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2013年9月

巨人軍の王貞治選手がホームラン世界記録756号を達成した昭和52年。

この年は、巨人軍の王貞治がホームラン世界記録756号を達成し、初の国民栄誉賞に輝いた。

競馬界では、暮れの有馬記念でテンポイントが前年の覇者トウショウボーイを破り優勝、屈辱をはたす。

戦後、アメリカに接収された東京・立川基地が返還、跡地の一部はのちに昭和記念公園となり都民の憩いの場に。

また、ロックンロールの帝王、エルヴィス・プレスリーが42歳で死去。

世代交代するかのように、アメリカのビジュアル系ロックバンド、KISSが初来日しコンサート動員10万人を記録。

映画では、シルベスター・スタローン主演の「ロッキー」が大ヒット。

邦画では、高倉健主演の「八甲田山」や「幸福の黄色いハンカチ」が人気を呼び、松田優作主演「人間の証明」、荻原健一主演「八つ墓村」が話題となる。

アニメ映画では「宇宙戦艦ヤマト」が初上映。

テレビでは、NET(日本教育テレビ)がテレビ朝日と改称し、同局で2時間ドラマの先駆けとなる「土曜ワイド劇場」が始まる。

また、超大型バラエティクイズ番組の「アメリカ横断ウルトラクイズ」(日本テレビ系)がスタートし、NHK朝の連続ドラマ「風見鶏」が人気を博した。

アニメでは「ヤッターマン」(フジテレビ系)が人気番組に。

歌謡界では、ピンク・レディーが「渚のシンドバッド」、「ウォンテッド」、「UFO」と立て続けにミリオンセラーを出しピンク旋風を巻き起こす。

また、キャンディーズが引退を宣言。

この年のヒット曲は、レコード大賞を受賞した沢田研二「勝手にしやがれ」をはじめ、森田公一とトップギャラン「青春時代」、小林旭「昔の名前で出ています」、さだまさし「雨やどり」、清水健太郎「失恋レストラン」、ハイ・ファイ・セット「フィーリング」、中島みゆき「わかれうた」などである。

デビューしたアーティストは、松山千春、長渕剛、原田真二、世良公則、アイドルでは榊原郁恵。

洋楽では、アバの「ダンシング・クィーン」が大ヒット。

カラオケがスナックや飲食店などに普及しだしたカラオケ元年の年でもあった。

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「もはや戦後ではない」神武景気にわき、三種の神器といわれた冷蔵庫、洗濯機、テレビが量産化された昭和31年は…。

「もはや戦後ではない」。
この年の経済白書ではこのように謳われ戦後の復興に終わりを告げた。

神武景気にわき、三種の神器といわれた冷蔵庫、洗濯機、テレビが量産化されていく。

前年、芥川賞を獲った石原慎太郎の小説「太陽の季節」が映画化され、主人公らをまねた若者たちを太陽族と呼んだ。

同映画で石原裕次郎がデビューし、2作目の「狂った果実」で主演。

石坂洋次郎原作の「乳母車」で芦川いづみと共演し好青年役を演じ、一躍銀幕の大スターに。

洋画では、ジェームズ・ディーンとエリザベス・テイラーが共演した「ジャイアンツ」や「戦争と平和」などが公開された。

テレビ番組では、NHKの人形劇「チロリン村とくるみの木」やアメリカのテレビドラマ「スーパーマン」が放映され人気を博す。

ラジオ番組では「赤銅鈴之助」や「少年探偵団」が子供たちの間で人気ドラマとなる。

音楽界では、ビル・ヘイリー「ロック・アラウンド・ザ・ロック」やエルビス・プレスリー「ハート・ブレイク・ホテル」の大ヒットから日本にもロックン・ロール、ロカビリーの波が押しよせる。

小坂一也が「ハート・ブレイク・ホテル」をカバーし人気歌手に。

この年は、大津美子「ここに幸あり」、鈴木三重子「愛ちゃんはお嫁に」、曽根史郎「若いお巡りさん」、三橋美智也「リンゴ村から」、島倉千代子「東京の人よさようなら」、山田真二「哀愁の街に霧が降る」、洋楽では、ハリー・ベラフォンテ「バナナ・ボード」や映画音楽「エデンの東」などがヒットした。

