« 今週のイチオシ!~待つわ あみん~ | トップページ | 「昭和の青春ポップス」新ロゴマーク募集!! »

日活100周年〜日活を想う・その2

社歴は古くとも戦後9年目の1954年に、改めて映画製作に乗り出した日活。他社に遅れをとった、いわば新興勢力だ。
その社風は、「あの頃は、俳優やスタッフがみな若く、生き生きとして輝いていた。そして、仲間意識が強かった。」と、元日活女優・西尾三枝子が述懐するように、チャレンジスピリットに満ち溢れていたのだろう。
日本映画は戦後、GHQの下部組織CIEの管理下におかれ、1951年のサンフランシスコ講和条約締結の翌年まで、作品検閲が行われていた。
規制が解かれると、満を持して多くの作品が各社競うように作られていく。
日活の自社製作は、まさにこのようなタイミングでの再開だった。
さて、デビュー後の裕次郎は、「風速40米」、「紅の翼」などのアクション映画と並行して、「陽のあたる坂道」や「あじさいの歌」など石坂洋次郎原作の文芸作品にも数多く出演し、多彩な演技力を身につけていった。
小林旭は、1956年「飢える魂」でデビュー。
1959年、歌謡映画「南国土佐を後にして」の主演で脚光を浴び、同年から始まった「銀座旋風児(ぎんざマイトガイ)シリーズ」や「渡り鳥シリーズ」で、裕次郎に匹敵するほどのアクション俳優として、その人気を誇示した。
赤木圭一郎は、1958年、日活第4期ニューフェイスとしてデビュー。
トニーの愛称で親しまれ、1960年には「霧笛が俺を呼んでいる」や「拳銃無頼帖シリーズ」で超人気アクションスターとなる。
しかし、人気絶頂のさ中、撮影所内で起きたゴーカート事故により、1961年2月21日、21歳の若さで夭折。
彼がブレイクしたのは、2年足らずの間だが、今でも多くの根強いファンに語り継がれ、その存在は半ば伝説化している。
日本映画の観客動員数は、1958年の11億2700万人がピーク。
この翌年から1964年まで、日活の興行収入は、東映に次いで2位。とくに若者の映画ファン層を牽引していた。
自社製作再開から、わずか5年で2位まで上り詰めたのである。

敬称略
川原和博

docomo、au、softbankのフィーチャーフォンをお使いの方、docomoスマートフォンをお使いの方は下記リンクから配信中の楽曲をご覧になれます。
※一部の機種ではご覧になれません。
→赤木圭一郎

 昭和の青春ポップスはこちら

|

« 今週のイチオシ!~待つわ あみん~ | トップページ | 「昭和の青春ポップス」新ロゴマーク募集!! »

コラム」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日活100周年〜日活を想う・その2:

« 今週のイチオシ!~待つわ あみん~ | トップページ | 「昭和の青春ポップス」新ロゴマーク募集!! »