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2013年11月

歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる~作曲家・いずみたく。昭和の青春ポップス「昭和の作詞・作曲家列伝」から。著者は音楽家、野口義修氏

今回ご紹介するのは、作曲家のいずみたくさん(1930年1月20日-1992年5月11日)です。
日本の歌謡界、ポピュラー音楽の世界において、いずみさんほど多様な側面を見せる作曲家を僕は知りません。幅が広いという表現では収まらないほどの多面性をもった作家でした。

「いずみたく」という名前をみて最初に思い浮かぶのは……年齢によって違うかも知れませんし、名前は知らないけれど、曲なら知っているのかもしれませんね……坂本九「見上げてごらん夜の星を」、布施明「貴様と俺」(日本テレビの学園ドラマ『青春とはなんだ』挿入歌)、佐良直美「世界は二人のために」、中村雅俊「ふれあい」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、由紀さおり「夜明けのスキャット」、TVアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」、「手のひらを太陽に」、「伊東温泉ハトヤホテル」(CM)、「徹子の部屋」(テレビ朝日系)のテーマ曲……昭和世代なら誰でも知っている名曲ばかりですね。
CMソングから、歌謡曲、ミュージカル、番組テーマ、冗談音楽まで、多岐に渡る作曲活動!!
そして、(今なら必ずこう呼ばれるでしょう)音楽プロデューサー的な活動(後述します)。それでいて元参議院議員(第二院クラブ)。まさに、他の作家の追随を許さない万華鏡の活躍をされていました。
いずみさんは、感性が1番瑞々しく、鋭い十代の頃、太平洋戦争を経験し、15才で終戦を迎えました。戦争がなにであるか、平和とはなにかそれを体と心で感じたと思います。
その後、鎌倉アカデミア演劇科で学び、1950年(20才)で舞台芸術学院演劇学科を卒業しました。
いずみさんが、後年、ミュージカルに目覚めていくのは、こうした下地があったからでしょう。

卒業後、作曲に目覚め、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志(作曲家、芥川龍之介の息子)に作曲の基礎を学んだそうです。いずみさんの根底には、クラシックを学んだという基礎があるのですね。実は、彼の親戚に(現在も大活躍中の)指揮者、飯森範親さんがいて、「子供の頃、クラシックのことは、親戚のいずみたくに教えてもらった」と述懐しています。
いずみさんの転機は公募でした!!
1955年(25才)に、「朝日放送ホームソングコンクール」でグランプリを受賞したのです。公募は、人の人生を変えるほどのパワーを持つことがあります。
そこで審査員をしていた三木鶏郎さん……当時、飛ぶ鳥を落す勢いがあった作曲家……が、いずみさんの才能を買って、電報で自分の仕事を手伝ってほしいと呼び出したそうです。
三木鶏郎さんといえば、戦後の日本を音楽で明るくした天才です。日本で初めてCMソングを作り、CMソングの帝王の座にいた作家で、冗談音楽を極めた粋な才人です。その彼からのお誘い。まさに、人生の転機でした。
いずみさんは、鶏郎さんの運転手をしながら、CMソングを作り始めました。鶏郎さんの回りには、素晴らしい才能を持った若者がいっぱい集まっていました。永六輔、野坂昭如、神津善行、ジョージ川口、小野満、楠トシエ、中村メイコ、なべおさみ、左とん平など、そうそうたる人材!
いずみたくさんも、そうした中でもまれ、刺激をうけ、才能が開花していったのでしょう。
CMソングとしては、前述の「伊東に行くならハトヤ」のハトヤホテルのほか、「明治マーブルチョコレート」、 「チョコレートは明治」(明治製菓(現・明治))などが、有名ですね。