戦後11年が経ち、日本が国際連合に加盟、日ソ国交回復をはたした年でもある。

一方で、米軍立川基地の拡張計画に反対する運動が前年から噴出し、砂川闘争がぼっ発した。
立川基地は昭和52年に全面返還されその後、昭和記念公園となる。

出版社系では初の週刊誌「週刊新潮」が創刊され、週刊誌の時代を迎えた。

米原~京都間の電化工事完成で東海道本線が全線電化となり、大阪ではミナミのシンボルタワー、2代目通天閣が完成した。

また、大阪市をはじめ名古屋市、横浜市、京都市、神戸市が初の政令指定都市に。

一億総白痴化といわれた時代、日本は近代化へと突き進んでいった。

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俳優としての舟木一夫。日活青春路線に”歌謡映画”の王道確立。著者・鈴木清美

 石原裕次郎さん、吉永小百合さん、小林旭さん…、これまで、日活の歌う銀幕スターを紹介させていただいてきましたが、今回は、銀幕でも十二分に存在感を発揮した演じる青春歌謡スターの第一人者・舟木一夫さんによるスクリーンでの活躍を振り返ってみたいと思います。大ヒットしたデビュー曲「高校三年生」を皮切りに、「学園広場」「仲間たち」「君たちがいて僕がいた」「あゝ青春の胸の血は」といった一連の代表曲と同名の映画に始まり、自身が主役を務めた「北国の街」「高原のお嬢さん」「哀愁の夜」「絶唱」「夕笛」「君に幸福を/センチメンタルボーイ」「青春の鐘」などを経て、橋幸夫さん・西郷輝彦さんとともに御三家揃い踏みとなった「東京⇔パリ 青春の条件」にいたるまで、舟木さんが登場した映画作品は、デビューした1963年(昭和38年)から8年間で29本を数えました。とりわけ、日活では6年間に16本の作品が製作され、トップ俳優も顔負けの映画史に残る確かな足跡を残しています。

 舟木一夫さんのデビュー曲「高校三年生」(作詞・丘灯至夫/作曲・遠藤実)が発売されたのは1963年(昭和38年)6月のことですが、それから5カ月後の同年11月には映画「高校三年生」が公開されています。
 昨年3月に「芸能生活50周年記念公式バイオグラフィー」として刊行された労作『舟木一夫の青春賛歌』(大倉明著・産経新聞出版)によると、レコードが発売される前の5月には複数のテレビ番組で「高校三年生」を歌ったところ、「学生服で歌っていたのは誰だ」と問い合わせが殺到。前評判が高かったことから、デビュー盤の初回プレスは、当時の標準だった5000枚の8倍に当たる4万枚となりました。
 発売当時、体調を崩して福島県の猪苗代町で療養していた作詞家の丘灯至夫さんは、コロムビアの幹部から電話で売り上げ報告を受けており、そのメモによると、7月20日に11万枚、8月3日に16万枚、9月16日に41万枚と順調に売り上げを伸ばし、年末には100万枚を突破するミリオンセラーとなってしまいました。
 デビュー曲として破格のヒットを記録した「高校三年生」には、早速、大映からコロムビアとホリプロに映画化の企画が持ち込まれます。
 『舟木一夫の青春賛歌』によると、当時、大映は映画製作について“青春路線”を方針の一つとして打ち出し、その第一弾として「高校三年生」に白羽の矢が立てられたのでした。発売されて間もなく映画化が企画され、9月上旬に撮影し、11月半ばには公開されるという異例の展開だったといいます。
 「高校三年生」での共演は、橋幸夫さんの相手役として大映に入った姿美千子さん、日本初の“歌う映画スター”である高田浩吉さんの次女である高田美和さん、「ミスター平凡コンテスト」でグランプリに輝いた倉石功さん、ザ・スパイダースに加入したばかりの堺正章さんなどで、十代のニュースターばかりが揃った映画の中では、「淋しい町」や「只今授業中」(作詞・関沢新一/作曲・遠藤実)といったヒット曲のカップリング曲も流れました。
 舟木一夫さん自身も後年のインタビューで、「高校三年生」の映画化裏話として、「すげぇなと思ったのは、僕も9月にロケへ行っているんだが、企画会議やロケハン、台本づくり、配役決めなどを考えたら、7月には動き始めていないといけない」と述懐し、異例のスピードで映画化されたことに、改めて、驚いているほどです。
 シングル盤の発売ペースも凄まじく、デビューから2カ月後の8月に2枚目の「修学旅行」、10月に3枚目の「学園広場」、11月に4枚目の「仲間たち」と矢継ぎ早のリリースで、しかも、「学園広場」と「仲間たち」も映画化されており、デビューから4曲目までの間に、3曲も映画作品として残されるという異例づくめの展開となりました。
 舟木一夫さんの2枚目のシングル盤「修学旅行」も、当初、映画化の話があり、大映と所属プロダクションのホリプロで話が進められたものの、なかなか大映側の最終決定が出なかったため、しびれを切らしたホリプロ側が日活に打診したところ、当時、石原裕次郎作品などを手掛けていたプロデューサーの水の江滝子さんが発売されたばかりの3枚目のシングル版「学園広場」を映画化することを即決し、その後、舟木一夫さんの映画は日活でシリーズ化されることになったと言います(『舟木一夫の青春賛歌』)。

