起こしたわけではなく、たまたま、警備の手薄だった会場でコンサートを行ったため、不幸にして事故が起き、ファンが重軽傷を負ったという事実の重さを前に、プロダクションも含めて反論の余地はなかったというのが実情だったのだろうと思われます。
 事件後に発売された『週刊平凡』1967年(昭和42年)11月30日号は、「ザ・タイガースが緊急作戦会議!! 」という4ページ構成の記事で、東京・四谷にあった合宿所でのメンバーによる座談会を紹介。タイガースのリーダーだった岸部一徳 (当時は修三)さんは、次のように語っていました。
 「わるいことはなにもやってないのにオロされるという事態にぶつかって、まったく信じられない気持ちなんだ。世の中にこんなことがあっていいのだろうか、という気持ちだよ」
 また、沢田研二さんの次のような発言も紹介されています。
 「スパイダースも11月15日(原文ママ)の『グランド・ショー』がダメになったということで、うちだけの問題じゃなくなったね。グループ・サウンズ全体のことになってきたような気がする」
 瞳みのるさんが40数年ぶりにタイガースのメンバーとして復帰する契機となった「SONGS」をはじめ、最近数年間のNHKの音楽番組での沢田研二さんのソロ歌手としての出演や再結成されたタイガースの武道館ライブなどを見ていると、リアルタイマーとしてはNHKの贖罪意識すら感じてしまったりするわけですが、NHKの現場にいる若いスタッフの皆さんは、往年のエピソードなど知らずに番組を作っているのかもしれません。
 「長髪」が「NHKから締め出し」の理由として正当化された時代も、遠い昔のことになってしまいました。

著者・鈴木清美

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「僕らのモバイル音楽大賞」は7回目を迎えた

今年(2013年)も、昭和の青春ポップスが主催する「僕らのモバイル音楽大賞」を12月4日に発表した。
大賞には、千賀かほる「真夜中のギター」(作詞・吉岡治、作曲・河村利夫)、特別賞には、高田みづえ「硝子坂」(作詞・島武実、作曲・宇崎竜童)と、堀ちえみ「リ・ボ・ン」(作詞・三浦徳子、作曲・松田良)の2曲を選んだ。
いずれも、当サイトではユーザーから根強い支持を得ての受賞だ。
とくに大賞曲「真夜中のギター」は、1969年の発売から40年以上が経つが、これまで実に多くの歌手にカバーされてきた。そして、音楽配信は今年が解禁年だった。
さて、この賞は「ケータイやモバイルから往年のアーティストや名曲を再発掘し、また、リバイバル曲や埋もれた曲を再び世に送り出し、世代を超えて愛され親しまれる楽曲を称えること」を目的に設立。
〜過去の名曲、リバイバル曲に賞があってもいいじゃないか〜そんな思いから作ったのですが、早いもので7回目を迎えました。
今回もまた、原盤をお持ちのレコード会社、プロダクションに、ささやかながら賞状と盾をお渡しに伺いました。
賞の意図をご理解くださってのことか、ご担当の皆様には大変喜んでいただき光栄です。
継続はチカラなりと云います。これからも出来る限り続けて、過去にあった素晴らしい歌に、楽曲に、賞を贈っていきたいと願っています。
最後に、関係各位の皆様、ユーザーの皆様、今年も大変お世話になり有難うございました。
少し早いですが、良いお年をお迎えください。また来年もよろしくお願い致します。

昭和の青春ポップス編集部 川原和博

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テレビが人気を加速させたグループサウンズ(上)著者・鈴木清美

 前回は、TVコマーシャルにリバイバルで登場したグループサウンズ(GS)の名曲や、リアルタイムの当時に話題を呼んだGSによるCMソングなどのエピソードを紹介しました。今回からは、GS全盛時代の1967年(昭和42年)と1968年(昭和43年)の歌番組を中心に、GSの一大ムーブメントづくりに一役かった当時のテレビ番組を振り返ってみたいと思います。

