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2013年7月

街頭テレビに群がった昭和32年…。

テレビはまだ庶民には手が届かず、街頭テレビに民衆が群がりプロレスの力道山に声援を送っていたこの時代。

ソ連(現・ロシア)では、世界初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功。
米国との間で本格的な宇宙開発競争が始まった。

日本では、南極に昭和基地が完成。

そして、首都・東京の水源となる人造湖、奥多摩湖が貯水を開始した。

また、新宿と箱根を結ぶ小田急に新型高速特急ロマンスカーが登場し、上野動物園内には日本初のモノレールが開業。

話題としては、東京・有楽町のそごうデパートオープンにあわせ、フランク永井が歌ったキャンペーンソング「有楽町で逢いましょう」が大ヒットした。

ちなみに現在は、そごうは閉店したが歌詞にある「雨もいとしや唄ってる」のフレーズを採った「イトシア」が有楽町の地にオープンしている。

またこの年、スーパーマーケットの先がけとなるダイエー1号店が大阪に開店。

流通時代の幕開けで、映画「三丁目の夕日」にも登場したダイハツの三輪車「ミゼット」が発売、商用車として大ヒットする。

映画では、フェリーニ監督の出世作イタリア映画「道」が公開、日本でも話題となる。

邦画では、佐田啓二、高峰秀子共演による灯台守のドラマ「喜びも悲しみも幾歳月」が上映され、若山彰が歌った主題歌も大ヒット。

そして、「嵐を呼ぶ男」や「俺は待ってるぜ」などの石原裕次郎主演映画が大フィーバーとなる。

この年、日本の映画会社5社が裕次郎人気で火がついた日活を受け入れ6社協定を締結。

この協定は、所属俳優は他の会社の映画やテレビ出演ができないという縛りがあった。

しかし、テレビの普及とともに映画は昭和33年をピークに衰退、昭和40年代に入りこの協定は自然消滅した。

映画俳優が使えないテレビ界では、アメリカのドラマを数多く仕入れ放送していた。

代表的なものに「アイ・ラブ・ルーシー」、「名犬ラッシー」などのヒット番組がある。

ヒット曲としては前述のほかに、ペギー葉山「ケ・セラ・セラ」、小坂一也「青春サイクリング」、浜村美智子「バナナ・ボード」、コロムビア・ローズ「東京のバスガール」、石原裕次郎「俺は待ってるぜ」、「錆びたナイフ」、島倉千代子「東京だよおっ母さん」、美空ひばり「港町十三番地」、三波春夫「チャンチキおけさ」、「船方さんよ」などがある。

洋楽では、パットブーン「砂に書いたラブレター」、エヴァリー・ブラザース「起きろよスージー」、プラターズ「オンリー・ユー」など。

その他の話題としては、前年の冬季オリンピックアルペンスキー3冠のトニー・ザイラーが来日。

また、中性的な男性をシスターボーイと呼び、丸山明宏(現・美輪)がその象徴となる。

100円硬貨が誕生し、ストレスという言葉が生まれた年。
日本の人口は9000万人を超え、大卒初任給は1万円の時代であった。

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吉永小百合 パートII 「寒い朝」「いつでも夢を」「勇気あるもの」で日本を元気にした。

 前回は、吉永小百合さんが主役に起用された映画「キューポラのある街」公開までの歴史を辿りましたが、皆さんもご存知のように、この作品は、日本映画史における大女優・吉永小百合さんの代名詞と言えるほどの代表作となりました。そして、この映画が公開された1962年(昭和37年)は、レコード大賞受賞やNHK紅白歌合戦5年連続出場という大きな実績を残した歌手としての吉永小百合さんのデビューの年でもあったのです。「寒い朝」「いつでも夢を」「勇気あるもの」など、吉田正・佐伯孝夫というビクターのゴールデンコンビによる多くの楽曲は、吉永小百合さんが躍動した日活の青春映画と同様に、1960年代の日本人に沢山の夢と勇気を与えてくれたのでした。

