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ラジオが生んだヒット曲(中)

 前回は民放ラジオが誕生した昭和20年代から昭和30年代にかけてのラジオの歴史を辿りながら、ラジオが生んだヒット曲の数々を振り返り、昭和40年代半ばに隆盛を極めることになる深夜放送の先駆け的番組となった文化放送の「真夜中のリクエストコーナー」まで書き進めさせていただきました。今回は、昭和40年代前半にスタートしたTBSラジオ・ニッポン放送・文化放送の民放ラジオキー局による深夜放送の黎明期から、フォークシンガーやニューミュージックのアーチストの皆さんがパーソナリティを務め、ラジオから数多くのヒット曲が送り出されるようになる昭和40年代の大きなうねりを振り返ってみたいと思います。

 TBSが「パックインミュージック」の放送を開始したのは、1967年(昭和42年)8月1日(7月31日深夜)のことでしたが、その約8年前の1959年(昭和34年)10月には、ニッポン放送が夜間生活人口の増加と個人聴取の拡大という時代の変化に対応してオールナイト放送に先鞭をつけていました。この時にスタートした「オールナイトジョッキー」は、後年、オールナイトニッポンでも月曜深夜を担当することになる糸居五郎さんがDJを務めて、番組で流す全ての曲を自ら選曲するというスタイルを確立したことで知られています。
 「新しい前進態勢を確立! わが国初の二十四時間放送開始」という見出しが躍るニッポン放送の社内報『いづみ』第19号(1959年[昭和34年]10月10日発行)には、「十月十日---つまり十月九日の深夜午前〇時という時間は、オールナイト放送が、日本ではじめて開始される瞬間であり、ラジオ界にとって画期的な時間として永久に記念さるべきである」と書かれ、オールナイト放送を実現した関係者の高揚感が伝わってきます。
 この社内報の記事は、オールナイト放送の開始について、「最近益々増加の一途をたどっている深夜勤務者を直接的な聴取対象として発足する」ものであると同時に、その企画に当たっては、(1)ラジオ聴取者の家庭単位から個人単位への変化、(2)聴取者の聴取状況からラジオによるアピール度は深夜の方が高いこと、(3)総理府統計局と労働省統計調査部の資料によると、深夜の時間帯における就業者数が午前〇時台=375万人、一時台=247万人、最も就業率が低いとされる二時・三時台でも167万人に達しており、未就寝者を加えると相当数の聴取対象が見込まれ、夜間になると電離層などの関係から全国に届く電波も広がり、多くの人々が新しくラジオの受益者として登場すること、などのポイントが考慮されたと強調しています。
 さらに、この記事では「さし当たって半年くらいは経営的に苦しいと思うが、こうした人たちにサービスする意味で実施することにした」という鹿内信隆専務(当時)の新聞談話も紹介されており、昭和40年代における深夜放送の隆盛も、その原点にこうした英断があったからこそのものだったわけです。
 社内報は、オールナイト放送の開始について、「ニッポン放送が、常にラジオの公共性という本来的使命にのっとり、将来への飛躍に巨歩を踏み出した結果のあらわれであり、またLF(ニッポン放送)の底力を外に向かって示したものとして大いに誇りを感じていいと思う」と結論づけていますが、この自負も我田引水的な誇張ではなく、数年後の展開を見通した慧眼だったということになります。
 『TBS50年史』も、ニッポン放送によるオールナイト放送の開始が「若年聴取層を形成し新しい潮流を生み出していた」と指摘、「ローカルにも追随する社が現れ、66年(昭和41年)10月ラジオ関東が『オールナイト・パートナー』を始めると、TBSもオールナイト放送に背を向けていることができなくなった」と説明しています。
 さらに、若年層にはTBSがオールナイト放送をしない局というイメージが固定化し、「午後10時以降ダイヤルを他局に奪われる傾向も現れた」とも言及されていますから、TBSとしては“背に腹は代えられない”状況ともなっていたようです。

 「パック・イン・ミュージック」の番組名は、シェークスピアの「真夏の夜の夢」で夜になると活躍する妖精にちなんだもので、当初は、午前0時30分から3時までが生放送で、そのあと5時まで「乾宣夫のマジック・ピアノ」など5つの録音番組が並んでいました。