 レコードの世界でGS時代の幕を開けたのは、1965年(昭和40年)5月にクラウンから発売された田辺昭知とザ・スパイダース (以下スパイダース)の「フリフリ」(作詞・作曲/かまやつひろし)でしたが、テレビの世界でGSが一般的に認知されるキッカケを作ったのは、ジャッキー吉川とブルーコメッツ (以下ブルコメ)の「青い瞳」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)だったと言えるのではないかと思います。
 ブルコメのメンバーだった井上忠夫さんがブルコメにとっての初めてのオリジナルとなる「青い瞳」を作ったのは1965年(昭和40年)秋のことで、当時、フジテレビの音楽番組「ザ・ヒットパレード」でブルコメを起用した、すぎやまこういちさんに同曲を聴いてもらい、すぎやまさんのアシスタントだった橋本淳さんが英語で詞をつけたのです。
 「青い瞳」が日本コロムビアから発売されたのは1966(昭和41年)3月で、ブルコメがレギュラー出演していた「ザ・ヒットパレード」で歌っているうちにジワジワとレコードが売れ始めたのでした。
 ブルコメでリードギターを担当していた三原綱木さんは、当時のことを次のように振り返っています。
 「すぎやま先生が『俺が協力するからオマエ達もビートルズみたいに歌ってみろよ』と言ってくれた。『協力する』というのは、番組のヒットチャートで上位曲として『青い瞳』を紹介してくれるということだった」(2000年[平成12年]11月に発売されたCD10枚組『ブルーコメッツ・パストマスターズ・ボックス』解説書)  今なら「ヤラセ」事件として糾弾されかねない話ですが、当時は、おおらかだったというべきなのか、演出の範囲として許容されることだったようで、「青い瞳」は発売から3カ月で10万枚を超えるヒットを記録します。
 それまでは、バックバンド出身でインストルメンタルが中心だったブルコメに歌わせることには消極的だった日本コロムビアも、CBSレーベルで本格的なレコード制作に乗り出すことになり、1966年(昭和41年)7月には日本語詞の「青い瞳」がCBSレーベルからの初めての日本語盤レコードとして発売されました。
 結果的には、これが50万枚を超える大ヒットとなり、9月に発売されたブルー・シリーズ第2弾の「青い渚」(作詞・橋本淳/作曲・井上忠夫)も連続ヒットを記録して、1966年(昭和41年)の大晦日には、ブルコメがGSとして初めてNHK紅白歌合戦への出場を果たすことになります。
 コロムビアのホームページによると、第2弾の「青い渚」も「ザ・ヒットパレード」で7週連続第1位を記録したといいますから、初期のブルコメ人気を支えた一つの要因として、当時の人気音楽番組の存在があったことは間違いないようです。
 再び、レコードの世界に目を転じてみると、ブルコメが「青い瞳」日本語盤をリリースした1966年(昭和41年)7月には、ザ・サベージ (以下サベージ)が「いつまでもいつまでも」(作詞・作曲/佐々木勉)でデビュー、同年9月には、スパイダースの「夕陽が泣いている」(作詞・作曲/浜口庫之助)が発売されて大ヒット、さらに、同年11月には、加瀬邦彦とザ・ワイルドワンズ (以下ワイルドワンズ)が「想い出の渚」でデビュー・ヒットを飾りました。
 この連載では、最初からGSと書かせてもらっていますが、ブルコメが初出場した1966年(昭和41年)の紅白歌合戦で、司会の宮田輝アナウンサーはブルコメが登場する時には「フォークロックを聞いていただきましょう」と紹介しています。つまり、この時点では、まだ、ブルコメやスパイダース、ワイルドワンズなどは「グループサウンズ」とは呼ばれていなかったのです。
 1966年暮れには、既に、スパイダース、ブルコメ、ワイルドワンズと全盛期のGSブームを牽引した老舗グループが顔を揃えることになっていたわけですが、1966年(昭和41年)12月の新聞のテレビ番組欄を見ても、GSのグループ名は見当たりませんし、大晦日の紅白歌合戦の番組欄を見ても、出演者の欄でブルコメの名前にはスペースが割かれておらず、まだ、GSが全国区の認知を得るまでにはいたっていなかったことが推察される状況となっています。
 年が明けて、1967年(昭和42年)正月三が日のテレビ欄でも、日本テレビが元旦のお昼に放送した「新春バラエティ おめでとう'67」に「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」の名前を見つけることしかできませんでした。
 それでも、1月7日(土)のTBS「ヤングジャンボリー」(19:00-19:30)ではスパイダースとブルコメが揃い踏みしたのに続き、1月8日(日)の日本テレビ「ゴールデンショー」(19:00-19:30)にもスパイダース、同日のNHK「歌のグランドショー」(19:30-20:15)にはサベージが登場しており、ブームの兆しを感じさせる雰囲気が漂い始めています。
 一方、そういう状況の中で、忘れてはならない存在として思い出されるのが、TBSが1966年(昭和41年)10月から放送を開始した朝の番組「ヤング720」です。
 この番組は当初からGSの登場頻度の高い番組として、若者の絶大な支持を集め、テレビの世界におけるGS特化番組の先駆け的存在として、大きな役割を果たしたと言えるかもしれません。
 手元の資料(『GS&POPS No.12』)に掲載されている「ヤング720」出演者リストによりますと、放送開始第1週(10月31日[月]~11月5日[土])こそ「弘田三枝子、西郷輝彦・城卓也、湯川れい子、佐々木新一、日野てる子・古谷敏、恵とも子」ということでGSの名前は見当たりませんが、2週目以降は、スイングウエスト (8日)、ワイルドワンズ (12日・22日)、ブルージーンズ (16日・30日)、スパイダース (18日)、サベージ (23日)などの名前が登場し、さらに、12月に入ると、シャープファイブ (3日)、スパイダース (5日・10日・19日)、ブルーコメッツ (6日・20日・27日)、サベージ (17日・30日)ということで、当時のジャズ喫茶を彷彿とさせる頻度で人気グループが出演するようになります。

