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吉永小百合 パートI 「キューポラのある街」で人気を確立

この連載タイトルの一部である「昭和のメディア」の中で大衆文化の伝播において最も強い力を発揮した3大媒体が、ラジオと映画とテレビであったことは論を俟たないのではないかと思います。今回は、その3つのメディア全てで大きな存在感を示し、とりわけ、1960年代の映画全盛期に日活青春映画で圧倒的な人気を誇り、「サユリスト」という社会現象まで引き起こして、デビューから半世紀以上を経た今もなお、第一線で活躍を続ける吉永小百合さんを取り上げさせていただきます。

 吉永小百合さんが芸能界でのメジャーデビューを果たした記念すべき作品は、1957年(昭和32年)1月から放送が開始されたラジオ東京の「赤胴鈴之助」でした。

 「ええーい、たぁー」

 「うーん、ちょこざいな小僧め、名を 名を名乗れ」

 「赤胴鈴之助だぁ!」

 ♪剣をとっては日本一に 夢は大きな少年剣士

  親はいないが元気な笑顔 弱い人には見方する

  オー がんばれ 頼むぞ 僕らの仲間 赤胴鈴之助♪

 印象的な活劇シーンから始まる元気いっぱいの主題歌は、その後、「赤胴鈴之助」が大映でも映画化され、シリーズ作品として9本も公開されているからか、ラジオドラマの放送当時、2歳にも満たない年齢だった筆者も、ほぼリアルタイムで、この歌を覚えていたように記憶しています。改めて、この歌を口ずさんでみたら、「がんばれ 頼むぞ」というフレーズ辺りで、東八郎さんの顔が浮かんできてしまいました。

 赤胴鈴之助は、もともと、『少年画報』に連載されていたマンガ作品で、当初は「イガグリくん」の福井英一さんが執筆を担当しましたが、第1回の出稿後に33歳という若さで急逝したため、『少年ジェット』や『コンドルキング』の武内つなよしさんが描き継いだことでも知られています。

 このマンガ作品をラジオドラマ化したのがラジオ東京で、1956年(昭和31年)暮れに行われたオーディションに、当時、小学校6年生の吉永小百合さんが合格したのでした。

 吉永小百合さんが演じたのは、父親の形見である赤胴を付けた少年剣士の鈴之助が修行する北辰一刀流道場の主・千葉周作の娘・千葉さゆり役で、ドラマの中では鈴之助の相手役というヒロイン的な存在だったようです。ラジオドラマの語り手は山東昭子さんで、大平徹さんや宝田明さん、藤田弓子さんなどが共演者として名前を連ねています。

 冒頭で紹介した「赤胴鈴之助の歌」(作詞・藤島信人/作曲・金子三雄)を歌ったのは、1954年(昭和29年)の第5回NHK紅白歌合戦に11歳で出場した河野ヨシユキさんで、河野さんはその後、ロカビリー歌手として「ツイスト天国」などもヒットさせました。

 ラジオドラマ「赤胴鈴之助」への出演で芸能界のキャリアを本格的にスタートさせた吉永小百合さんは、中学生になるとテレビや映画にも仕事の幅を広げ、中学では進級を認められるぎりぎりのラインとされる3分の1までを欠席せざるをえないほどとなります。

 それでも、「芸能界だけでなく、普通の生活で同年代の仲間との時間を持つことが大切だと考えた」という吉永小百合さんは、受験勉強の時間を割くのも難しい状況だったにも関わらず、持ち前の頑張り屋精神と天性の頭の良さ、それにヤマカケの運も味方につけて、都立駒場高校に合格したのでした。

 吉永小百合さんが日活に入社したのは1960年で、駒場高校の1年生になったばかりの時です。

 昨年11月から刊行が開始されたDVDマガジン『日活100周年記念企画/吉永小百合 私のベスト20』(講談社)の第4号「伊豆の踊子」には、なんと、日活入社時に提出した履歴書が掲載されており、その自筆の履歴書には「学歴:都立駒場高校第一学年在学中」とあります。

 忙しかった中学時代の芸歴も書かれていますので、そのまま、引用させていただくと、次の通りです。

芸歴

一.昭和31年12月 ラジオ東京「赤胴鈴之助」の主役に応募。鈴之助の相手役「さゆり」として満二年三カ月出演

一.昭和32年 9月 ラジオ東京テレビ「赤胴鈴之助」のレギュラー(お妙)として満一年半出演

一.昭和34年 2月 松竹映画「朝を呼ぶ口笛」(三月封切)に出演

一.昭和34年 4月 テレビ映画(ラジオ東京)「まぼろし探偵」の主役の相手役「吉野さくら」で満一年間出演

一.昭和34年12月 映画「まぼろし探偵」にテレビと同じ役で出演(二月新東宝封切)

この間、日本テレビ(S・O・Sパリ)、中部日本放送、ラジオ東京の語り手又は俳優として、しばしば出演。目下各社のテレビ・コマーシャルに出演中

外に歌手としてN・H・K・ラジオ東京より度々放送出演

 この自筆の芸歴を見ていて思い出しましたが、吉永小百合さんは「赤胴鈴之助」の後にテレビドラマ「まぼろし探偵」(KRT・1959年4月~1960年3月)にも出演していたのでした。筆者自身、今から30年以上も前に、VHSで市販されていた「まぼろし探偵」のビデオを購入して、何度も繰り返し見ていたはずのに、すっかり忘れてしまっていましたが、この「まぼろし探偵」でも「赤胴鈴之助」と同様に、藤田弓子さんが共演していたのも思い出しました。