さて、いずみさんには、プロデューサーとしての資質もありました。若い才能を見付けだし、その人に最高の楽曲を作って、世に送り出す!
たとえば、十代の今陽子を「ピンキーとキラーズ」としてデビューさせ、大スターに育て上げたのはいずみさんの力でした。デビュー曲の「恋の季節」は、200万枚を超す大ヒットとなりました。
ピンキーとキラーズ(愛称:ピンキラ)のデビューとほぼ同時期に、イギリスでピンキラと同じ編成のバンドが大ヒットを放ちました。「マンチェスターとリバプール」の「ピンキーとフェラス」です。
いずみさんが、鶏郎師匠から学んだ冗談のセンスで、「よし、ピンキーとフェラスならぬピンキーとキラーズでいっちゃえ」なんてノリで決まったのかも知れません。
また、明治製菓「アルファチョコレート」のCM曲「世界は二人のために」でデビューした佐良直美もまた、いずみさんのプロデュースといえます。1969年の『第11回日本レコード大賞』で大賞を受賞した佐良直美「いいじゃないの幸せならば」も彼の作曲でした。いしだあゆみ、由紀さおりや青い三角定規らも彼のプロデュースでデビューあるいはヒットを飛ばした歌手です。

実は、いずみさんが活躍し始めた50年代から60年代の音楽業界は、作詞家・作曲家はレコード会社専属というのが普通でした。ですから、基本的には、仕事は会社から与えられた歌手への楽曲提供がメインだったわけです。
ところが、クレージーキャッツの楽曲を書いていた「萩原哲晶」(はぎわらひろあき)、「上を向いて歩こう」などの「中村八大」(なかむらはちだい)、「長い髪の少女」(ザ・ゴールデンカップス)などの「鈴木邦彦(すずきくにひこ)」らと共に、いずみさんはどこのレコード会社にも属さない、実力勝負のフリーの作曲家でした。
だからこそ、自由にプロデューサー感覚で若手を育て、世に送り出すことが出来たのでした。逆に言えば、良いもの、売れるものを作らないと、レコードを出すことも出来ないわけです。
だから、メロディーにはこだわりを持ち、歌手や歌詞の力に頼らないという考えを持っていました。「曲が何よりも大切だ」という自負を自著で熱く語っています。
結果、いずみさんの作った作品は、オリジナル歌手を離れて、さまざまな歌手が歌い、人々の心の中に浸透していく事が実に多いのです。
ドリフターズの「いい湯だな」(元歌はデューク・エイセス)、子供の歌として定着している「手のひらを太陽に」(元歌は宮城まり子)、和製フォークの定番曲「希望」(元歌は岸洋子)……なども誰もが知っているいずみたく作曲のスタンダードですね。
いずみさんは、「歌というものは特定の歌手ではなく、様々な人が歌ってスタンダードになる」という確信を持っていたそうです。いずみさんの原点が、この言葉にあるようです。
誰もが歌えるメロディーを皆が歌ってスタンダードになっていく。つまり、歌で人々の思いを共有していく。その為の音楽作りには、気取った理論や作家の独りよがりな態度は邪魔になります。あくまでも、歌う人ありきの姿勢です。
いずみさんの原点には、戦後の昭和のうたごえ運動、あるいは歌声喫茶のムーブメントがあります。
まさに、歌で思いを共有するというコンセプトですね。

最後に、うたごえ運動で中心的な活躍をしていた「関西合唱団25周年コンサート」に寄せたいずみさんの祝いの言葉を紹介します。
『ボクはいつまでも、いつまでも、良い日本の歌を作曲し続けます。皆サン方は、いつまでも、いつまでも、歌い続け、歌い拡げて下さい。この二つの地道な努力が、日本の平和を守り、日本を素晴らしい国にする道に通じていることを信じています。コンサートおめでとう。成功を祈ってます。【いずみ・たく(作曲家)】』

皆さん、今の日本を思い考えながら、ぜひ、いずみたく作品を味わってみてください。

著者・野口義修

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「昭和の作詞・作曲家列伝」(野口義修・著)。生きた言葉を足で捜し続けた作詞家、星野哲郎。

