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2013年10月

当サイトのコーナー「昭和の作詞・作曲家列伝」(野口義修・著)から、2012年1月にご紹介した岩谷時子です。岩谷さんは、今月25日に逝去されました。ここに、慎んでご冥福をお祈り致します。

さて、今回は、作詞家の岩谷時子(いわたに ときこ、1916年3月28日生まれ)さんをご紹介します。
岩谷さんは、今年(2012年)の誕生日で96才を迎えるご高齢にもかかわらず、いまだに現役の作詞家という世界でも例を見ない活躍をされています。
岩谷さんは、京城(現在のソウル特別市)に生まれ、5歳の頃に西宮市に移住したそうです。
若い頃から、アートの才能が花開いていたようで、女学校5年生の秋、兵庫県中等学校絵画展で知事賞を受賞したり、「宝塚グラフ」「歌劇」などの雑誌に短い詩を投稿し、発表されたりしていました。
その流れで、宝塚歌劇団出版部に就職。後に、月刊誌「歌劇」の編集長を務めたそうです。
ここで、運命的な出会いがありました。
偶然編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪と出会ったのです。二人は意気投合し、岩谷さんは越路さんの相談相手になったそうです。
後年、とびきりの大スターとなる越路吹雪の才能を、いち早く見抜く! 岩谷さんには、そんなプロデューサー的な感覚があったのでした。
それから先は、公私共に岩谷さんは、越路さんのマネージャーとなりました。
自分の信じた才能をとことん支えていく!
1951年から1963年までは、二人とも東宝文芸部に所属し、仕事として正式なマネージャー業務に尽きましたが、それ以外でも、私設のマネージャーとして越路が死去するまでの約30年間、強い信頼関係で支え続けました。
なんと、マネジメント料としての報酬は1円も受け取らなかったそうです。
二人の関係は、岩谷さんのインタビューによれば……
「彼女から報酬をもらったことはありません。だから、越路さんは、わたしのことを欲のない世話好きのお姉さんと思っていたんじゃないかしら。わたしにしてみれば、彼女は世話のやける妹でしたけどね」(笑い)
恋多き越路さんが男性を振るとき、男性に引導を渡しに行くのは、岩谷さんの役割だったようです。
でも、お互いの私生活まで全て共有している仲だったからこそ、岩谷さんは、越路さんに最高の歌詞を提供できたのかも知れません。
越路さんの歌った曲の歌詞の大半は、岩谷さんの作詞であり、訳詞でした。
越路さんの代表曲!
「愛の讃歌」、「サン・トワ・マミー」、「ラストダンスは私に」……全て、岩谷さんによる訳詞です。

岩谷さんの訳詞で、常に語られるのが、その“意訳”の部分です。
たとえば、エディット・ピアフが歌ったシャンソンの名曲「愛の讃歌」は、元の歌詞は「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容です。しかし、岩谷さんの訳詞では一途な愛を貫くという前向きな讃歌なのです。
シャンソン好きの方やシャンソンの関係者は、このことを快く思わない方もいらっしゃるようです。
しかし、岩谷さんは、越路さんの持ち歌として、彼女が何をどう歌えば最善か? そういった大きな見地、コンセプトで、訳詞を進めたのだと思うのです。
それは、もはや訳詞ではなく、エディット・ピアフが歌ったシャンソンのメロディーを借りた、オリジナル歌詞の創作だったのです。
岩谷さんという作詞家は、そういった感覚を持ち合わせているのです。
岩谷さんの感性を、他のアーティストが必要としない訳はありません。
編集長として雑誌をまとめ上げる才能を持ち、プロデューサー感覚を持ち合わせた作詞家!
そのような逸材は、当時の日本の歌謡界には、多くはなかったはずです。
ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」、加山雄三「君といつまでも」「旅人よ」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、園まり「逢いたくて逢いたくて」、岸洋子「夜明けのうた」、布施明「これが青春だ」、佐良直美「いいじゃないの幸せならば」、郷ひろみ「男の子女の子」「花とみつばち」、アニメ主題歌「サインはV」……岩谷さんの作詞したヒット曲のタイトルを書きながら、枚挙にいとまがないという言葉が浮かんできました。それ程、我々の心に残る言葉を紡いで来たのですね。