 吉永小百合さん自身の著書である『夢一途』(主婦と生活社)の巻末に掲載されている年譜によると、「キューポラのある街」が公開された1962年(昭和37年)には、この作品などでNHK最優秀新人賞を受賞し、さらに、翌年1月にはブルーリボン主演女優賞、2月にはミリオンパール女優主演賞とシルバースター新人女優賞などを相次いで受賞し、吉永小百合さんは、日活入社第1作となった「拳銃無頼帖・電光石火の男」でのデビューから3年目にして、女優として確固たる地位を築くことになりました。
 この著書で、吉永小百合さんは、「キューポラのある街」について、「社会派の青春映画として封切られた後に、どんどん評判が上がり、浜田さんと私の共演映画が、数多く企画されるようになりました」と振り返っています。
 その浜田光夫さんと共演した「赤い蕾と白い花」は、1962年(昭和37年)6月に公開されました。
 この映画は、石坂洋次郎さんの『寒い朝』が原作ですが、「6月に封切るのに『寒い朝』なんておかしい」という日活の重役による鶴の一声で、題名が変わってしまったといういわくつきの作品です。
 そして、この映画「赤い蕾と白い花」の主題歌として、和田弘とマヒナスターズをバックに歌われたのが、吉永小百合さんのデビュー曲となる「寒い朝」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)でした。
 吉永小百合さんは以前、歌手デビューした経緯について、「石原裕次郎さんや小林旭さんがレコード歌手としても活躍していた日活では、俳優が歌うのは当たり前というような風潮があって、女優の私も、歌手としてレコードを出すことになりました」といった趣旨のお話をされていたのを覚えていますが、日活の青春映画で活躍していた綺羅星のごとき多くの女優さんたちの中で、NHK紅白歌合戦出場やレコード大賞受賞という輝かしい実績を残したのは、吉永小百合さんだけであったことは周知の通りです。
 また、映画の方は原作と違う題名となりましたが、映画の封切りに先立つ1962年(昭和37年)4月に発売されたデビュー曲については、佐伯孝夫・吉田正の両先生が「寒い朝」という曲名に強くこだわったため、そのまま原作と同じタイトルで発売に至ったというエピソードも残されています。
 ♪北風吹きぬく 寒い朝も
  心ひとつで 暖かくなる…♪
 マイナーの旋律にも関わらず、どこか温もりを感じさせる暖かい歌い出しで始まり、♪清らかに咲いた 可憐な花も…♪というサビの部分でメジャーに転調する吉田メロディーの素晴らしさと、厳しい環境にも決してめげずに、逆境をバネにして明るく逞しく元気に胸を張ろうと謳い上げる佐伯ワールド全開の歌詞の力強さは、その楽曲のパワーを見事に凝縮した「寒い朝」というタイトルとともに、私たちの記憶にしっかりと刻まれることになったのでありました。
 吉永小百合さんは、このデビュー曲「寒い朝」のヒットによって、この年の大晦日の第13回NHK紅白歌合戦に初出場を果たしています。