さて、第2回目は、2010年11月15日、ご逝去された作詞家の星野哲郎先生をご紹介します。

「三百六十五歩のマーチ」「函館の女」「アンコ椿は恋の花」などの大ヒット曲で知られる先生の作詞家デビューは、公募からでした。
昭和27年、雑誌「平凡」の歌詞投稿で「チャイナの波止場」が受賞したこと、昭和32年、横浜開港100周年の歌募集で「浜っ子マドロス」「みなと踊り」が1、2位受賞したことなどで才能を見出されました。

後者の審査を務めていたのは作曲家の船村徹先生。通常、公募やコンテストで、1位2位を同じ人が受賞することは、めったにないことです。
審査員の中に、多くの人にチャンスを!といった感情が働くことが多いからです。しかし、船村先生は、本当に素晴らしい作品が2作品あるなら、両方ともに賞を与えなければならない!と決断したそうです。そして、「この人は天才かと思ったし、俺の勘は狂ってなかったことは自分でもうれしかった」と述懐されています。
星野先生の作品は、なぜに多くの日本人の心に残っているのでしょうか? その答えは、先生の創作における姿勢から見つけることができそうです。
「作品には情景が見えなければならない!」。
星野作品を聴けば、作品というドラマの映像や情景が自然に浮かんでくるのです。歌は3分のドラマという形容は、星野先生の為にあるような言葉ですね。

そして、「最初の2行で勝負する!」。
先生の作品のどの歌でも構いません。出だしを思い出してください。
「幸せは歩いてこない だから歩いていくんだね」、「京都にいるときゃ 忍と呼ばれたの」、「はるばるきたぜ函館へさかまく波をのりこえて」……。どれも次を聴きたくなる、渾身の2行ですね。しかも、たった2行から、情景も見えてきそうです。

また、先生は詞について「生きた言葉は、頭で考えたって出てくるわけはない。私は足で詞を書くことにしていますと語っています。
夜の新宿を歩き、ホステスや飲み屋のおかみさんとの会話からひらめいた言葉を、コースターや割り箸の袋などに書きためたそうです。これぞ、生きた言葉ですね。

野口は、パーティーなどで先生とお目にかかり、お話をさせていただいたことが何度もあります。
上機嫌の先生は、「いまの若い作詞家は、仕事がない仕事がないと嘆きすぎだ。公募があるじゃないか! 公募でチャンスを掴めばいいんだ!」 野口の心に突き刺さりました。

若いころ大病を患い、4年間も病床にあって、大好きな海の仕事、船員の仕事を辞めなくてはならなかった悔しさ、つらさ、切なさ……を体験した先生。
そこから今度は、作詞家としての新たなる人生の船出を決心した先生の新たなスタートを祝福してくれた「公募」に対する、先生の限りない愛情を感じるのです。

本サイトは、公募情報のパイオニア公募ガイド社の運営です。姉妹サイトの「公募懸賞ガイドでは、長きにわたって、星野先生の作詞講座を連載していました(すでに終了)。
その講座の文面から登竜門としての公募を認め、担当する歌手の人間性を愛し、全力で作詞し……その先に、自分の歌を聴いてくれる大好きな大好きな人間、演歌を愛する日本人がいて……きっと、そんな思いで約60年の作家生活を送られたのでしょう。

先生の命日となった11月15日は、やはり人間を、日本人を、そして海を愛してやまなかった坂本龍馬の命日でもあります。それを思うと感無量であります。大きな大きな財産を失ってしまったのです。
星野哲郎先生のご冥福をお祈りいたします。

著者・野口義修

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ラジオが生んだヒット曲(中)

 前回は民放ラジオが誕生した昭和20年代から昭和30年代にかけてのラジオの歴史を辿りながら、ラジオが生んだヒット曲の数々を振り返り、昭和40年代半ばに隆盛を極めることになる深夜放送の先駆け的番組となった文化放送の「真夜中のリクエストコーナー」まで書き進めさせていただきました。今回は、昭和40年代前半にスタートしたTBSラジオ・ニッポン放送・文化放送の民放ラジオキー局による深夜放送の黎明期から、フォークシンガーやニューミュージックのアーチストの皆さんがパーソナリティを務め、ラジオから数多くのヒット曲が送り出されるようになる昭和40年代の大きなうねりを振り返ってみたいと思います。

