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歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる~作曲家・いずみたく。昭和の青春ポップス「昭和の作詞・作曲家列伝」から。著者は音楽家、野口義修氏

今回ご紹介するのは、作曲家のいずみたくさん(1930年1月20日-1992年5月11日)です。
日本の歌謡界、ポピュラー音楽の世界において、いずみさんほど多様な側面を見せる作曲家を僕は知りません。幅が広いという表現では収まらないほどの多面性をもった作家でした。

「いずみたく」という名前をみて最初に思い浮かぶのは……年齢によって違うかも知れませんし、名前は知らないけれど、曲なら知っているのかもしれませんね……坂本九「見上げてごらん夜の星を」、布施明「貴様と俺」(日本テレビの学園ドラマ『青春とはなんだ』挿入歌)、佐良直美「世界は二人のために」、中村雅俊「ふれあい」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、TVアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」、「手のひらを太陽に」、「伊東温泉ハトヤホテル」(CM)、「徹子の部屋」(テレビ朝日系)のテーマ曲……昭和世代なら誰でも知っている名曲ばかりですね。
CMソングから、歌謡曲、ミュージカル、番組テーマ、冗談音楽まで、多岐に渡る作曲活動!!
そして、(今なら必ずこう呼ばれるでしょう)音楽プロデューサー的な活動(後述します)。それでいて元参議院議員(第二院クラブ)。まさに、他の作家の追随を許さない万華鏡の活躍をされていました。
いずみさんは、感性が1番瑞々しく、鋭い十代の頃、太平洋戦争を経験し、15才で終戦を迎えました。戦争がなにであるか、平和とはなにかそれを体と心で感じたと思います。
その後、鎌倉アカデミア演劇科で学び、1950年(20才)で舞台芸術学院演劇学科を卒業しました。
いずみさんが、後年、ミュージカルに目覚めていくのは、こうした下地があったからでしょう。

卒業後、作曲に目覚め、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志(作曲家、芥川龍之介の息子)に作曲の基礎を学んだそうです。いずみさんの根底には、クラシックを学んだという基礎があるのですね。実は、彼の親戚に(現在も大活躍中の)指揮者、飯森範親さんがいて、「子供の頃、クラシックのことは、親戚のいずみたくに教えてもらった」と述懐しています。
いずみさんの転機は公募でした!!
1955年(25才)に、「朝日放送ホームソングコンクール」でグランプリを受賞したのです。公募は、人の人生を変えるほどのパワーを持つことがあります。
そこで審査員をしていた三木鶏郎さん……当時、飛ぶ鳥を落す勢いがあった作曲家……が、いずみさんの才能を買って、電報で自分の仕事を手伝ってほしいと呼び出したそうです。
三木鶏郎さんといえば、戦後の日本を音楽で明るくした天才です。日本で初めてCMソングを作り、CMソングの帝王の座にいた作家で、冗談音楽を極めた粋な才人です。その彼からのお誘い。まさに、人生の転機でした。
いずみさんは、鶏郎さんの運転手をしながら、CMソングを作り始めました。鶏郎さんの回りには、素晴らしい才能を持った若者がいっぱい集まっていました。永六輔、野坂昭如、神津善行、ジョージ川口、小野満、楠トシエ、中村メイコ、なべおさみ、左とん平など、そうそうたる人材!
いずみたくさんも、そうした中でもまれ、刺激をうけ、才能が開花していったのでしょう。
CMソングとしては、前述の「伊東に行くならハトヤ」のハトヤホテルのほか、「明治マーブルチョコレート」、 「チョコレートは明治」(明治製菓(現・明治))などが、有名ですね。

さて、いずみさんには、プロデューサーとしての資質もありました。若い才能を見付けだし、その人に最高の楽曲を作って、世に送り出す!
たとえば、十代の今陽子を「ピンキーとキラーズ」としてデビューさせ、大スターに育て上げたのはいずみさんの力でした。デビュー曲の「恋の季節」は、200万枚を超す大ヒットとなりました。
ピンキーとキラーズ(愛称:ピンキラ)のデビューとほぼ同時期に、イギリスでピンキラと同じ編成のバンドが大ヒットを放ちました。「マンチェスターとリバプール」の「ピンキーとフェラス」です。
いずみさんが、鶏郎師匠から学んだ冗談のセンスで、「よし、ピンキーとフェラスならぬピンキーとキラーズでいっちゃえ」なんてノリで決まったのかも知れません。
また、明治製菓「アルファチョコレート」のCM曲「世界は二人のために」でデビューした佐良直美もまた、いずみさんのプロデュースといえます。1969年の『第11回日本レコード大賞』で大賞を受賞した佐良直美「いいじゃないの幸せならば」も彼の作曲でした。いしだあゆみ、由紀さおりや青い三角定規らも彼のプロデュースでデビューあるいはヒットを飛ばした歌手です。

実は、いずみさんが活躍し始めた50年代から60年代の音楽業界は、作詞家・作曲家はレコード会社専属というのが普通でした。ですから、基本的には、仕事は会社から与えられた歌手への楽曲提供がメインだったわけです。
ところが、クレージーキャッツの楽曲を書いていた「萩原哲晶」(はぎわらひろあき)、「上を向いて歩こう」などの「中村八大」(なかむらはちだい)、「長い髪の少女」(ザ・ゴールデンカップス)などの「鈴木邦彦(すずきくにひこ)」らと共に、いずみさんはどこのレコード会社にも属さない、実力勝負のフリーの作曲家でした。
だからこそ、自由にプロデューサー感覚で若手を育て、世に送り出すことが出来たのでした。逆に言えば、良いもの、売れるものを作らないと、レコードを出すことも出来ないわけです。
だから、メロディーにはこだわりを持ち、歌手や歌詞の力に頼らないという考えを持っていました。「曲が何よりも大切だ」という自負を自著で熱く語っています。
結果、いずみさんの作った作品は、オリジナル歌手を離れて、さまざまな歌手が歌い、人々の心の中に浸透していく事が実に多いのです。
ドリフターズの「いい湯だな」(元歌はデューク・エイセス)、子供の歌として定着している「手のひらを太陽に」(元歌は宮城まり子)、和製フォークの定番曲「希望」(元歌は岸洋子)……なども誰もが知っているいずみたく作曲のスタンダードですね。
いずみさんは、「歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる」という確信を持っていたそうです。いずみさんの原点が、この言葉にあるようです。
誰もが歌えるメロディーを皆が歌ってスタンダードになっていく。つまり、歌で人々の思いを共有していく。その為の音楽作りには、気取った理論や作家の独りよがりな態度は邪魔になります。あくまでも、歌う人ありきの姿勢です。
いずみさんの原点には、戦後の昭和のうたごえ運動、あるいは歌声喫茶のムーブメントがあります。
まさに、歌で思いを共有するというコンセプトですね。

最後に、うたごえ運動で中心的な活躍をしていた「関西合唱団25周年コンサート」に寄せたいずみさんの祝いの言葉を紹介します。
『ボクはいつまでも、いつまでも、良い日本の歌を作曲し続けます。皆サン方は、いつまでも、いつまでも、歌い続け、歌い拡げて下さい。この二つの地道な努力が、日本の平和を守り、日本を素晴らしい国にする道に通じていることを信じています。コンサートおめでとう。成功を祈ってます。【いずみ・たく(作曲家)】』

皆さん、今の日本を思い考えながら、ぜひ、いずみたく作品を味わってみてください。

著者・野口義修

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