 放送開始時のパーソナリティとしては、増田貴光さんや戸川昌子さん、田中信夫さん、野沢那智さん、白石冬美さん、なべおさみさん、星加ルミ子さん、矢島正明さんなどが名前を連ねており、「最初はむしろ大人のエンターテインメントをねらった」番組だったようです。
 その後、福田一郎さんや若山弦蔵さん、八木誠さん、ロイ・ジェームスさん、永六輔さんらが登場する中で、若い聴取者に向けたメッセージ性の強い番組へと変わっていき、「福田一郎のロック、若山弦蔵・八木誠の音楽情報、『戦争を知らない子供たち』の北山修が発するメッセージなどが引き金となり、ベビー・ブーム世代と言われた若者たちの間に深夜放送ブームを巻き起こした」(『TBS50年史』)のでした。特に、北山修さんについては、「もとザ・フォーク・クルセダーズのメンバーで京都府立医大の学生だった北山修はベビー・ブーム世代に属し、折しも70年安保を前に盛り上がった学生運動と重なって、番組は学生たちの間に共鳴と共感を広げていった」と記されています。
 そのザ・フォーク・クルセダーズによる「帰って来たヨッパライ」そのものも、また、深夜のラジオから世の中に飛び出していったものでしたから、北山修さんによる「パック・イン・ミュージック」への登場は、必然的な展開だったと言えるのかもしれません。
 音楽評論家の田家秀樹さんは『読むJ-POP』の中で、「昭和42年11月5日、ラジオ関西の番組『若さでアタック』でオンエアされた『帰って来たヨッパライ』は、関西地区で爆発的な反響を呼んだ」とと書いており、一般的にも、「若さでアタック」が「帰って来たヨッパライ」を世の中に送り出した番組とされています。その事実関係は間違いないようですけれども、実は、その1カ月ちょっと前の9月26日に「ミッドナイトフォーク」というフォーク番組で初めて電波に乗り、その時の録音テープが「若さでアタック」で再放送されたという経緯だったそうです(「高度成長期マニアックス・ラジオ関西ファンのブログ」)。
 その後、「帰って来たヨッパライ」のヒットに火を付けたラジオ関西の「電話リクエスト」でDJを担当していた木崎義二さんから友人のニッポン放送・亀淵昭信さんに情報が伝わり、亀淵さんの当時の上司だった石田達郎さんの判断で、1967年(昭和42年)10月にスタートしていた「オールナイト・ニッポン」で「帰って来たヨッパライ」が独占的に放送され、全国区の人気に広がっていったのでした。
 『我ら青春の深夜放送で流行ったヒットソング100』(シンコー・ミュージック)によると、北山修さんが「パック・イン・ミュージック」で水曜深夜のパーソナリティを担当したのは、1969年(昭和44年)4月から1972年(昭和47年)3月までの3年間で、この間に、北山修さんが作詞を担当した「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)や「あの素晴しい愛をもう一度」(加藤和彦と北山修)「さらば恋人」(堺正章)などのヒット曲も誕生しています。
 北山修さんは、自切俳人(ジキルハイド)名義で「オールナイト・ニッポン」でも1977年(昭和52年)1月から1978年(昭和53年)3月まで木曜深夜を担当しており、北山修さんとのデュエットで「あの素晴しい愛をもう一度」をヒットさせたフォーク・クルセダーズの元メンバーでもある加藤和彦さんも、北山さんに先行して、1976年(昭和51年)1月から9月まで「オールナイト・ニッポン」で月曜深夜のパーソナリティーを務めました。

 北山修さんの後を受けて1972年(昭和47年)4月から9月まで「パック・イン・ミュージック」で水曜深夜を担当したのは吉田拓郎さんでした。当時、高校生だった筆者は、北山修さんの最終回に吉田拓郎さんが出演し、番組の中でパーソナリティーのバトンタッチが行われるのをリアルタイムで聞きながら、フォークシーンにおける主役の交代劇に立ち会ったような気分になったことを鮮明に覚えています。