 「寒い朝」に続くシングル第2弾として、1962年(昭和37年)7月にリリースされたのが、前年の10月に公開された映画「草を刈る娘」の同名主題歌(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)でした。
 DVDマガジン『吉永小百合私のベスト20/第10号「草を刈る娘」』(講談社)には、日活は当初、この曲でのデビューを予定していましたが、吉田正さんの「この曲でのデビューは相応しくない」という判断から、「草を刈る娘」が第2弾に回されたという後日談が書かれています。
 当時は、レコードが映画の“宣伝の一環”と考えられていた時代で、石原裕次郎さんがテイチク、小林旭さんがコロムビア、赤木圭一郎さんがポリドールという具合に、日活の専属スターはそれぞれ所属が異なっていました。これは、各社へスターを均等に割り振るという配慮からだったようです。吉永小百合さんは、「男性スターに続いて女性スターにもレコードを」という日活の思惑もあり、当初からビクター専属となることが決まっていました。
 そして、1962年(昭和37年)9月には、「寒い朝」「草を刈る娘」とデビューから2曲続けてビクター・ヒット賞を受賞した吉永小百合さんの3曲目のシングル盤として、橋幸夫さんとのデュエットによる「いつでも夢を」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)が発売されました。
 吉田正さんが以前、テレビの番組で「もともと小百合ちゃんに作った曲だったんだけど、男性歌手とのデュエット曲にしようということになり、当時、ビクターの若手男性歌手として人気ナンバーワンだった橋君と一緒に歌ってもらった」というエピソードを紹介されていたのを覚えています。「キューポラのある街」で一気にブレークした吉永小百合さんとの強力コンビによる作品が、年末には、第4回日本レコード大賞まで受賞してしまう大ヒットとなったのは、皆さんもご存じの通りです。
 ただ、大晦日の紅白歌合戦では、吉永小百合さんと橋幸夫さんが紅組と白組に分かれて登場したため、東京宝塚劇場のステージで吉永小百合さんが歌ったのは、デビュー曲の「寒い朝」で、「いつでも夢を」は、白組の14番目に登場した橋さんが一人で歌う形となりました。しかも、吉永小百合さんは紅組の12番目での登場だったため、二人が対戦する組み合わせにもなっていませんから、当時のファンにとっては、肩透かしのような感じだったかもしれません。
 ちなみに、この年の紅白での吉永小百合さんの対戦相手は坂本九さんで、1962年(昭和37年)11月に公開された二人の共演による映画「一人ぼっちの二人だが」のモチーフとなった「一人ぼっちの二人」(作詞・永六輔/作曲・中村八大)を歌っていますから、紅白歌合戦の演出としては、むしろ、この映画を意識した二人の組み合わせになっていたようです。
 大ヒットした「いつでも夢を」は、吉永小百合さんと橋幸夫さんに加えて、浜田光夫さんや松原智恵子さんなども出演する豪華スターキャストの正月映画第2弾として1963年(昭和38年)1月に公開されました。正月映画第一弾は、吉永小百合さんと浜田光夫さんの“純愛コンビ”による「青い山脈」でしたから、まさに“小百合ブーム”で年が開けたことになり、まだまだ、映画館に多くの人が集まっていた時代も偲ばれるラインナップだったと言えます。
 映画「いつでも夢を」の主題歌は、もちろん、二人のデュエットによるものですが、シングル盤とは別バージョンで、曲のテンポも少しゆっくりめのレコーディングとなっています。当時、日活では、主題歌や挿入歌は撮影所内にあるダビングスタジオで録音することが多く、曲のアレンジが異なるケースも珍しくないので、コアな歌謡曲ファンには、別の楽しみ方もできそうです。
 シングル盤では、忙しい二人のスケジュールを調整することができず、別々にレコーディングせざるを得なかったというのは、ファンの間では有名な話ですが、映画の共演で二人が一緒に撮影所に詰める形となった映画の主題歌バージョンの方は、二人でダビングスタジオに入って、実際にデュエットの形で歌ったものかもしれません。
 また、映画では、橋幸夫さんが「潮来笠」「おけさ唄えば」「若いやつ」なども歌っていますから、橋さんファンにとっても、見逃せない作品だったことは容易に想像されるところです。

