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ラジオが生んだヒット曲(上)

 「昭和のメディアと流行り歌」に連載タイトルを改めさせていただいていから6回、その前の「昭和のテレビと流行り歌」での19回を含めると、この連載コラムも既に25回にわたって書き続けてきていますが、これまでは、テレビと映画を中心に映像作品との関わりで流行り歌を紹介してきました。しかし、昭和のメディアには、テレビと同じ電波媒体として、戦前から人々に音楽を届け続けてきたラジオという大きな存在があり、昭和の流行り歌の中には、ラジオから生まれたヒット曲も少なくありません。今回からは、そのラジオが生み出したヒット曲の数々を、振り返ってみたいと思います。

 昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて思春期を過ごした、現在は50代後半から60代前半くらいの世代の場合、ラジオが生んだヒット曲と言えば、オリコン史上で初のミリオンセラーを記録したザ・フォーククルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」が、真っ先に思い浮かびます。
 しかし、この「帰ってきたヨッパライ」が深夜放送を通じて、爆発的な人気を集めることになるまでには、昭和20年代後半までNHKに限定されていた放送電波が開放され、民間放送によるラジオ番組が多様化するまでの10年以上にわたる歴史が必要でしたし、NHKが営々と造り上げてきたラジオにおける大衆文化の礎があったことも忘れてはならないでしょう。
 連載タイトルとして「昭和のメディアと流行り歌」を掲げさせていただいていることでもありますし、この機会に、終戦後からのラジオと流行り歌の歴史も簡単におさらいしてみたいと思います。
 戦時中は、大本営発表のニュースを聞くと同時に、空襲警報に先立つ空襲情報を知るための必需品となっていたラジオも、戦後は、家族が一家団欒での娯楽を提供する存在に様変わりしました。
 ラジオ放送は楽曲を伝播するメディアとしても大きな力を発揮することになり、歌謡曲の「リンゴの唄」、童謡の「みかんの花咲く丘」、民謡の「炭坑節」、ポピュラーの「ビギン・ザ・ビギン」などが、全国的に知られるようになる上で、NHKの番組が果たした役割は小さくありませんでした。
 1947年(昭和22年)7月からは、連合軍の民間情報教育局(CIE)によって新聞・映画・演劇・放送・出版の全メディアが管理され、ラジオ放送も一つの番組が15分単位の枠に嵌め込まれ、ドラマも15分枠の連続形式となりました。この15分枠の連続ドラマから、「鐘の鳴る丘」や「新諸国物語」などのヒット作品が登場することになるのです。
 「鐘の鳴る丘」は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までの土日祝祭日を除く毎日、午後5時15分から5時30分までの15分間にわたり放送。終戦後、世の中が落ち着きを取り戻す前の混乱の中で、信州の牧場に建てられた戦争孤児たちの収容施設を舞台に、子供たちが明るく元気に生きてゆく姿を描いた作品は、毎日の連続ドラマとしては、790日という日本最長の記録を達成するほどの人気を集めました。
 ♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台…で始まる主題歌「とんがり帽子」は、ドラマをリアルタイムで聞いたことのない世代にまで広く知られるようになり、「リンゴの唄」「青い山脈」などとともに、戦後の日本人に勇気と希望を与えた楽曲として、流行歌の枠を超えて記憶されています。
 「新諸国物語」は、1952年(昭和27年)4月1日から1956年(昭和31年)12月31日まで、月曜日から金曜日までの午後5時45分から6時までの15分間にわたって放送されました。第一話「白鳥の騎士」から第五話「七つの誓い」まで五話に分かれており、第二話の「笛吹童子」と第三話の「紅孔雀」の主題歌が人気を集め、特に「紅孔雀」は後年、東映で映画化されたりテレビでドラマ化されたりした時も繰り返しテーマ曲として使われ、筆者のお気に入りの一曲でもありました。