 放送開始当初から「ヤング720」を手がけていたTBSの高樋洋子さんは、1978年に発行された『TVグラフィティ 1953-1970』(講談社)の「ヤング720騒動記」で、番組黎明期を次のように振り返っています。
 「『ヤング720』がはじまったのは、昭和41年10月31日。この年がどういう年なのかというと、7月1日、忘れもしないビートルズ日本公演という一大イヴェントがあった年である」「今でこそヤング指向のマスコミ、ミニコミは数多くあるが、そのころ“ヤング”が商売になるかもしれないという考え方はまったく新しいものだった。当事者達もあまり自信が持てなくて、大体朝7時20分から8時という時間に、若者は皆、寝てるんじゃないか、と言うのが大多数の意見だった。そこで、とにかくショッパナはロックをガンガン鳴らしてたたき起こしちまえというので、ロックバンドを沢山集めた」
 番組の放送開始当初は、リアルタイマーである僕自身も小学校5年だったため、ほとんど番組を見た記憶はありませんが、GSにはまり始めた翌42年の夏頃からは、高樋さんが書かれている通り、この番組の音で目覚めるようになったものでした。
 この頃には、GSが全盛期を迎え始めることになるわけですが、その辺りの事情についても、高樋さんが書き残してくれていますので、引用させていただきます。
 「この頃、日本のグループサウンズは花盛りで、視聴率も12~15%と、朝のこの時間では考えられない数字を示していた。何しろ、タイガース、テンプターズ、スパイダース、ジャガーズ、カーナビーツ、モップス、バニーズ、ゴールデンカップス、フォーク・クルセイダース、ジャックスなんてのが目白押しなのだもの。こりゃ、こたえられないヨ。化粧室からスタジオへGSが走る、ファンが走る、ファンにまじってミーハー・ディレクター(かくいう私)も走るって騒ぎだった」
 確かに、テレビの画面からは、スタジオの熱気がそのまま伝わってくる感じで、特に、ブルコメやスパイダース、タイガース、テンプターズ、ワイルドワンズ、ヴィレッジシンガーズ、カーナビーツ、ジャガーズなどといった人気の高いGSの曲がテレビから聞こえてきた時などは、それこそ、布団を跳ね飛ばして、テレビの前にすっ飛んで行ったものです。
 逆に、たまたま、早く目が覚めたりして、「今日は、どのグループが出てくるのかな」と思ってテレビの前で待っている時に、名前を知らないグループが出て来たり、GSではなくウエスタン系のバンドなどが出てくると、肩透かしをくらったようで、がっかりしたことを思い出します。

 ということで、今回は、GSブームの黎明期に、テレビの世界でGSの楽曲を世に知らしめる上で、大きな役割を果たした「ザ・ヒットパレード」と「ヤング720」という2つの番組を軸に、当時の状況を紹介させていただきましたが、次回からは、1967年(昭和42年)春以降の音楽番組を中心に、GS人気を加速させたテレビの役割を振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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和製ポップスの黎明期をけん引した作曲家、宮川泰。著者は音楽家、野口義修。

さて、今回は、作編曲家の宮川泰(みやがわ ひろし、1931年3月18日-2006年3月21日)さんをご紹介します。
作編曲家!よく耳にすることばですが、作曲家と編曲家は、それぞれどのような役割になっているのでしょうか?

