« 「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「恋をするなら」…。都会派歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広いジャンルで国民の支持を得た作曲家、吉田正。著・野口義修 | トップページ | ラジオが生んだヒット曲(中) »

当サイトのコーナー「昭和の作詞・作曲家列伝」(野口義修・著)から、2012年1月にご紹介した岩谷時子です。岩谷さんは、今月25日に逝去されました。ここに、慎んでご冥福をお祈り致します。

さて、今回は、作詞家の岩谷時子(いわたに ときこ、1916年3月28日生まれ)さんをご紹介します。
岩谷さんは、今年(2012年)の誕生日で96才を迎えるご高齢にもかかわらず、いまだに現役の作詞家という世界でも例を見ない活躍をされています。
岩谷さんは、京城(現在のソウル特別市)に生まれ、5歳の頃に西宮市に移住したそうです。
若い頃から、アートの才能が花開いていたようで、女学校5年生の秋、兵庫県中等学校絵画展で知事賞を受賞したり、「宝塚グラフ」「歌劇」などの雑誌に短い詩を投稿し、発表されたりしていました。
その流れで、宝塚歌劇団出版部に就職。後に、月刊誌「歌劇」の編集長を務めたそうです。
ここで、運命的な出会いがありました。
偶然編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪と出会ったのです。二人は意気投合し、岩谷さんは越路さんの相談相手になったそうです。
後年、とびきりの大スターとなる越路吹雪の才能を、いち早く見抜く! 岩谷さんには、そんなプロデューサー的な感覚があったのでした。
それから先は、公私共に岩谷さんは、越路さんのマネージャーとなりました。
自分の信じた才能をとことん支えていく!
1951年から1963年までは、二人とも東宝文芸部に所属し、仕事として正式なマネージャー業務に尽きましたが、それ以外でも、私設のマネージャーとして越路が死去するまでの約30年間、強い信頼関係で支え続けました。
なんと、マネジメント料としての報酬は1円も受け取らなかったそうです。
二人の関係は、岩谷さんのインタビューによれば……
「彼女から報酬をもらったことはありません。だから、越路さんは、わたしのことを欲のない世話好きのお姉さんと思っていたんじゃないかしら。わたしにしてみれば、彼女は世話のやける妹でしたけどね」(笑い)
恋多き越路さんが男性を振るとき、男性に引導を渡しに行くのは、岩谷さんの役割だったようです。
でも、お互いの私生活まで全て共有している仲だったからこそ、岩谷さんは、越路さんに最高の歌詞を提供できたのかも知れません。
越路さんの歌った曲の歌詞の大半は、岩谷さんの作詞であり、訳詞でした。
越路さんの代表曲!
「愛の讃歌」、「サン・トワ・マミー」、「ラストダンスは私に」……全て、岩谷さんによる訳詞です。

岩谷さんの訳詞で、常に語られるのが、その“意訳”の部分です。
たとえば、エディット・ピアフが歌ったシャンソンの名曲「愛の讃歌」は、元の歌詞は「愛のためなら盗みでもなんでもする」という背徳的な内容です。しかし、岩谷さんの訳詞では一途な愛を貫くという前向きな讃歌なのです。
シャンソン好きの方やシャンソンの関係者は、このことを快く思わない方もいらっしゃるようです。
しかし、岩谷さんは、越路さんの持ち歌として、彼女が何をどう歌えば最善か? そういった大きな見地、コンセプトで、訳詞を進めたのだと思うのです。
それは、もはや訳詞ではなく、エディット・ピアフが歌ったシャンソンのメロディーを借りた、オリジナル歌詞の創作だったのです。
岩谷さんという作詞家は、そういった感覚を持ち合わせているのです。
岩谷さんの感性を、他のアーティストが必要としない訳はありません。
編集長として雑誌をまとめ上げる才能を持ち、プロデューサー感覚を持ち合わせた作詞家!
そのような逸材は、当時の日本の歌謡界には、多くはなかったはずです。
ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東京」、加山雄三「君といつまでも」「旅人よ」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」、園まり「逢いたくて逢いたくて」、岸洋子「夜明けのうた」、布施明「これが青春だ」、佐良直美「いいじゃないの幸せならば」、郷ひろみ「男の子女の子」「花とみつばち」、アニメ主題歌「サインはV」……岩谷さんの作詞したヒット曲のタイトルを書きながら、枚挙にいとまがないという言葉が浮かんできました。それ程、我々の心に残る言葉を紡いで来たのですね。