岩谷さんは、ミュージカルにも素晴らしい作品を残されています。
ミュージカルとしての初作品は、1960年、大阪労音ミュージカル「泥の中のルビー」で、作曲家いずみたく先生と組んで、2曲の歌詞を担当しました。
また、劇団四季などで……
「王様と私」「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「ミュージカル赤毛のアン」(ミュージカル)……他、多くの歌詞を手がけています。
聖書を題材に、イエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」(劇団四季)では、岩谷さんは聖書を1から勉強し、訳詞に向ったそうです。
岩谷さんの編集者感覚、プロデューサー感覚は、ミュージカルの訳詞においても光っていました。
素晴らしいミュージカルにおける訳詞での活躍に対し、第5回菊田一夫演劇賞・特別賞を受章されています。宝塚歌劇団からそのキャリアをスタートされた岩谷さんですから、ミュージカルでの活躍は当然かも知れませんね。

賞といえば、岩谷さんは数々の賞を受賞されています。
1964年、岸洋子さんの「夜明けのうた」で女性作詞家として初となる日本レコード大賞作詞賞を受賞されました。作詞=男性というイメージの強かった音楽業界のイメージを変えたのが岩谷さんだったのです。この時、岩谷さんは、48才!
中年とも言える年代からの大活躍。
1969年、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」で、第11回日本レコード大賞を受賞。
同年、佐良直美のアルバム「十二人の女」で芸術祭文部大臣賞奨励賞を受賞。
1986年、第2回東京都文化賞。1993年、春の叙勲 勲4等瑞宝章 受章。2009年、93歳で文化功労者として顕彰……。
輝かしい歴史を刻んできています。

ここで、一つ象徴的な賞をご紹介します。
それは、2006年第1回「渡邊晋賞」において岩谷さんが特別賞を受賞されたことです。
ご存知の方も多いと思いますが、渡邊晋さんは渡辺プロダクション初代社長で、現在のテレビ・バラエティー文化を創り上げた功労者とも言えるエンタテインメント・プロデューサーです。
「渡邊晋賞」は、氏の功績を後世に残すため、その足跡を継ぐ若い世代のプロデューサーを顕彰すべく設けられた新しい賞です。
そこで作詞家の岩谷時子さんが、特別賞を受賞されたことは、まさに、彼女の作詞家としての業績を支えてきたのは、彼女のプロデュース能力であった、との証明でもあります。
作詞という仕事を通じての岩谷さんのプロデューサー的な仕事ぶりが評価されたのです。

最後に、2009年、岩谷さん93歳の時、一般財団法人「岩谷時子音楽文化振興財団」が設立されました。そして、翌年から「岩谷時子賞」を設けました。
音楽・演劇界の明日を担う人材や、その向上・発展に功労のあった人物・団体に授与する賞です。
このことからも、岩谷さんがその人生を掛けて、プロデューサー感覚で作詞をし、人を育ててきたことが分かりますね。

現在も、帝国ホテルの一室を借り切り、創作に励んでいらっしゃるという岩谷時子さんの新作! ぜひ、聞かせて頂きたいと感じています。

著者・野口義修

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「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「恋をするなら」…。都会派歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広いジャンルで国民の支持を得た作曲家、吉田正。著・野口義修