作曲家は、基本的に歌部分のメロディーのみを考えます。
編曲家は、メロディー以外のすべてを担当します。
イントロや間奏、エンディングなどの仕掛けもそうですし、伴奏に加わるすべての楽器をどう使い、どのように演奏するかを考えるのです。基本的には、楽譜を書いて指示しますから、音楽理論や楽譜の知識(楽典)などを深く理解していないと、とても務まらない大変かつ重要なお仕事です。

作曲家には著作権が認められていて、作った曲が売れれば印税が入ってきます。が、売れなかった曲の印税は、まさに雀の涙と言えます。
編曲家には(特別な例を除いて)著作権が認められていません。編曲は1曲いくらのお仕事です。
どんなに担当した曲が売れても売れなくても、編曲家の手取りは変わりません。

宮川さんは、作曲も編曲も両方ともこなすことの出来る、非常に才能の豊かな作編曲家だったのです。
彼は、日本のポップス<和製ポップス>の黎明期を、ライバルである、いずみたくさんや中村八大さんとともに支え、引っ張ってきました。
その黎明期は、テレビが本放送を始め(昭和28年)、様々な実験番組やトライアルが行われていた時期と重なります。
昭和の30年代、若き日の宮川さんは、テレビを中心に腕を磨き、頭角を現していったのです。
そう、天才テレビディレクターで作曲家の、すぎやまこういちさんが演出した伝説的音楽番組「ザ・ヒットパレード」が、宮川さんの修行の場でした。
毎週、洋楽のヒット曲の日本語カバーを紹介する生番組です。宮川さんは、同じ曲を毎週違う編曲にするなど好き放題に編曲を行い、仕事=勉強の精神で腕を上げていきました。編曲家、宮川泰の基礎固めの道場だったといえます。

この番組では、はじめて作曲家へのチャレンジも行いました。ザ・ヒットパレードで人気が出始めた双子姉妹のザ・ピーナッツ用の曲を作曲したのです。
実は、宮川さんが名古屋のクラブで歌っている彼女らを見出し、東京でデビューできるように段取りを付けたのです。まさに、ザ・ピーナッツの育ての親だったのです。

彼は、最初、結構作曲を舐めてかかり、アメリカのヒット曲(ポールアンカの「ダイアナ」)のコード進行をちょちょいと真似て、やはり、アメリカンポップスやロカビリーにありがちな「ウォウウォウウォウ~」的なフレーズを応用して、気軽に作ったそうです。それが、1962年に発表された、岩谷時子作詞、宮川泰作曲の「ふりむかないで」です。
ところが、結構なヒットに繋がりました。作曲家、宮川泰の誕生です!

味をしめた宮川さんは、次の曲「恋のバカンス」も同じ手法で作りました。
やはり当時の大ヒット曲、ポール・アンカの「ユー・アー・マイ・デスティニー」の伴奏パターンを真似てメロディーを作ったのです。
すると、ピーナッツが所属する事務所の社長、当時の音楽業界のドン、渡辺プロダクションの渡辺晋さんから。
「メロディーは良いけれど、真似になっちゃうから、その伴奏はやめて、4ビートジャズの感じでやったら」とアドバイスを受けたそうです。
ジャズの人気バンド「渡辺晋とシックス・ジョーズ」でピアニスト兼編曲家としても演奏していた宮川さんにとっては、実は一番得意な分野です。
さすが、ナベプロ王国とまで呼ばれたプロダクションを率いた人物のディレクションは、素晴らしかったのでした。そうこうして、作曲家としての宮川さんも育っていきました。

作曲家と編曲家の両方が宮川さんの中でバランスよく絡み合い、大ヒットが生まれたエピソードがあります。
これまた、ザ・ピーナッツの代表曲のひとつ「恋のフーガ」です。
作曲は前出のすぎやまこういちさんでした。宮川さんは、編曲のみの担当。ティンパニーで始まるイントロが素晴らしい編曲にすぎやまさんが感動して、
「この作品の曲は自分だけど、前奏・間奏・エンディングは宮チャンが作曲してくれたんだから、印税をあげたい(すぎやまさん談)」と、作曲印税を宮川さんにも分配したそうです。
前述した通り、本来なら編曲には印税がありません。でも、これで宮川さんにも多額の印税が入ったのでした!
やはり、作編曲家としても卓越した実力を持つ、すぎやまさんならではの暖かい配慮でした。