岩谷さんは、ミュージカルにも素晴らしい作品を残されています。
ミュージカルとしての初作品は、1960年、大阪労音ミュージカル「泥の中のルビー」で、作曲家いずみたく先生と組んで、2曲の歌詞を担当しました。
また、劇団四季などで……
「王様と私」「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「ミュージカル赤毛のアン」(ミュージカル)……他、多くの歌詞を手がけています。
聖書を題材に、イエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」(劇団四季)では、岩谷さんは聖書を1から勉強し、訳詞に向ったそうです。
岩谷さんの編集者感覚、プロデューサー感覚は、ミュージカルの訳詞においても光っていました。
素晴らしいミュージカルにおける訳詞での活躍に対し、第5回菊田一夫演劇賞・特別賞を受章されています。宝塚歌劇団からそのキャリアをスタートされた岩谷さんですから、ミュージカルでの活躍は当然かも知れませんね。

賞といえば、岩谷さんは数々の賞を受賞されています。
1964年、岸洋子さんの「夜明けのうた」で女性作詞家として初となる日本レコード大賞作詞賞を受賞されました。作詞=男性というイメージの強かった音楽業界のイメージを変えたのが岩谷さんだったのです。この時、岩谷さんは、48才!
中年とも言える年代からの大活躍。
1969年、佐良直美の「いいじゃないの幸せならば」で、第11回日本レコード大賞を受賞。
同年、佐良直美のアルバム「十二人の女」で芸術祭文部大臣賞奨励賞を受賞。
1986年、第2回東京都文化賞。1993年、春の叙勲 勲4等瑞宝章 受章。2009年、93歳で文化功労者として顕彰……。
輝かしい歴史を刻んできています。

ここで、一つ象徴的な賞をご紹介します。
それは、2006年第1回「渡邊晋賞」において岩谷さんが特別賞を受賞されたことです。
ご存知の方も多いと思いますが、渡邊晋さんは渡辺プロダクション初代社長で、現在のテレビ・バラエティー文化を創り上げた功労者とも言えるエンタテインメント・プロデューサーです。
「渡邊晋賞」は、氏の功績を後世に残すため、その足跡を継ぐ若い世代のプロデューサーを顕彰すべく設けられた新しい賞です。
そこで作詞家の岩谷時子さんが、特別賞を受賞されたことは、まさに、彼女の作詞家としての業績を支えてきたのは、彼女のプロデュース能力であった、との証明でもあります。
作詞という仕事を通じての岩谷さんのプロデューサー的な仕事ぶりが評価されたのです。

最後に、2009年、岩谷さん93歳の時、一般財団法人「岩谷時子音楽文化振興財団」が設立されました。そして、翌年から「岩谷時子賞」を設けました。
音楽・演劇界の明日を担う人材や、その向上・発展に功労のあった人物・団体に授与する賞です。
このことからも、岩谷さんがその人生を掛けて、プロデューサー感覚で作詞をし、人を育ててきたことが分かりますね。

現在も、帝国ホテルの一室を借り切り、創作に励んでいらっしゃるという岩谷時子さんの新作! ぜひ、聞かせて頂きたいと感じています。

著者・野口義修

 昭和の青春ポップスはこちら

ポチッをよろしくネ!

にほんブログ村 音楽ブログ 懐メロ邦楽へ
にほんブログ村

|

« 「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「恋をするなら」…。都会派歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広いジャンルで国民の支持を得た作曲家、吉田正。著・野口義修 | トップページ | ラジオが生んだヒット曲(中) »

昭和の作詞・作曲家列伝」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 当サイトのコーナー「昭和の作詞・作曲家列伝」(野口義修・著)から、2012年1月にご紹介した岩谷時子です。岩谷さんは、今月25日に逝去されました。ここに、慎んでご冥福をお祈り致します。:

« 「有楽町で逢いましょう」「いつでも夢を」「恋をするなら」…。都会派歌謡から青春歌謡、リズム歌謡まで幅広いジャンルで国民の支持を得た作曲家、吉田正。著・野口義修 | トップページ | ラジオが生んだヒット曲(中) »