 「とんがり帽子」は川田正子さんと音羽ゆりかご会が、「笛吹童子」は上高田少年合唱団が、「紅孔雀」は井口小夜子さんとキング児童合唱団が、それぞれの主題歌を歌っており、後年の「月光仮面」や「矢車剣之助」「七色仮面」「白馬童子」「快傑ハリマオ」といったテレビの実写ヒーロードラマ主題歌への流れを作り出す形ともなったようです。

 1951年(昭和26年)9月に、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送(後の毎日放送)がスタートし、同年12月にはラジオ東京も放送を開始するなど、1953年(昭和28年)3月の時点では、民放ラジオ13局が全国各地で開局するまでになりました。
 実は、美空ひばりさんの「リンゴ追分」も、ラジオ東京が開局番組の一つとして放送した「リンゴ園の少女」の挿入歌として作られたもので、台本を担当していた小沢不二男さんが書い詞に、音楽担当の米山正夫さんが15分ほどで曲をつけ、間奏での台詞は、ひばりさん自身のアイデアだったといいます。レコードでは、当初、主題歌のB面扱いでしたが、ファンに支持されて息の長いヒット曲となり、美空ひばりさんの代表曲として知られるだけでなく、日本歌謡史に残る「名曲」として位置づけられるまでになりました。
 そして、1952年(昭和27年)4月10日からスタートしたNHKラジオのドラマ「君の名は」も、その主題曲・主題歌とともに、伝説の番組として今も語り継がれる名作の一つに数えられます。
 東京大空襲の夜、猛火につつまれる数寄屋橋の上で偶然出会った二人の男女が、名前も聞かずに半年後の再開を約束して別れた後、すれ違いを繰り返すという菊田一夫作による連続放送劇は、1954年(昭和29年)3月までの2年間にわたり、毎週木曜日の午後8時30分から9時まで放送されました。「木曜の夜は銭湯の女湯が空っぽになる」という伝説は、作品を映画化した松竹の宣伝コピーが独り歩きしたとも言われていますが、映画は3000万人を動員するとう大ヒットとなっています。菊田一夫作詞・古関裕而作曲による主題歌は、ラジオでは高柳二葉さんが歌い、レコードは織井茂子さんが吹き込み、織井さんの代表曲となりました。
 「君の名は」を作曲した古関裕而さんは、前述の「とんがり帽子」も手掛けているほか、1949年(昭和24年)からNHKがスポーツ放送のテーマ音楽として使っている「スポーツショー行進曲」のメロディーも作っています。早稲田大学の応援歌「紺碧の空」で作曲家として世に出た古関さんは、夏の甲子園の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」、読売巨人軍の応援歌「闘魂こめて」などのほか、1964年(昭和39年)に東京で開催された夏季オリンピックの開会式での行進曲も作曲しており、“日本のスーザ”と呼ばれるほどマーチの名曲を数多く世に送り出しました。
 「君の名は」のスタートから10日ほどさかのぼる1952年(昭和27年)3月31日、開局したばかりの文化放送が本放送を開始しています。
 手元にある文化放送の社史『50YEARS文化放送/時代を見つめたラジオの目』によると、開局当時の主な番組として「S盤アワー」と「平凡アワー」が紹介されており、当初から音楽番組が編成の目玉となっていたようです。“LIMITED”のLをとったコロンビアL盤に、“SPECIAL”のSで対抗したビクターのS盤による洋楽番組「S盤アワー」のDJは帆足まり子さんで、テーマ曲のペレスプラード楽団「エル・マンボ」は、番組の人気が上昇するととともに、マンボブームの火付け役となりました。「平凡アワー」は、芸能娯楽雑誌『平凡』のラジオ版ともいうべき歌謡番組で、テーマ音楽には「ひばりの花売り娘」が使用され、文化放送に入社して間もない玉置宏さんがDJを担当。以前、「ロッテ歌のアルバム」を振り返った際にも書かせていただいた通り、この「平凡アワー」がきっかけで、玉置さんは「ロッテ歌のアルバム」の司会も担当するようになったのでした。
 文化放送では1955年(昭和30年)10月から、新着洋画の紹介とファン投票による洋楽リクエスト曲で構成される「ユアヒットパレード」(毎週土曜日・午後8時30分~9時)の放送を開始、民放ヒットチャート番組の草分けとなりました。レコードプレゼントや番組視聴者だけの試写会などで話題となり、「S盤アワー」に続いてファンクラブが結成されるほどの人気だったといいます。