 日活に入社した吉永小百合さんが初めて出演した作品は、赤木圭一郎さんが主演した拳銃無頼帖シリーズの作品「電光石火の男」(1960年5月公開)で、喫茶店のウェートレス役だった吉永小百合さんの登場シーンは数カットに過ぎず、セリフも二言三言という感じですが、本格的な演技を見せる最初の作品も、やはり、赤木圭一郎さんの代表作品と言われる「霧笛が俺を呼んでいる」(1960年7月公開)で、吉永小百合さんは、赤木さんが演じた主役の友人の妹役として登場しています。その可愛いルックスと初々しい演技は、50年が経過した今なお、まばゆいばかりです。また、この映画の公開から半年後には夭折してしまう赤木圭一郎さんによる主題歌「霧笛が俺を呼んでいる」(作詞・水木かおる/作曲・藤原秀行)も、赤木圭一郎さんの代表曲として記憶されています。

 同じ年の11月公開された「ガラスの中の少女」は、吉永小百合さんによる初めての主演作品となり、湖での心中場面で冷たい湖面に浮かぶシーンの撮影中、実際に失神してしまうという体当たりの演技で、見事に主役を演じ切りました。

 吉永小百合さんにとっては、日活入社後6本目の作品となった「ガラスの中の少女」は、スターが主演する看板作品の添えもの的に上映されるプログラム・ピクチャーと呼ばれる低予算の小品でしたが、浜田光夫さんとの初コンビによるストーリーは、境遇の違う二人の運命や平和そうに見える家族の複雑な関係など、その後の日活青春映画における原点とも言えるもので、1988年(昭和63年)には、後藤久美子さんと吉田栄作さんとの共演でリメイクされるなど、日本映画史上においても、メルクマール的な作品に位置づけられています。

 そして、1962年(昭和37年)4月には、吉永小百合さんが映画女優としての地位を確立し、吉永小百合さん自身の代表作の一つである「キューポラのある街」が公開されることになります。

 この作品は、前年の1961年(昭和36年)に児童図書として出版された早船ちよさんの著作を、日活入社から8年目で助監督から監督に昇格することが決まった浦山桐郎さんが同年春に書店で手にし、拾い読みしているうちに「体中にピリピリッと電気走った」という「キューポラのある街」を自身の監督第一作にすることを決めたものでした。浦山監督は、3カ月ほど舞台となった川口を歩き回って材料を集めた後、シナリオの共同執筆を依頼した今村昌平さんと映画の構成を考えたそうです。

 シナリオを書き終えたのは同年9月頃でしたが、完成したシナリオは2時間近くもあり、助監督から監督になる時は、プログラム・ピクチャーから始めるという当時の慣習からは、かけはなれた長さとなっていました。当然、会社側は難色を示し、シナリオは3カ月ほど宙に浮く形となりますが、企画そのものがボツになることを案じた浦山監督は、シナリオを縮めて1時間20分以内に収めると譲歩しながら執拗に交渉を進めたところ、会社側が交換条件として出してきたのが、主役に吉永小百合さんを起用することだったと言います。

 吉永小百合さんは、1960年(昭和35年)の入社以来、翌61年(昭和36年)秋の「草を刈る娘」までに、20本を超える作品に出演して主演級までには成長していたものの、石原裕次郎さんや小林旭さんなどのヒロインや第2ヒロインの役には、いま一つはまりきらない状況が続いていました。

 既に清純少女スタートしてブロマイドも売れ始めていた吉永小百合さんですが、会社側から名前を示された浦山監督は「どんな子なのか見当もつかずにいた」そうで、助監督仲間に本人を撮影所の食堂まで連れてきてもらい、初めて会うことになります。「可憐すぎ、その名の通り上品すぎた」吉永小百合さんは、浦山監督がイメージする主人公の石黒ジュンからはかけ離れていましたが、主役の起用を拒否すれば、「キューポラのある街」の映画化自体が実現しなくなりかねず、浦山監督は「吉永でもいいや」と自分に言い聞かせて、会社の条件を受け入れたのでした。

 会社側の提案を消極的に受け入れた浦山監督ですが、この二人の出会いによって日本映画史上に燦然と輝く名作「キューポラのある街」が誕生したわけですから、運命的な出会いであったことは間違いありません。

 吉永小百合さんは、『日活100周年記念企画/吉永小百合 私のベスト20』第1号「キューポラのある街」で、この映画を「私にとって、とても大切な作品」と位置づけ、「はじめて“考えて演じる”ということを浦山桐郎監督に教えていただきました」と語っています。

 また、この作品を見た永六輔さんは、吉永小百合さんに手紙を書いて、「あなたは、もうこれでやめてください」と賛辞を贈ったそうですが、吉永小百合さんも、「私は、仕事をするときに、つねに“キューポラ超え”を目指してきました」と述懐しているほどです。

 吉永小百合さんは1965年(昭和40年)に「キューポラのある街」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)という曲をリリースしていますが、この作品は、同年5月に公開された映画「未成年 続・キューポラのある街」に合わせて発売されたものでした。

 さらに、映画「キューポラのある街」が公開された翌月の1962年(昭和37年)5月には、吉永小百合さんのデビューシングル「寒い朝」(作詞・佐伯孝夫/作曲・吉田正)がリリースされ、年末の第17回NHK紅白歌合戦に初出場するなど、歌手としても華々しく活躍することになるわけですが、この歌謡曲の世界での展開は、次回の連載で書かせていただくことにします。

著者・鈴木清美

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