 TBSが「パックインミュージック」の放送を開始したのは、1967年(昭和42年)8月1日(7月31日深夜)のことでしたが、その約8年前の1959年(昭和34年)10月には、ニッポン放送が夜間生活人口の増加と個人聴取の拡大という時代の変化に対応してオールナイト放送に先鞭をつけていました。この時にスタートした「オールナイトジョッキー」は、後年、オールナイトニッポンでも月曜深夜を担当することになる糸居五郎さんがDJを務めて、番組で流す全ての曲を自ら選曲するというスタイルを確立したことで知られています。
 「新しい前進態勢を確立! わが国初の二十四時間放送開始」という見出しが躍るニッポン放送の社内報『いづみ』第19号(1959年[昭和34年]10月10日発行)には、「十月十日---つまり十月九日の深夜午前〇時という時間は、オールナイト放送が、日本ではじめて開始される瞬間であり、ラジオ界にとって画期的な時間として永久に記念さるべきである」と書かれ、オールナイト放送を実現した関係者の高揚感が伝わってきます。
 この社内報の記事は、オールナイト放送の開始について、「最近益々増加の一途をたどっている深夜勤務者を直接的な聴取対象として発足する」ものであると同時に、その企画に当たっては、(1)ラジオ聴取者の家庭単位から個人単位への変化、(2)聴取者の聴取状況からラジオによるアピール度は深夜の方が高いこと、(3)総理府統計局と労働省統計調査部の資料によると、深夜の時間帯における就業者数が午前〇時台=375万人、一時台=247万人、最も就業率が低いとされる二時・三時台でも167万人に達しており、未就寝者を加えると相当数の聴取対象が見込まれ、夜間になると電離層などの関係から全国に届く電波も広がり、多くの人々が新しくラジオの受益者として登場すること、などのポイントが考慮されたと強調しています。
 さらに、この記事では「さし当たって半年くらいは経営的に苦しいと思うが、こうした人たちにサービスする意味で実施することにした」という鹿内信隆専務(当時)の新聞談話も紹介されており、昭和40年代における深夜放送の隆盛も、その原点にこうした英断があったからこそのものだったわけです。
 社内報は、オールナイト放送の開始について、「ニッポン放送が、常にラジオの公共性という本来的使命にのっとり、将来への飛躍に巨歩を踏み出した結果のあらわれであり、またLF(ニッポン放送)の底力を外に向かって示したものとして大いに誇りを感じていいと思う」と結論づけていますが、この自負も我田引水的な誇張ではなく、数年後の展開を見通した慧眼だったということになります。
 『TBS50年史』も、ニッポン放送によるオールナイト放送の開始が「若年聴取層を形成し新しい潮流を生み出していた」と指摘、「ローカルにも追随する社が現れ、66年(昭和41年)10月ラジオ関東が『オールナイト・パートナー』を始めると、TBSもオールナイト放送に背を向けていることができなくなった」と説明しています。
 さらに、若年層にはTBSがオールナイト放送をしない局というイメージが固定化し、「午後10時以降ダイヤルを他局に奪われる傾向も現れた」とも言及されていますから、TBSとしては“背に腹は代えられない”状況ともなっていたようです。