さて、今回は、作曲家の吉田正さんをご紹介します。
吉田正さん(1921年1月20日-1998年6月10日)は、茨城県日立市出身の日本を代表する作曲家です。没後に、作曲家としては3人目となる国民栄誉賞を受賞しています。
世に大きな影響を与えるアーティストや作家の登場には、ドラマが付きものです。
戦時中、まだアマチュアであった吉田さんが、ソ連シベリア地区に抑留されていた時期に20曲ほどを作曲したそうです。おそらく、その歌たちは戦友、捕虜仲間の胸を熱くし、心を慰めたことでしょう。
その仲間の一人が、終戦後、日本に復員し、NHKの素人のど自慢番組で吉田さんの曲を歌い話題となりました。それが、代表作「異国の丘」だったのです。もし、この戦友がいなかったら、吉田さんのデビューも無かったかもしれませんね。まさに、ドラマです。
吉田さんのプロ・デビューは、昭和24年4月、日本ビクターに専属作曲家として入社した時と考えられます。今と違い、当時は作曲家や作詞家は、才能を認められレコード会社と専属契約を結んで、自社の歌手のために曲を書いたのです。今は、フリーランスの作家が多いのですが、作家が育っていくという観点で見れば、当時のシステムが羨ましいです。
昭和24年と言えば、終戦4年目です。英米の流行ものや世界の新しい価値観が怒濤の勢いで日本に入ってきた時代でした。当然、音楽もです。
吉田さんはその中で、洋と和、伝統と革新……のちょうど中間や接点に、自分の表現を模索していたように思います。
その象徴的なキーワードが、都会調歌謡曲です。

吉田さんの作品である、鶴田浩二の「街のサンドイッチマン」、三浦光一に「東京の人」、フランク永井に「東京午前三時」、「有楽町で逢いましょう」など、都会(東京)をテーマにした小粋なメロディーの楽曲を、当時の言い方で、都会調歌謡曲と言ったのです。東京こそ、洋と和の接点の街でした。
日本中のまだ戦後の傷跡に喘いでいた人々が、東京という言葉や歌詞の内容に、お洒落なものを感じて、ちょっとだけ洋風な気分になることができた……そんな歌が、吉田さんの都会調歌謡なのです。

そして、先生のメロディーには、新しさがあるけれど、新しすぎない良さもあるのです。
時代は、ロカビリーブームを迎えようとしていました。洋楽をカバーし、そのまま表現するアーティストも沢山登場しました。
しかし、吉田さんの作品は、チョット違いました。歌謡曲という言葉の持つ日本的メロディーの哀愁感は残しつつ、洋楽の"微かな"香りを感じさせる作曲手法。まさに、伝統と革新のど真ん中の感性だったのです。リズム歌謡と呼ばれて一世を風靡した、橋幸夫「恋をするなら」や「恋のメキシカン・ロック」にも、背景に日本的な音楽テイストが感じられます。
演歌「潮来笠」でデビューした橋幸夫に、ラテンタッチのリズム歌謡を歌わせたのも、吉田さんならではの和と洋の中間の発想ですね。

また、吉田さんお得意の甘く切ないメロディーが素敵な、青春歌謡というジャンルも人気を博しました。
「美しい十代」の三田明、レコード大賞を受賞した橋幸夫、吉永小百合の「いつでも夢を」などがそれにあたります。考えてみたら、青春も、子どもと大人の接点、中間の時期ですね。やはり、吉田さんの守備範囲と言えます。
これら全てが、まさに、吉田正の魅力です。

先生のもう一つの顔は、音楽の指導者としてのカリスマの顔です。
吉田さんの門下生には、鶴田浩二、フランク永井、橋幸夫、吉永小百合、三田明、松尾和子……と超大物が顔を連ねます。当然、彼らのヒット曲の多くは、吉田さんの手によるものでした。
鶴田浩二の「私は吉田さんに会ったとき体の中にかっと燃えるものを感じた」という言葉や、橋幸夫の「僕は先生から唄の勉強だけではなく人間としての教訓を数え切れないほど、学ばせていただくことができました」……が示すように、吉田さんは、単なる作曲家と歌手ではなく、人間としての熱い魂で彼らに接していました。
今は、コンペという形で楽曲をあつめ、作曲家も作詞家も歌手と会うこともなく、CD制作が進んでいくことが多いのです。吉田さんの時代の音楽には、人と人の心が根底にしっかりと根付いていたからこそ、何十年の歳月を経ても人々の心の中で行き続けていくのですね。

僕の思い出の吉田メロディーに、吉永小百合とトニーズの「勇気あるもの」があります。
あのサビの歌詞が、子どもの僕にどうしても聴き取れなかったのです。
♪りはそ、らへそ、らへ~~の部分です。
「りはそ?? らえそ??」答えは、簡単でした。
♪ヒマワリは、そらへ そらへ 太陽へ……のメロディーの切れ目が少し不自然だったのです。
今なら、吉田さんの実験的なメロディー作りの意味が分かります。
普通に言葉にメロディーを乗せていくのでなく、あえて言葉の「韻」を大事に作曲したのです。
さすが、吉田正さん!!