 1962年(昭和37年)11月に公開された映画「一人ぼっちの二人だが」で、吉永小百合さんと坂本九さんが共演したことは、既に書かせていただいた通りですが、実は、この映画に先行して、坂本九さんの代表曲「上を向いて歩こう」(作詞・永六輔/作曲・中村八大)を映画化した作品が、二人にとっての初共演でした。
 この映画「上を向いて歩こう」について、吉永小百合さんは著書『夢一途』の中で、次のように書いています。
 「『キューポラのある街』に続いて『上を向いて歩こう』の撮影が始まりました。坂本九ちゃんのヒットソングの映画化で、九ちゃんをはじめ、浜田くん、高橋英樹くん、渡辺トモコちゃんたちと共演でした。キューポラとはガラッと違って華やかな青春映画でしたが、シナリオがおもしろく、私はまたまた張り切っていました」
 この後、石原裕次郎さんとの本格的な共演となった「若い人」を経て、再び、坂本九さんとのコンビによる「一人ぼっちの二人だが」の撮影に入っており、「上を向いて歩こう」と同様に、坂本九さんのヒット曲の映画化でしたけれども、DVDマガジン『吉永小百合私のベスト20』(講談社)のシリーズでは、「上を向いて歩こう」ではなく「一人ぼっちの二人だが」の方がピックアップされています。
 1988年(昭和63年)の著書で、吉永小百合さんは「身寄りのない者同士、九とユキが、指人形を使って語り合うところは、ミニ・ミュージカルになっていて、心温まるシーンになりました」と振り返っていますが、今年5月に発行されたばかりのDVDマガジンでも、「そのシーンが楽しくて、歌詞もメロディも忘れずに覚えていて、ずいぶん後に九ちゃんとテレビで思い出話をしたことがありました」と書かれています。「一緒に歌ったときのイメージは、九ちゃんが亡くなってしまった今も胸のなかから離れません」という文章から、吉永小百合さん自身にとって極めて大切な作品となっていることが偲ばれます。
 歌の世界に話を戻しますと、吉永小百合さんは、1962年(昭和37年)に「寒い朝」でNHK紅白歌合戦に初出場した後、1966年(昭和41年)まで5年連続で紅白出場を果たしています。紅白で歌った曲は、1963年(昭和38年)が「伊豆の踊子」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)、1964年(昭和39年)が「瀬戸のうず潮」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)、1965年(昭和40年)が「天満橋から」(作詞・佐伯孝夫/作曲・大野正雄)、1966年(昭和41年)が「勇気あるもの」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)でした。
 この間、吉永小百合さんはソロの楽曲だけにとどまらず、「いつでも夢を」の橋幸夫さんとは、「若い東京の屋根の下」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)、「そこは青い空だった」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)などのデュエット曲を残していますし、同じビクターの後輩に当たる三田明さんとも、「若い二人の心斎橋」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)、「明日は咲こう花咲こう」(作詞・西沢爽/作曲・吉田正)などの楽曲をヒットさせており、昭和歌謡史的にみても、あるいは、もっともデュエットソングのヒット曲が多い女性シンガーと言えるかもしれません。
 映画「いつでも夢を」では、定時制高校からの帰り道に、吉永小百合さん、浜田光夫さん、松原智恵子さんなどの日活青春スターが「寒い朝」を一緒に歌う場面がクライマックスシーンの一つになっていて、見る者の心に迫ってきます。
 冒頭でも書かせていただいた通り、逆境をバネに明るく逞しく元気に胸を張ろうと謳い上げる吉田正・佐伯孝夫のゴールデンコンビによる「寒い朝」や「いつでも夢を」などの作品は、高度成長時代の日本を象徴する青春歌謡の名曲として、今も多くの人によって歌い継がれてきているわけですが、その吉田・佐伯ワールドを体現する歌手としての吉永小百合さんの存在の大きさは、もっと強調されてもいいいように思います。
 吉永小百合さんが、日本映画史上に燦然と輝く大女優であると同時に、歌謡曲史においても着実に一つの時代を築いた稀有な歌手であったことは間違いありません。


著者・鈴木清美

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吉永小百合 パートI 「キューポラのある街」で人気を確立

