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「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「恋をするなら」…。都会派歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広いジャンルで国民の支持を得た作曲家、吉田正。著・野口義修

さて、今回は、作曲家の吉田正さんをご紹介します。
吉田正さん(1921年1月20日-1998年6月10日)は、茨城県日立市出身の日本を代表する作曲家です。没後に、作曲家としては3人目となる国民栄誉賞を受賞しています。
世に大きな影響を与えるアーティストや作家の登場には、ドラマが付きものです。
戦時中、まだアマチュアであった吉田さんが、ソ連シベリア地区に抑留されていた時期に20曲ほどを作曲したそうです。おそらく、その歌たちは戦友、捕虜仲間の胸を熱くし、心を慰めたことでしょう。
その仲間の一人が、終戦後、日本に復員し、NHKの素人のど自慢番組で吉田さんの曲を歌い話題となりました。それが、代表作「異国の丘」だったのです。もし、この戦友がいなかったら、吉田さんのデビューも無かったかもしれませんね。まさに、ドラマです。
吉田さんのプロ・デビューは、昭和24年4月、日本ビクターに専属作曲家として入社した時と考えられます。今と違い、当時は作曲家や作詞家は、才能を認められレコード会社と専属契約を結んで、自社の歌手のために曲を書いたのです。今は、フリーランスの作家が多いのですが、作家が育っていくという観点で見れば、当時のシステムが羨ましいです。
昭和24年と言えば、終戦4年目です。英米の流行ものや世界の新しい価値観が怒濤の勢いで日本に入ってきた時代でした。当然、音楽もです。
吉田さんはその中で、洋と和、伝統と革新……のちょうど中間や接点に、自分の表現を模索していたように思います。
その象徴的なキーワードが、都会調歌謡曲です。

吉田さんの作品である、鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」、三浦光一に「東京の人」、フランク永井に「東京午前三時」、「有楽町で逢いましょう」など、都会(東京)をテーマにした小粋なメロディーの楽曲を、当時の言い方で、都会調歌謡曲と言ったのです。東京こそ、洋と和の接点の街でした。
日本中のまだ戦後の傷跡に喘いでいた人々が、東京という言葉や歌詞の内容に、お洒落なものを感じて、ちょっとだけ洋風な気分になることができた……そんな歌が、吉田さんの都会調歌謡なのです。

そして、先生のメロディーには、新しさがあるけれど、新しすぎない良さもあるのです。
時代は、ロカビリーブームを迎えようとしていました。洋楽をカバーし、そのまま表現するアーティストも沢山登場しました。
しかし、吉田さんの作品は、チョット違いました。歌謡曲という言葉の持つ日本的メロディーの哀愁感は残しつつ、洋楽の"微かな"香りを感じさせる作曲手法。まさに、伝統と革新のど真ん中の感性だったのです。リズム歌謡と呼ばれて一世を風靡した、橋幸夫「恋をするなら」や「恋のメキシカン・ロック」にも、背景に日本的な音楽テイストが感じられます。
演歌「潮来笠」でデビューした橋幸夫に、ラテンタッチのリズム歌謡を歌わせたのも、吉田さんならではの和と洋の中間の発想ですね。

また、吉田さんお得意の甘く切ないメロディーが素敵な、青春歌謡というジャンルも人気を博しました。
「美しい十代」の三田明、レコード大賞を受賞した橋幸夫、吉永小百合の「いつでも夢を」などがそれにあたります。考えてみたら、青春も、子どもと大人の接点、中間の時期ですね。やはり、吉田さんの守備範囲と言えます。
これら全てが、まさに、吉田正の魅力です。

先生のもう一つの顔は、音楽の指導者としてのカリスマの顔です。
吉田さんの門下生には、鶴田浩二、フランク永井、橋幸夫、吉永小百合、三田明、松尾和子……と超大物が顔を連ねます。当然、彼らのヒット曲の多くは、吉田さんの手によるものでした。
鶴田浩二の「私は吉田さんに会ったとき体の中にかっと燃えるものを感じた」という言葉や、橋幸夫の「僕は先生から唄の勉強だけではなく人間としての教訓を数え切れないほど、学ばせていただくことができました」……が示すように、吉田さんは、単なる作曲家と歌手ではなく、人間としての熱い魂で彼らに接していました。
今は、コンペという形で楽曲をあつめ、作曲家も作詞家も歌手と会うこともなく、CD制作が進んでいくことが多いのです。吉田さんの時代の音楽には、人と人の心が根底にしっかりと根付いていたからこそ、何十年の歳月を経ても人々の心の中で行き続けていくのですね。

僕の思い出の吉田メロディーに、吉永小百合とトニーズの「勇気あるもの」があります。
あのサビの歌詞が、子どもの僕にどうしても聴き取れなかったのです。
♪りはそ、らへそ、らへ~~の部分です。
「りはそ?? らえそ??」答えは、簡単でした。
♪ヒマワリは、そらへ そらへ 太陽へ……のメロディーの切れ目が少し不自然だったのです。
今なら、吉田さんの実験的なメロディー作りの意味が分かります。
普通に言葉にメロディーを乗せていくのでなく、あえて言葉の「韻」を大事に作曲したのです。
さすが、吉田正さん!!

著者・野口義修

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