著者・野口義修

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昭和の作詞・作曲家列伝。ハワイアンのバンドリーダーから作曲家に転身したハマクラこと浜口庫之助。

さて、今回は、作曲家の浜口庫之助さんをご紹介します。
浜口庫之助さん(1917年7月22日-1990年12月2日)は、兵庫県神戸市出身で、日本歌謡史において、専業作家でありながら作詞も作曲もこなすという特異な存在として大ヒットを飛ばしまくっていました。
現在は、アーティストといって詞もメロディーもこなす自作自演のシンガーソングライターは当たり前です。しかし、昭和30年代までの歌謡界では、作詞家も作曲家も基本的にはレコード会社の専属契約で、それぞれ分業が当たり前でした。共に、プロを名乗れるのは、よほどの才能であったという訳です。

浜口庫之助さんは、そのダンディーで親しみやすい雰囲気からハマクラさんと呼ばれていました。ボクも、敬意を表しながらハマクラさんと呼ばせて頂きます。
ハマクラさんは、裕福な家庭で何不自由なく生まれ育って、幼少の頃から楽器や音楽に親しみ、5才ですでに楽譜も読めたそうです。
親は、当然、末は東大!!と期待を寄せていたに違いありませんが、実際は、音楽の方にのめり込み、早稲田大学に入学するも、中退して音楽の道に進みます。当時は、ジャズのムーブメントが日本にも押し寄せてきた時代です。ハマクラさんもジャズ、ラテン、ハワイアン……という洋楽の道をまっしぐらだったようです。
戦後、1953年から3年間、ハマクラさんは自身のハワイアンバンド「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」として紅白歌合戦に出場しているのですから、ミュージシャン・ハマクラとしても、この時点で大成功を収めていたわけです。

しかし、転機が訪れます。
1957年、ハマクラさんは、新宿コマ劇場で西インド諸島の舞踊団の公演を観ました。その舞踊団の長老が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを聞き、ガーンと来たのでした。
彼がプロとしてやってきたのは、ジャズでありハワイアンであり……全ては海外の音楽の受け売りでした。
当時、ハマクラさんのバンドでアメリカ公演の話もあったそうですが、その際にアメリカの聴衆に向って「みなさんの真似をしに来ました」って言うのだろうか?と自問自答し、ハマクラさんは、これまでの演奏の仕事を全てキャンセル、バンドも解散し、貧乏生活を覚悟し、日本のオリジナルの歌を作る為に作曲家・作詞家の道を歩みはじめたのです。
ハマクラさん、40才の頃でした。家族(子ども二人に奥さん)をアパートに住まわせ、自分は倉庫番をしている友人の所に転がり込み、良い歌を作りたい!日本の歌を作りたい一心で作詞・作曲を追求したのです。
出来上がったのが、「黄色いさくらんぼ」(歌:スリーキャッツ)。ハマクラさんの作曲家としてのデビュー作になりました(作詞は星野哲郎さん)。
モダンで、可愛らしく、どこか異国情緒がある名曲です。その後も、ゴールデン・ハーフなど多くのシンガーにカバーされました。
この異国情緒というキーワードこそ、ハマクラ歌謡を読み解く鍵かも知れません。
日本の歌を作りたいと決心したハマクラさんが、異国情緒です!!
日本人の心の奥底にある、異国に対する“そこはかとないあこがれの気持ち”をメロディーに置き換えたのかも知れません。新しいものやタイムリーな話題、つまり一般人の心をワクワクさせたり、共感できたりするテーマを敏感に捉えるのもハマクラさんの得意技でした。