この連載タイトルの一部である「昭和のメディア」の中で大衆文化の伝播において最も強い力を発揮した3大媒体が、ラジオと映画とテレビであったことは論を俟たないのではないかと思います。今回は、その3つのメディア全てで大きな存在感を示し、とりわけ、1960年代の映画全盛期に日活青春映画で圧倒的な人気を誇り、「サユリスト」という社会現象まで引き起こして、デビューから半世紀以上を経た今もなお、第一線で活躍を続ける吉永小百合さんを取り上げさせていただきます。

 吉永小百合さんが芸能界でのメジャーデビューを果たした記念すべき作品は、1957年(昭和32年)1月から放送が開始されたラジオ東京の「赤胴鈴之助」でした。

 「ええーい、たぁー」

 「うーん、ちょこざいな小僧め、名を 名を名乗れ」

 「赤胴鈴之助だぁ!」

 ♪剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士

  親はいないが元気な笑顔 弱い人には見方する

  オー がんばれ 頼むぞ 僕らの仲間 赤胴鈴之助♪

 印象的な活劇シーンから始まる元気いっぱいの主題歌は、その後、「赤胴鈴之助」が大映でも映画化され、シリーズ作品として9本も公開されているからか、ラジオドラマの放送当時、2歳にも満たない年齢だった筆者も、ほぼリアルタイムで、この歌を覚えていたように記憶しています。改めて、この歌を口ずさんでみたら、「がんばれ 頼むぞ」というフレーズ辺りで、東八郎さんの顔が浮かんできてしまいました。

 赤胴鈴之助は、もともと、『少年画報』に連載されていたマンガ作品で、当初は「イガグリくん」の福井英一さんが執筆を担当しましたが、第1回の出稿後に33歳という若さで急逝したため、『少年ジェット』や『コンドルキング』の武内つなよしさんが描き継いだことでも知られています。

 このマンガ作品をラジオドラマ化したのがラジオ東京で、1956年(昭和31年)暮れに行われたオーディションに、当時、小学校6年生の吉永小百合さんが合格したのでした。

 吉永小百合さんが演じたのは、父親の形見である赤胴を付けた少年剣士の鈴之助が修行する北辰一刀流道場の主・千葉周作の娘・千葉さゆり役で、ドラマの中では鈴之助の相手役というヒロイン的な存在だったようです。ラジオドラマの語り手は山東昭子さんで、大平徹さんや宝田明さん、藤田弓子さんなどが共演者として名前を連ねています。

 冒頭で紹介した「赤胴鈴之助の歌」(作詞・藤島信人/作曲・金子三雄)を歌ったのは、1954年(昭和29年)の第5回NHK紅白歌合戦に11歳で出場した河野ヨシユキさんで、河野さんはその後、ロカビリー歌手として「ツイスト天国」などもヒットさせました。

 ラジオドラマ「赤胴鈴之助」への出演で芸能界のキャリアを本格的にスタートさせた吉永小百合さんは、中学生になるとテレビや映画にも仕事の幅を広げ、中学では進級を認められるぎりぎりのラインとされる3分の1までを欠席せざるをえないほどとなります。

 それでも、「芸能界だけでなく、普通の生活で同年代の仲間との時間を持つことが大切だと考えた」という吉永小百合さんは、受験勉強の時間を割くのも難しい状況だったにも関わらず、持ち前の頑張り屋精神と天性の頭の良さ、それにヤマカケの運も味方につけて、都立駒場高校に合格したのでした。

 吉永小百合さんが日活に入社したのは1960年で、駒場高校の1年生になったばかりの時です。

 昨年11月から刊行が開始されたDVDマガジン『日活100周年記念企画/吉永小百合 私のベスト20』(講談社)の第4号「伊豆の踊子」には、なんと、日活入社時に提出した履歴書が掲載されており、その自筆の履歴書には「学歴:都立駒場高校第一学年在学中」とあります。