 当時の日活は、石原裕次郎さん、小林旭さん、赤木圭一郎さん、和田浩治さんの4人による「ダイヤモンドライン」と呼ばれたローテーションで、“アクション映画の日活”として斜陽化が始まっていた映画界にあって独り勝ち状態を続けていたものの、舟木一夫さんがデビューする前年の1962年(昭和37年)後半から翳りが見え始めていました。
 その対策として、吉永小百合さんや浜田光夫さんを中心とする青春路線も並行して確立されるようになったわけですが、それでも、テレビの急速な普及やコスト削減の要請などから、安い製作費で観客を動員できる映画づくりを迫られ、歌手のヒット曲をモチーフとする“歌謡映画”の製作が一気に拡大していくことになります。
 舟木一夫さんだけでなく、橋幸夫さんや西郷輝彦さんのヒット曲も映画化されていく中で、こうした歌謡映画を手掛ける脚本家の一人に、ニッポン放送を退社した後、水の江滝子さんの抜擢で日活の契約ライターとなっていた倉本聰さんも名前を連ねていました。
 「高校三年生」でデビューした1963年(昭和38年)から翌1964年(昭和39年)末までに、舟木一夫さんは17枚のシングル盤をリリースしていますが、この間に出演した映画は、「高校三年生」(大映)、「学園広場」(日活)、「ミスター・ジャイアンツ勝利の旗」(東京)、「仲間たち」(日活)、「君たちがいて僕がいた」(東映)、「夢のハワイで盆踊り」(東映)、「続・高校三年生」(大映)、「あゝ青春の胸の血は」(日活)の4社8作品を数えています。
 明けて1965年(昭和40年)1月に「花咲く乙女たち」が公開された後、10本目の作品となる「北国の街」で舟木一夫さんは、初めての主演を務めることになりました。
 『舟木一夫の青春賛歌』によると、「花咲く乙女たち」から舟木一夫さんは映画にも本格的に取り組むようになり、自身も「映画の主役として舟木がもつかどうかという勝負がかかっていた」という「北国の街」では、18日間のロケのために、テレビやステージなど数十本の仕事を全て断って出演するほどの力の入れようだったそうです。共演した和泉雅子さんも、「歌手がご愛嬌で出ているんじゃなくて、舟木君は役者をやっていましたよ。歌手は音程がいいから台詞が上手なんですが、舟木君は歌手の中でも断トツで完璧な芝居をやっていました」と振り返っています。脚本にある台詞の改善案などを大学ノートに書き込んでいたほどの熱心さで、和泉さんは「そんなことまでやっていたのは、日活では、小百合ちゃんと舟木君だけでしたよ」と述懐しているほどです。
 多くの歌謡映画の場合、楽曲がヒットしてから映画化されるというのが通例のパターンでしたが、この「北国の街」は、シングル盤のリリースと映画の公開が同時という異例の形となりました。舟木一夫さん自身が「ドラムを入れずにウクレレだけでリズムを刻んでいる新鮮な曲」と評価する「北国の街」は、作曲家・山路進一さんの代表曲とも言える傑作で、北村英治さんがクラリネットを担当するという贅沢な楽曲ですが、そのヒットを確信したかのようなレコード発売と映画の封切りが同時という展開は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった舟木一夫さんの全盛期の凄まじさを物語るものと言えるかもしれません。