次に、ハマクラさん作詞作曲で発表した「僕は泣いちっち」(歌:守屋浩)は、まさに時代を切り取った名曲でした。
彼女が、東京へ行ってしまって寂しい! だからボクも東京へ行きたい!って内容の歌でしたが、実は、この曲がヒットした1959年は、地方から集団就職で若者達がドンドン東京へやってくる時代(1958~59年を舞台にした映画『ALWAYS三丁目の夕日』にも、青森から集団就職で上京した、ろくちゃんが登場していましたね)だったのです。まさに、「僕は泣いちっち」は、そういった時代背景があっての大ヒットでした。
それから、時代はフォークソングであると感じると、フォークシンガーのマイク真木に「バラが咲いた」を歌わせました(1966年)。
この頃は、アメリカからやってきた学生フォークのムーブメントが盛り上がっていたのです。
バラが咲いて・散ってという歌詞の流れに、アメリカン・フォークの代表曲である「花はどこへ行った」「七つの水仙」などのエッセンスをさりげなく盛込む感性は、まさにハマクラさんならではの、時代の感覚を切り取ったものでした。

そして、その後、世の中はGS(グループサウンズ)のブームになるのですが、やはり、ハマクラさんは、GSのトップ・バンドであるスパイダーズに「夕陽が泣いている」「風が泣いている」という大ヒット作品を書いています。時代を先駆けるハマクラさんが、スパイダーズに提供したのは、実に異国情緒たっぷりのメロディーを持ったナンバ―でした。
時代を見極める力と異国情緒!の感性でハマクラさんは、ヒットを飛ばしまくりました。

涙くんさよなら(歌:ジョニー・ティロットソン、坂本九)、愛して愛して愛しちゃったのよ(歌:田代美代子・和田弘とマヒナスターズ)(1965年)、星のフラメンコ(歌:西郷輝彦)(1966年)、夜霧よ今夜も有難う(歌:石原裕次郎)(1967年)、空に太陽がある限り(歌:にしきのあきら)(1971年)、人生いろいろ(歌:島倉千代子)(1987年)……名曲ばかりです。
僕が大好きなのは、作曲を担当した「恋の山手線」(小林旭)、「愛のさざなみ」(島倉千代子)。詞曲担当の「みんな夢の中」。メロディーの粋(いき)を知り尽くした音楽家でした。

1990年12月2日、ハマクラさんは、喉頭ガンの為に逝去(73歳没)されました。晩年、叙勲の話があったそうですが、「ヒット曲が大衆からの賞だ」と固辞しました。死後に見つかったノートには「芸術家は肩書をもったときに死ぬ」とあったそうです。

最後になりますが、1988年、亡くなる2年前に、NHK「おかあさんといっしょ」今月の歌(9月)で遺作に近い作品と思われますが「はしれ はしれ」を発表されています。子供心を忘れないハマクラさんの傑作! 実に軽快で楽しい童謡でした。
実は、その翌月、10月の歌が、ボクがつくった「そーっと・そっと」だったのです。敬愛して止まなかったハマクラさんと並んで、自分の作品が世に発表されたのは、自分にとっても、大きな大きな勲章となりました!!当サイトで、ぜひ ハマクラ・メロディーを存分にお楽しみください。

著者・野口義修

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ラジオが生んだヒット曲(上)

 「昭和のメディアと流行り歌」に連載タイトルを改めさせていただいていから6回、その前の「昭和のテレビと流行り歌」での19回を含めると、この連載コラムも既に25回にわたって書き続けてきていますが、これまでは、テレビと映画を中心に映像作品との関わりで流行り歌を紹介してきました。しかし、昭和のメディアには、テレビと同じ電波媒体として、戦前から人々に音楽を届け続けてきたラジオという大きな存在があり、昭和の流行り歌の中には、ラジオから生まれたヒット曲も少なくありません。今回からは、そのラジオが生み出したヒット曲の数々を、振り返ってみたいと思います。

 昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて思春期を過ごした、現在は50代後半から60代前半くらいの世代の場合、ラジオが生んだヒット曲と言えば、オリコン史上で初のミリオンセラーを記録したザ・フォーククルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」が、真っ先に思い浮かびます。
 しかし、この「帰ってきたヨッパライ」が深夜放送を通じて、爆発的な人気を集めることになるまでには、昭和20年代後半までNHKに限定されていた放送電波が開放され、民間放送によるラジオ番組が多様化するまでの10年以上にわたる歴史が必要でしたし、NHKが営々と造り上げてきたラジオにおける大衆文化の礎があったことも忘れてはならないでしょう。
 連載タイトルとして「昭和のメディアと流行り歌」を掲げさせていただいていることでもありますし、この機会に、終戦後からのラジオと流行り歌の歴史も簡単におさらいしてみたいと思います。
 戦時中は、大本営発表のニュースを聞くと同時に、空襲警報に先立つ空襲情報を知るための必需品となっていたラジオも、戦後は、家族が一家団欒での娯楽を提供する存在に様変わりしました。
 ラジオ放送は楽曲を伝播するメディアとしても大きな力を発揮することになり、歌謡曲の「リンゴの唄」、童謡の「みかんの花咲く丘」、民謡の「炭坑節」、ポピュラーの「ビギン・ザ・ビギン」などが、全国的に知られるようになる上で、NHKの番組が果たした役割は小さくありませんでした。
 1947年(昭和22年)7月からは、連合軍の民間情報教育局(CIE)によって新聞・映画・演劇・放送・出版の全メディアが管理され、ラジオ放送も一つの番組が15分単位の枠に嵌め込まれ、ドラマも15分枠の連続形式となりました。この15分枠の連続ドラマから、「鐘の鳴る丘」や「新諸国物語」などのヒット作品が登場することになるのです。
 「鐘の鳴る丘」は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までの土日祝祭日を除く毎日、午後5時15分から5時30分までの15分間にわたり放送。終戦後、世の中が落ち着きを取り戻す前の混乱の中で、信州の牧場に建てられた戦争孤児たちの収容施設を舞台に、子供たちが明るく元気に生きてゆく姿を描いた作品は、毎日の連続ドラマとしては、790日という日本最長の記録を達成するほどの人気を集めました。
 ♪緑の丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台…で始まる主題歌「とんがり帽子」は、ドラマをリアルタイムで聞いたことのない世代にまで広く知られるようになり、「リンゴの唄」「青い山脈」などとともに、戦後の日本人に勇気と希望を与えた楽曲として、流行歌の枠を超えて記憶されています。
 「新諸国物語」は、1952年(昭和27年)4月1日から1956年(昭和31年)12月31日まで、月曜日から金曜日までの午後5時45分から6時までの15分間にわたって放送されました。第一話「白鳥の騎士」から第五話「七つの誓い」まで五話に分かれており、第二話の「笛吹童子」と第三話の「紅孔雀」の主題歌が人気を集め、特に「紅孔雀」は後年、東映で映画化されたりテレビでドラマ化されたりした時も繰り返しテーマ曲として使われ、筆者のお気に入りの一曲でもありました。
 「とんがり帽子」は川田正子さんと音羽ゆりかご会が、「笛吹童子」は上高田少年合唱団が、「紅孔雀」は井口小夜子さんとキング児童合唱団が、それぞれの主題歌を歌っており、後年の「月光仮面」や「矢車剣之助」「七色仮面」「白馬童子」「快傑ハリマオ」といったテレビの実写ヒーロードラマ主題歌への流れを作り出す形ともなったようです。