 高校1年生から2年生に進級する春の出来事でしたが、筆者が住んでいた新潟県でTBS系列だった地元のローカル局が「パック・イン・ミュージック」の同時放送をようやく開始し、東京の送信所から発出され電離層経由でかろうじて届く微弱な電波を捉えるためにラジカセのチューナーを合わせるという苦労から開放されたのも、この頃のことでした。
 1972年(昭和47年)4月と言えば、「今日までそして明日から」で全国区となった吉田拓郎さんが「結婚しようよ」を大ヒットさせていた時期であり、吉田拓郎さんにとっての初のオリコン・チャート1位曲となる「旅の宿」がリリースされたのは、まさに、「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを担当していた同年7月でしたから、テレビには出演しなかった吉田拓郎さんですが、レコードセールスの拡大とラジオ出演の相乗効果は少なからずあったものと思われます。
 吉田拓郎さんは、その後、1974年(昭和49年)9月から1975年(昭和50年)9月まで「「オールナイト・ニッポン」で月曜深夜を担当したのに続き、1969年(昭和44年)9月からスタートしていた文化放送の「セイ!ヤング」でも1978年(昭和53年)4月から1980年(昭和55年)3月まで金曜深夜のパーソナリティーを務めており、在京3キー局全ての深夜放送を制覇した数少ないフォークシンガーの一人となりました。
 北山修さんに続いて深夜放送に登場したフォークシンガーとしては、やはり元フォーク・クルセダーズのはしだのりひこさんが1970年(昭和45年)4月から「セイ!ヤング」で火曜深夜、同年10月からは同じく「セイ!ヤング」にザ・スパイダースのかまやつひろしさんが木曜深夜を担当。同年10月からは「セイ!ヤング」の火曜深夜をはしだ・かまやつコンビが務めることになりました。
 さらに、1972年(昭和47年)10月には、吉田拓郎さんの後を受けて「パック・イン・ミュージック」に南こうせつさんが登場します。南こうせつさんは、北山修さんが九州大学の教授を退官した際に行われたコンサートで、北山修さんのヨーロッパ旅行中に務めた代役が認められ、「パック・イン・ミュージック」のレギュラーを獲得したと述懐していましたが、1974年(昭和49年)3月までの1年半にわたり水曜深夜を担当。そして、この「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを務めていた1973年(昭和48年)9月に発売された「神田川」は、同年10月から12月にかけて連続7週にわたってオリコン・チャートの首位をキープする大ヒットとなったのでした。
 この「パック・イン・ミュージック」の水曜深夜枠では、1978年(昭和53年)10月から1979年(昭和54年)9月までの1年間にわたって河島英五さんもパーソナリティを務めており、それぞれの時期を代表するようなフォークシンガーの指定席だったとも言えそうです。
 南こうせつさんが1970年代半ばから後半にかけて2度にわたって木曜深夜を担当した「オールナイト・ニッポン」では、泉谷しげるさん(1973年6月~1974年3月・火曜深夜)、あのねのね (1973年7月から1976年9月までの間に4回にわたり水曜深夜と土曜深夜を担当)、武田鉄也さん(1974年4月から1975年12月までの間に3回にわたり木曜深夜と金曜深夜を担当)、イルカさん(1974年8月から1975年9月まで金曜深夜と水曜深夜を担当)、松山千春さん(1977年10月から1981年3月まで2回にわたり水曜深夜と火曜深夜を担当)なども登場。
 文化放送の「セイ!ヤング」でも、さだまさしさんが1974年(昭和49年)10月から水曜深夜のパーソナリティーを務めて人気を集めるなど、まさに、深夜放送は百花繚乱の全盛期を迎えたのでした。
 深夜放送に先行して数多くのフォークソングを世に送り出したニッポン放送の「フォークヴィレッジ」など、今なお語り継がている伝説的な名番組や、昭和30年代から40年代にかけて洋楽のポップスやロックの楽曲情報をいち早く知ることのできる貴重な情報源だったFENなどについては、次回の連載で振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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