 忙しかった中学時代の芸歴も書かれていますので、そのまま、引用させていただくと、次の通りです。

芸歴

一.昭和31年12月 ラジオ東京「赤胴鈴之助」の主役に応募。鈴之助の相手役「さゆり」として満二年三カ月出演

一.昭和32年 9月 ラジオ東京テレビ「赤胴鈴之助」のレギュラー(お妙)として満一年半出演

一.昭和34年 2月 松竹映画「朝を呼ぶ口笛」(三月封切)に出演

一.昭和34年 4月 テレビ映画(ラジオ東京)「まぼろし探偵」の主役の相手役「吉野さくら」で満一年間出演

一.昭和34年12月 映画「まぼろし探偵」にテレビと同じ役で出演(二月新東宝封切)

この間、日本テレビ(S・O・Sパリ)、中部日本放送、ラジオ東京の語り手又は俳優として、しばしば出演。目下各社のテレビ・コマーシャルに出演中

外に歌手としてN・H・K・ラジオ東京より度々放送出演

 この自筆の芸歴を見ていて思い出しましたが、吉永小百合さんは「赤胴鈴之助」の後にテレビドラマ「まぼろし探偵」(KRT・1959年4月~1960年3月)にも出演していたのでした。筆者自身、今から30年以上も前に、VHSで市販されていた「まぼろし探偵」のビデオを購入して、何度も繰り返し見ていたはずのに、すっかり忘れてしまっていましたが、この「まぼろし探偵」でも「赤胴鈴之助」と同様に、藤田弓子さんが共演していたのも思い出しました。

 日活に入社した吉永小百合さんが初めて出演した作品は、赤木圭一郎さんが主演した拳銃無頼帖シリーズの作品「電光石火の男」(1960年5月公開)で、喫茶店のウェートレス役だった吉永小百合さんの登場シーンは数カットに過ぎず、セリフも二言三言という感じですが、本格的な演技を見せる最初の作品も、やはり、赤木圭一郎さんの代表作品と言われる「霧笛が俺を呼んでいる」(1960年7月公開)で、吉永小百合さんは、赤木さんが演じた主役の友人の妹役として登場しています。その可愛いルックスと初々しい演技は、50年が経過した今なお、まばゆいばかりです。また、この映画の公開から半年後には夭折してしまう赤木圭一郎さんによる主題歌「霧笛が俺を呼んでいる」(作詞・水木かおる/作曲・藤原秀行)も、赤木圭一郎さんの代表曲として記憶されています。

 同じ年の11月公開された「ガラスの中の少女」は、吉永小百合さんによる初めての主演作品となり、湖での心中場面で冷たい湖面に浮かぶシーンの撮影中、実際に失神してしまうという体当たりの演技で、見事に主役を演じ切りました。

 吉永小百合さんにとっては、日活入社後6本目の作品となった「ガラスの中の少女」は、スターが主演する看板作品の添えもの的に上映されるプログラム・ピクチャーと呼ばれる低予算の小品でしたが、浜田光夫さんとの初コンビによるストーリーは、境遇の違う二人の運命や平和そうに見える家族の複雑な関係など、その後の日活青春映画における原点とも言えるもので、1988年(昭和63年)には、後藤久美子さんと吉田栄作さんとの共演でリメイクされるなど、日本映画史上においても、メルクマール的な作品に位置づけられています。

 そして、1962年(昭和37年)4月には、吉永小百合さんが映画女優としての地位を確立し、吉永小百合さん自身の代表作の一つである「キューポラのある街」が公開されることになります。

 この作品は、前年の1961年(昭和36年)に児童図書として出版された早船ちよさんの著作を、日活入社から8年目で助監督から監督に昇格することが決まった浦山桐郎さんが同年春に書店で手にし、拾い読みしているうちに「体中にピリピリッと電気走った」という「キューポラのある街」を自身の監督第一作にすることを決めたものでした。浦山監督は、3カ月ほど舞台となった川口を歩き回って材料を集めた後、シナリオの共同執筆を依頼した今村昌平さんと映画の構成を考えたそうです。