 1951年(昭和26年)9月に、名古屋の中部日本放送、大阪の新日本放送(後の毎日放送)がスタートし、同年12月にはラジオ東京も放送を開始するなど、1953年(昭和28年)3月の時点では、民放ラジオ13局が全国各地で開局するまでになりました。
 実は、美空ひばりさんの「リンゴ追分」も、ラジオ東京が開局番組の一つとして放送した「リンゴ園の少女」の挿入歌として作られたもので、台本を担当していた小沢不二男さんが書い詞に、音楽担当の米山正夫さんが15分ほどで曲をつけ、間奏での台詞は、ひばりさん自身のアイデアだったといいます。レコードでは、当初、主題歌のB面扱いでしたが、ファンに支持されて息の長いヒット曲となり、美空ひばりさんの代表曲として知られるだけでなく、日本歌謡史に残る「名曲」として位置づけられるまでになりました。
 そして、1952年(昭和27年)4月10日からスタートしたNHKラジオのドラマ「君の名は」も、その主題曲・主題歌とともに、伝説の番組として今も語り継がれる名作の一つに数えられます。
 東京大空襲の夜、猛火につつまれる数寄屋橋の上で偶然出会った二人の男女が、名前も聞かずに半年後の再開を約束して別れた後、すれ違いを繰り返すという菊田一夫作による連続放送劇は、1954年(昭和29年)3月までの2年間にわたり、毎週木曜日の午後8時30分から9時まで放送されました。「木曜の夜は銭湯の女湯が空っぽになる」という伝説は、作品を映画化した松竹の宣伝コピーが独り歩きしたとも言われていますが、映画は3000万人を動員するとう大ヒットとなっています。菊田一夫作詞・古関裕而作曲による主題歌は、ラジオでは高柳二葉さんが歌い、レコードは織井茂子さんが吹き込み、織井さんの代表曲となりました。
 「君の名は」を作曲した古関裕而さんは、前述の「とんがり帽子」も手掛けているほか、1949年(昭和24年)からNHKがスポーツ放送のテーマ音楽として使っている「スポーツショー行進曲」のメロディーも作っています。早稲田大学の応援歌「紺碧の空」で作曲家として世に出た古関さんは、夏の甲子園の大会歌「栄冠は君に輝く」、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」、読売巨人軍の応援歌「闘魂こめて」などのほか、1964年(昭和39年)に東京で開催された夏季オリンピックの開会式での行進曲も作曲しており、“日本のスーザ”と呼ばれるほどマーチの名曲を数多く世に送り出しました。
 「君の名は」のスタートから10日ほどさかのぼる1952年(昭和27年)3月31日、開局したばかりの文化放送が本放送を開始しています。
 手元にある文化放送の社史『50YEARS文化放送/時代を見つめたラジオの目』によると、開局当時の主な番組として「S盤アワー」と「平凡アワー」が紹介されており、当初から音楽番組が編成の目玉となっていたようです。“LIMITED”のLをとったコロンビアL盤に、“SPECIAL”のSで対抗したビクターのS盤による洋楽番組「S盤アワー」のDJは帆足まり子さんで、テーマ曲のペレスプラード楽団「エル・マンボ」は、番組の人気が上昇するととともに、マンボブームの火付け役となりました。「平凡アワー」は、芸能娯楽雑誌『平凡』のラジオ版ともいうべき歌謡番組で、テーマ音楽には「ひばりの花売り娘」が使用され、文化放送に入社して間もない玉置宏さんがDJを担当。以前、「ロッテ歌のアルバム」を振り返った際にも書かせていただいた通り、この「平凡アワー」がきっかけで、玉置さんは「ロッテ歌のアルバム」の司会も担当するようになったのでした。
 文化放送では1955年(昭和30年)10月から、新着洋画の紹介とファン投票による洋楽リクエスト曲で構成される「ユアヒットパレード」(毎週土曜日・午後8時30分~9時)の放送を開始、民放ヒットチャート番組の草分けとなりました。レコードプレゼントや番組視聴者だけの試写会などで話題となり、「S盤アワー」に続いてファンクラブが結成されるほどの人気だったといいます。
 ちなみに、ユアヒットパレード第1回のベスト10は、第1位=旅情(ロッサノ・ブラッツイ)、第2位=チャチャチャは素晴らしい(エンリケ・ホリン)、第3位=エデンの東(ビクター・ヤング楽団)、第4位=ロック・アラウンド・ザ・クロック(ビル・ヘイリーと彼のコメッツ)、第5位=月光のセレナーデ(グレン・ミラー楽団)、第6位=ドリーム(レイ・アンソニー楽団)、第7位=裸足のボレロ(ユーゴー・ウィンターハルター楽団)、第8位=慕情(フォア・エイセス)、第9位=ジョ・ジョ・ジ(アーサー・キット)、第10位=テキサスの黄色いバラ(ミッチー・ミラー合唱団)という10曲でした。