 「パック・イン・ミュージック」の番組名は、シェークスピアの「真夏の夜の夢」で夜になると活躍する妖精にちなんだもので、当初は、午前0時30分から3時までが生放送で、そのあと5時まで「乾宣夫のマジック・ピアノ」など5つの録音番組が並んでいました。
 放送開始時のパーソナリティとしては、増田貴光さんや戸川昌子さん、田中信夫さん、野沢那智さん、白石冬美さん、なべおさみさん、星加ルミ子さん、矢島正明さんなどが名前を連ねており、「最初はむしろ大人のエンターテインメントをねらった」番組だったようです。
 その後、福田一郎さんや若山弦蔵さん、八木誠さん、ロイ・ジェームスさん、永六輔さんらが登場する中で、若い聴取者に向けたメッセージ性の強い番組へと変わっていき、「福田一郎のロック、若山弦蔵・八木誠の音楽情報、『戦争を知らない子供たち』の北山修が発するメッセージなどが引き金となり、ベビー・ブーム世代と言われた若者たちの間に深夜放送ブームを巻き起こした」(『TBS50年史』)のでした。特に、北山修さんについては、「もとザ・フォーク・クルセダーズのメンバーで京都府立医大の学生だった北山修はベビー・ブーム世代に属し、折しも70年安保を前に盛り上がった学生運動と重なって、番組は学生たちの間に共鳴と共感を広げていった」と記されています。
 そのザ・フォーク・クルセダーズによる「帰って来たヨッパライ」そのものも、また、深夜のラジオから世の中に飛び出していったものでしたから、北山修さんによる「パック・イン・ミュージック」への登場は、必然的な展開だったと言えるのかもしれません。
 音楽評論家の田家秀樹さんは『読むJ-POP』の中で、「昭和42年11月5日、ラジオ関西の番組『若さでアタック』でオンエアされた『帰って来たヨッパライ』は、関西地区で爆発的な反響を呼んだ」とと書いており、一般的にも、「若さでアタック」が「帰って来たヨッパライ」を世の中に送り出した番組とされています。その事実関係は間違いないようですけれども、実は、その1カ月ちょっと前の9月26日に「ミッドナイトフォーク」というフォーク番組で初めて電波に乗り、その時の録音テープが「若さでアタック」で再放送されたという経緯だったそうです(「高度成長期マニアックス・ラジオ関西ファンのブログ」)。
 その後、「帰って来たヨッパライ」のヒットに火を付けたラジオ関西の「電話リクエスト」でDJを担当していた木崎義二さんから友人のニッポン放送・亀淵昭信さんに情報が伝わり、亀淵さんの当時の上司だった石田達郎さんの判断で、1967年(昭和42年)10月にスタートしていた「オールナイト・ニッポン」で「帰って来たヨッパライ」が独占的に放送され、全国区の人気に広がっていったのでした。
 『我ら青春の深夜放送で流行ったヒットソング100』(シンコー・ミュージック)によると、北山修さんが「パック・イン・ミュージック」で水曜深夜のパーソナリティを担当したのは、1969年(昭和44年)4月から1972年(昭和47年)3月までの3年間で、この間に、北山修さんが作詞を担当した「戦争を知らない子供たち」(ジローズ)や「あの素晴しい愛をもう一度」(加藤和彦と北山修)「さらば恋人」(堺正章)などのヒット曲も誕生しています。
 北山修さんは、自切俳人(ジキルハイド)名義で「オールナイト・ニッポン」でも1977年(昭和52年)1月から1978年(昭和53年)3月まで木曜深夜を担当しており、北山修さんとのデュエットで「あの素晴しい愛をもう一度」をヒットさせたフォーク・クルセダーズの元メンバーでもある加藤和彦さんも、北山さんに先行して、1976年(昭和51年)1月から9月まで「オールナイト・ニッポン」で月曜深夜のパーソナリティーを務めました。