 ちなみに、ユアヒットパレード第1回のベスト10は、第1位=旅情(ロッサノ・ブラッツイ)、第2位=チャチャチャは素晴らしい(エンリケ・ホリン)、第3位=エデンの東(ビクター・ヤング楽団)、第4位=ロック・アラウンド・ザ・クロック(ビル・ヘイリーと彼のコメッツ)、第5位=月光のセレナーデ(グレン・ミラー楽団)、第6位=ドリーム(レイ・アンソニー楽団)、第7位=裸足のボレロ(ユーゴー・ウィンターハルター楽団)、第8位=慕情(フォア・エイセス)、第9位=ジョ・ジョ・ジ(アーサー・キット)、第10位=テキサスの黄色いバラ(ミッチー・ミラー合唱団)という10曲でした。

 TBSの社史『TBS50年史』によると、NHKと民放が共同で実施した聴取率調査の結果、1953年(昭和28年)5月の時点で、月曜日から金曜日までのラジオ聴取率が38.4%、各局別では、NHK第一が20.0%、ラジオ東京が12.1%、文化放送が5.1%だったのが、1955年(昭和30年)3月には、ラジオ聴取率が46.8%に上昇する一方、各局別では、NHK第一が12.9%、ラジオ東京が15.8%、文化放送が7.8%、ニッポン放送が7.4%となりました。
 2年弱という短い期間で、ラジオ全体として聴取率が高くなると同時に、民放がNHKを逆転するという事態も起きており、民放の台頭によってラジオそのものを聴く人も増加したことをうかがわせています。
 その民法による画期的な試みとして、1958年(昭和33年)9月には、文化放送と日本放送がそれぞれ片チャンネルを担当し、2つのラジオでステレオ放送を聴いてもらおうという番組も放送されました。最初のステレオ番組は「ソニー・ステレオ・アワー」で、9月15日に浅草国際劇場で行われた「ポール・アンカショー」を放送、翌年の1959年(昭和34年)には、文化放送の局内にステレオ放送専用スタジオも完成しています。
 文化放送は1961年(昭和36年)3月、日本初のステーションソングとなる「QRソング」を製作、野坂昭如さんが作詞、いずみたくさんが作曲を担当した「QRソング」を歌ったのは、ザ・ピーナッツでした。このステーションソングは、訪米した芸能部長が「シンギング・コールサインを積極的に取り上げて、聴取率の向上に役立てるべき」と提言したことにより誕生したもので、後年には、いずみたくシンガーズやキャンディーズなども歌っています。
 文化放送の社史によると、1961年(昭和36年)10月にコメディアンとタレントのコンビが司会を務める「歌謡大行進」(月曜~土曜・午後3時~3時55分)がスタートしたのに続き、1962年(昭和37年)には全国民放34局を結ぶ「全国歌謡ベストテン」(水曜・午後7時30分~8時30分)、1963年(昭和38年)4月にも全国34社111局を結ぶ「9500万人のポピュラーリクエスト」の放送も開始され、ラジオを通じて日本の軽音楽全体の動向が分かる状況となりました。「歌謡大行進」では、由利徹さんや渥美清さんのほかに三笑亭夢楽さんや三遊亭小金馬さんなどの落語家も加わり、桜京美さんや芳村真理さん、楠トシエさん、久里千春さんなどがお相手を務めています。
 さらに、1964年(昭和39年)10月からは、若年世代の聴取者掘り起こしを目指す「電話リクエストハローポップス」(月曜~土曜・午後7時~8時50分)が始まり、関光夫さんや本多俊夫さんなどの音楽評論家がDJとして登場。1965年(昭和40年)8月には、テレビの台頭によるラジオ不況時代における強化策の一環として「真夜中のリクエストコーナー」(火曜~土曜・午前0時35分~50分)がスタートしています。
 「真夜中のリクエストコーナー」は、ラジオが受験生を中心とした深夜族の友達や兄貴的な存在となりうることに着目したもので、パーソナリティとして土居まさるさんが起用され、恋愛や悩みの相談などがつづられた葉書を読みながら、ラジオならではの双方向性のコミュニケーションを創り出していきました。
 深夜放送が全盛時代を迎え、ラジオから数多くのヒット曲が生み出されるようになる昭和40年代前半以降については、次回からの連載で詳しく振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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