 TBSの社史『TBS50年史』によると、NHKと民放が共同で実施した聴取率調査の結果、1953年(昭和28年)5月の時点で、月曜日から金曜日までのラジオ聴取率が38.4%、各局別では、NHK第一が20.0%、ラジオ東京が12.1%、文化放送が5.1%だったのが、1955年(昭和30年)3月には、ラジオ聴取率が46.8%に上昇する一方、各局別では、NHK第一が12.9%、ラジオ東京が15.8%、文化放送が7.8%、ニッポン放送が7.4%となりました。
 2年弱という短い期間で、ラジオ全体として聴取率が高くなると同時に、民放がNHKを逆転するという事態も起きており、民放の台頭によってラジオそのものを聴く人も増加したことをうかがわせています。
 その民法による画期的な試みとして、1958年(昭和33年)9月には、文化放送と日本放送がそれぞれ片チャンネルを担当し、2つのラジオでステレオ放送を聴いてもらおうという番組も放送されました。最初のステレオ番組は「ソニー・ステレオ・アワー」で、9月15日に浅草国際劇場で行われた「ポール・アンカショー」を放送、翌年の1959年(昭和34年)には、文化放送の局内にステレオ放送専用スタジオも完成しています。
 文化放送は1961年(昭和36年)3月、日本初のステーションソングとなる「QRソング」を製作、野坂昭如さんが作詞、いずみたくさんが作曲を担当した「QRソング」を歌ったのは、ザ・ピーナッツでした。このステーションソングは、訪米した芸能部長が「シンギング・コールサインを積極的に取り上げて、聴取率の向上に役立てるべき」と提言したことにより誕生したもので、後年には、いずみたくシンガーズやキャンディーズなども歌っています。
 文化放送の社史によると、1961年(昭和36年)10月にコメディアンとタレントのコンビが司会を務める「歌謡大行進」(月曜~土曜・午後3時~3時55分)がスタートしたのに続き、1962年(昭和37年)には全国民放34局を結ぶ「全国歌謡ベストテン」(水曜・午後7時30分~8時30分)、1963年(昭和38年)4月にも全国34社111局を結ぶ「9500万人のポピュラーリクエスト」の放送も開始され、ラジオを通じて日本の軽音楽全体の動向が分かる状況となりました。「歌謡大行進」では、由利徹さんや渥美清さんのほかに三笑亭夢楽さんや三遊亭小金馬さんなどの落語家も加わり、桜京美さんや芳村真理さん、楠トシエさん、久里千春さんなどがお相手を務めています。
 さらに、1964年(昭和39年)10月からは、若年世代の聴取者掘り起こしを目指す「電話リクエストハローポップス」(月曜~土曜・午後7時~8時50分)が始まり、関光夫さんや本多俊夫さんなどの音楽評論家がDJとして登場。1965年(昭和40年)8月には、テレビの台頭によるラジオ不況時代における強化策の一環として「真夜中のリクエストコーナー」(火曜~土曜・午前0時35分~50分)がスタートしています。
 「真夜中のリクエストコーナー」は、ラジオが受験生を中心とした深夜族の友達や兄貴的な存在となりうることに着目したもので、パーソナリティとして土居まさるさんが起用され、恋愛や悩みの相談などがつづられた葉書を読みながら、ラジオならではの双方向性のコミュニケーションを創り出していきました。
 深夜放送が全盛時代を迎え、ラジオから数多くのヒット曲が生み出されるようになる昭和40年代前半以降については、次回からの連載で詳しく振り返ってみたいと思います。

著者・鈴木清美

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