 北山修さんの後を受けて1972年(昭和47年)4月から9月まで「パック・イン・ミュージック」で水曜深夜を担当したのは吉田拓郎さんでした。当時、高校生だった筆者は、北山修さんの最終回に吉田拓郎さんが出演し、番組の中でパーソナリティーのバトンタッチが行われるのをリアルタイムで聞きながら、フォークシーンにおける主役の交代劇に立ち会ったような気分になったことを鮮明に覚えています。
 高校1年生から2年生に進級する春の出来事でしたが、筆者が住んでいた新潟県でTBS系列だった地元のローカル局が「パック・イン・ミュージック」の同時放送をようやく開始し、東京の送信所から発出され電離層経由でかろうじて届く微弱な電波を捉えるためにラジカセのチューナーを合わせるという苦労から開放されたのも、この頃のことでした。
 1972年(昭和47年)4月と言えば、「今日までそして明日から」で全国区となった吉田拓郎さんが「結婚しようよ」を大ヒットさせていた時期であり、吉田拓郎さんにとっての初のオリコン・チャート1位曲となる「旅の宿」がリリースされたのは、まさに、「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを担当していた同年7月でしたから、テレビには出演しなかった吉田拓郎さんですが、レコードセールスの拡大とラジオ出演の相乗効果は少なからずあったものと思われます。
 吉田拓郎さんは、その後、1974年(昭和49年)9月から1975年(昭和50年)9月まで「「オールナイト・ニッポン」で月曜深夜を担当したのに続き、1969年(昭和44年)9月からスタートしていた文化放送の「セイ!ヤング」でも1978年(昭和53年)4月から1980年(昭和55年)3月まで金曜深夜のパーソナリティーを務めており、在京3キー局全ての深夜放送を制覇した数少ないフォークシンガーの一人となりました。
 北山修さんに続いて深夜放送に登場したフォークシンガーとしては、やはり元フォーク・クルセダーズのはしだのりひこさんが1970年(昭和45年)4月から「セイ!ヤング」で火曜深夜、同年10月からは同じく「セイ!ヤング」にザ・スパイダースのかまやつひろしさんが木曜深夜を担当。同年10月からは「セイ!ヤング」の火曜深夜をはしだ・かまやつコンビが務めることになりました。
 さらに、1972年(昭和47年)10月には、吉田拓郎さんの後を受けて「パック・イン・ミュージック」に南こうせつさんが登場します。南こうせつさんは、北山修さんが九州大学の教授を退官した際に行われたコンサートで、北山修さんのヨーロッパ旅行中に務めた代役が認められ、「パック・イン・ミュージック」のレギュラーを獲得したと述懐していましたが、1974年(昭和49年)3月までの1年半にわたり水曜深夜を担当。そして、この「パック・イン・ミュージック」でパーソナリティーを務めていた1973年(昭和48年)9月に発売された「神田川」は、同年10月から12月にかけて連続7週にわたってオリコン・チャートの首位をキープする大ヒットとなったのでした。
 この「パック・イン・ミュージック」の水曜深夜枠では、1978年(昭和53年)10月から1979年(昭和54年)9月までの1年間にわたって河島英五さんもパーソナリティを務めており、それぞれの時期を代表するようなフォークシンガーの指定席だったとも言えそうです。
 南こうせつさんが1970年代半ばから後半にかけて2度にわたって木曜深夜を担当した「オールナイト・ニッポン」では、泉谷しげるさん(1973年6月~1974年3月・火曜深夜)、あのねのね (1973年7月から1976年9月までの間に4回にわたり水曜深夜と土曜深夜を担当)、武田鉄也さん(1974年4月から1975年12月までの間に3回にわたり木曜深夜と金曜深夜を担当)、イルカさん(1974年8月から1975年9月まで金曜深夜と水曜深夜を担当)、松山千春さん(1977年10月から1981年3月まで2回にわたり水曜深夜と火曜深夜を担当)なども登場。
 文化放送の「セイ!ヤング」でも、さだまさしさんが1974年(昭和49年)10月から水曜深夜のパーソナリティーを務めて人気を集めるなど、まさに、深夜放送は百花繚乱の全盛期を迎えたのでした。
 深夜放送に先行して数多くのフォークソングを世に送り出したニッポン放送の「フォークヴィレッジ」など、今なお語り継がている伝説的な名番組や、昭和30年代から40年代にかけて洋楽のポップスやロックの楽曲情報をいち早く知ることのできる貴重な情報源だったFENなどについては、次回の連載で振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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