作曲も編曲もばっちり、ピアノもうまく、TVに出ればダジャレの連発で面白いこと大好きな宮川さん。
この逸材の才能を、ナベプロの大物タレント、クレージーキャッツのリーダー・ハナ肇さんが見逃すわけはありません。なんとクレージーに参加しないかと誘いをかけたそうです。なんでもクレージーのピアニスト、石橋エータローさんが病気がちなのでその替わりという話です。
もし、宮川さんがクレージーキャッツにメンバーとして参加していたら……日本アニメ史上最高の名曲「宇宙戦艦ヤマト」は、生まれなかったかも!?ですね。
ちなみに、クレージー入りのお話は、宮川さんの奥様が即断で「あんな下品なバンドはダメ!」とNOを出して流れたそうです。奥様の直感は正しかった!?

さて、宮川さんの代表作「宇宙戦艦ヤマト」ですが、単にささきいさおさんの歌う主題歌の作曲だけでなく、サウンドトラック全編の作編曲を手がけているのです。
それだけに、ご自分でも「宮川音楽の全てが入っている」とおっしゃるほど作品に入れ込んでいました。
映像とサウンドとの絡みをとても重視して音楽を制作されました。

たとえば、主題歌「宇宙戦艦ヤマト」ですが、さらば地球よ……で始まるAメロは、ヤマトに改造する前の戦艦大和が海底に沈んでいたイメージで、キー(音域)を低く作曲しました。
そして、宇宙の彼方イスカンダルへ……のBメロは、乗組員が隊列を組んで行進しながらヤマトへ乗り込むイメージで、軍歌調にしたそうです。
サビから終わりにかけては、ヤマトが地上から宇宙へ飛び立つイメージから、次第にキー(音域)を高くしたそうです。
映像とサウンドのコラボレーション!
それだけに創作の苦労は並大抵ではなかったようです。作曲にも編曲にも飛び抜けた才能を持った宮川さんだからの苦しみであり、だからこその傑作であったと言えますね。

その宮川さんが「あいつはスゴイよ!」と認めた作編曲家がいます。息子の宮川彬良(アキラ)さんです。彬良(アキラ)さんが、作編曲の仕事(特にミュージカル関係)で素晴らしい音を生みだすようになった頃、父である宮川さんは、「(実力はついた……)「後は、ヒット曲を出すだけだな!」と言ったそうです。
この世界、並に上手いだけではダメだ! 自分を代表するようなヒット曲を出してこそ、はじめて一人前になれる!という厳しくも愛情溢れるアドバイスをしたそうです。
それは、宮川さんご自身の人生を振り返ってのアドバイスでもあったのでしょう。
その後、彬良さんの作曲した「マツケンサンバⅡ」が、ご存知の通り国民的な大ヒットを記録し、その時は、まだ存命だった宮川さんも、心から嬉しかったでしょうね。
そして、本当のライバルとして息子さんを認めたことでしょう。

昭和世代の人間なら、テレビ番組やヒット曲、映画音楽などで、宮川節ともいうべき素敵な作曲や編曲作品を数え切れないほど耳にしているはずです。
ウナ・セラ・ディ東京(ザ・ピーナッツ)、銀色の道(ダーク・ダックス)、逢いたくて逢いたくて(園まり)、涙のかわくまで(西田佐知子)、青空のゆくえ(伊東ゆかり)、シビレ節(植木等)、君をのせて(沢田研二)、巨泉×前武ゲバゲバ90分!のテーマ、ズームイン!!朝!テーマ曲(1979年-2001年)、ズームイン!!SUPERテーマ曲(2001年-2011年)……。
あのゲバゲバのオープニングの粋なこと、楽しいこと! あのズームインの清々しさと元気感!本当に懐かしい曲ばかりです。

さて、2011年の印税ランキング(日本音楽著作権協会<ジャスラック>発表)ベスト10に、宮川さんの作品が2曲も入っているです。印税ランキングというのは、CDやカラオケ、放送、着うた等ダウンロード販売、CMでのオンエア……で、いかに沢山の人に聴かれたかの順位です。7位に「若いってすばらしい」、10位に「ゲバゲバ90分!のテーマ」がランキングされています。 
最近のCMで起用されているとはいえ凄いことだと思います。
宮川さんの楽曲を是非もう一度お聴きください!あの時代がきっと蘇って来ることでしょう。そして、その素晴らしさを再認識出来ると思います。

著者・野口義修

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