 1966年(昭和41年)に公開された「絶唱」は、この年の日活配収第1位に輝いたヒット映画でしたが、その実現までには、紆余曲折がありました。
 映画の企画は、舟木一夫さんが年初に日活へ持ち込んだものの、亡くなった女性と結婚する話であることや1958年(昭和33年)に小林旭さんと浅丘ルリ子さんが出演した作品が苦戦したことなどから、経営陣としても製作に踏み切ることを躊躇したのです。
 出征場面での丸刈りにも意欲を示した舟木さんは、「もし入りが悪かったら、次の作品は、無条件・ノーギャラで出演します」と経営陣にかけあい、ようやく日活側からGOサインが出たと言います(『舟木一夫の青春賛歌』)。
 映画に自信を持っていた舟木一夫さんは、「主題歌は要りません」と主張したそうですが、日活側は「絶対に必要」と譲歩せず、レコード会社側もイメージが沸かずに困っていた時に、作曲家の市川昭介さんが「演歌を書いている新人作詞家の詞につけた曲を聴いて欲しい」とディレクターに持ってきた曲が、後の「絶唱」のメロディーでした。
 大御所・西條八十さんの作詞による楽曲は1966年(昭和41年)8月に発売され、並行して撮影が進行した映画は翌9月に公開されています。共演した和泉雅子さんが「2人の相性の良さが一番いい形で残った作品」と語る映画は、舟木一夫さんの思惑通りに大ヒットして、前述の通り、この年に公開された日活映画の配収第1位となりました。
 「絶唱」を作詞した西條八十さんは、「高校三年生」で作詞を担当した丘灯至夫さんの師匠でもあり、舟木一夫さんがデビュー曲で大ヒットを飛ばした後、西條八十さんは丘灯至夫さんに「俺にも舟木君の歌を書かせろよ」と冗談交じりに言っていたそうです。
 ちなみに、吉田正さんとの名コンビで橋幸夫さんの多くのヒット曲を作詞した佐伯孝夫さんも、フランス文学者でもある西條八十さんに師事したくて、西條八十さんが教授を務めていた早稲田大学文学部に進学していますから、丘灯至夫さんと佐伯孝夫さんは兄弟弟子だったことになります。
 以前も、この連載で書かせていただきましたが、舟木一夫さんのデビューからの一連のヒット曲を作曲した遠藤実さんは、デビュー前の橋幸夫さんの歌の先生でもありましたから、橋幸夫さんと舟木一夫さんが大歌手としての不動の地位を築いたバックボーンには、重要な共通のルーツがあったということになりそうです。
 映画評論家・双葉十三郎をして「彼は『絶唱』に俳優として登場し、立派な成功をおさめ、ここに輝かしい第2の出発のスタートを切った」と言わしめた舟木一夫さんは、1967年(昭和42年)にも「夕笛」で主演を務め、こちらも同年の日活配収第1位に輝きました。『舟木一夫の青春賛歌』によると、「絶唱」に続いて作詞をした西條八十さんから最初に届けられた詞のタイトルは「ふるさとの笛」だったそうですが、当初から映画化を考えていた舟木一夫さんは、映画のタイトルとして馴染まないと判断し、西條八十さんに「夕笛」への変更を打診し、西條八十さんが提案を快諾して、歌詞にも「夕笛」を追加したというエピソードも残っています。
 舟木一夫さんによる一連の日活映画への出演は、1968年(昭和43年)に公開された「青春の鐘」が最後となりました。
 「学園広場」から「青春の鐘」まで、舟木一夫さんが出演した日活作品の16本は、その殆どが曲名をそのまま映画のタイトルとしており、まさに歌謡映画の王道を極めた作品群として、日本映画史に確かな足跡を残しています。

著者・鈴木清美

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