 シナリオを書き終えたのは同年9月頃でしたが、完成したシナリオは2時間近くもあり、助監督から監督になる時は、プログラム・ピクチャーから始めるという当時の慣習からは、かけはなれた長さとなっていました。当然、会社側は難色を示し、シナリオは3カ月ほど宙に浮く形となりますが、企画そのものがボツになることを案じた浦山監督は、シナリオを縮めて1時間20分以内に収めると譲歩しながら執拗に交渉を進めたところ、会社側が交換条件として出してきたのが、主役に吉永小百合さんを起用することだったと言います。

 吉永小百合さんは、1960年(昭和35年)の入社以来、翌61年(昭和36年)秋の「草を刈る娘」までに、20本を超える作品に出演して主演級までには成長していたものの、石原裕次郎さんや小林旭さんなどのヒロインや第2ヒロインの役には、いま一つはまりきらない状況が続いていました。

 既に清純少女スタートしてブロマイドも売れ始めていた吉永小百合さんですが、会社側から名前を示された浦山監督は「どんな子なのか見当もつかずにいた」そうで、助監督仲間に本人を撮影所の食堂まで連れてきてもらい、初めて会うことになります。「可憐すぎ、その名の通り上品すぎた」吉永小百合さんは、浦山監督がイメージする主人公の石黒ジュンからはかけ離れていましたが、主役の起用を拒否すれば、「キューポラのある街」の映画化自体が実現しなくなりかねず、浦山監督は「吉永でもいいや」と自分に言い聞かせて、会社の条件を受け入れたのでした。

 会社側の提案を消極的に受け入れた浦山監督ですが、この二人の出会いによって日本映画史上に燦然と輝く名作「キューポラのある街」が誕生したわけですから、運命的な出会いであったことは間違いありません。

 吉永小百合さんは、『日活100周年記念企画/吉永小百合 私のベスト20』第1号「キューポラのある街」で、この映画を「私にとって、とても大切な作品」と位置づけ、「はじめて“考えて演じる”ということを浦山桐郎監督に教えていただきました」と語っています。

 また、この作品を見た永六輔さんは、吉永小百合さんに手紙を書いて、「あなたは、もうこれでやめてください」と賛辞を贈ったそうですが、吉永小百合さんも、「私は、仕事をするときに、つねに“キューポラ超え”を目指してきました」と述懐しているほどです。

 吉永小百合さんは1965年(昭和40年)に「キューポラのある街」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)という曲をリリースしていますが、この作品は、同年5月に公開された映画「未成年 続・キューポラのある街」に合わせて発売されたものでした。

 さらに、映画「キューポラのある街」が公開された翌月の1962年(昭和37年)5月には、吉永小百合さんのデビューシングル「寒い朝」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)がリリースされ、年末の第17回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、歌手としても華々しく活躍することになるわけですが、この歌謡曲の世界での展開は、次回の連載で書かせていただくことにします。

著者・鈴木清美

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石原裕次郎が常連だったバーのマスターの店

東京・赤坂に「yu's」という名のバーがある。
ここのマスターは昭和40年代オープン時から11年前の改装による閉店まで、赤坂東急ホテルでバーテンをやっていた。
そこの常連の一人に、俳優の石原裕次郎がいた。
裕次郎は、いつもレジ横のカウンターで、目立つことを避けるように独り静かに飲んでいたと。
仲間ときたときも、他の客や周りを気遣いながら飲んでいたという。
そんな当時のエピソードを淡々と語るマスター。
店内の棚には、裕次郎が刑事ドラマで愛用した拳銃をはじめ、裕次郎とマスターの思い出の写真やサインがところ狭しと飾られている。
BGMは、もちろん、裕次郎楽曲。カラオケも用意している。
店名は、まき子夫人がつけたもの。
裕次郎ファンならずとも是非一度、訪ねてみてはいかがか。
カウンターで飲みながらマスターと語るのがベスト。

敬称略
川原和博

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