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日活100周年〜日活映画の舟木一夫

映画の観客動員数は、1958年(昭和33年)の11億2700万人をピークに、残念ながら減少の一途をたどる。
以下、
1959年=10億8800万人、60年=10億1400万人、61年=8億6300万人、62年=6億6200万人…と、5年間で4割以上も激減する。
そして、10年後の1972年には、1億8000万人まで落ち込むことになる。
ちなみに、製作本数は、1958年が505本、ピークは1960年で547本だが、62年には375本まで減ってしまう。
テレビの普及を迎え、映画産業は斜陽化していく。
そんな中でも、日活は、1959年から1964年まで6年間、興行収入2位をキープした。
前述のとおり、裕次郎が彗星のごとく現れ、アクション映画で旭や圭一郎が大活躍し、青春映画で小百合たちが観客を魅了した。
そして、もうひとつの存在が青春歌謡映画だ。
御三家と呼ばれた橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦、そして、三田明も含めた人気歌手のヒット曲を映画のタイトルに起用し、彼らを出演させた。
狙いは当然、彼らのファンを映画の集客につなげるため。
中でも、舟木一夫の人気は当時、群を抜いていた。1963年6月にデビューし、「高校三年生」が大ヒット。
早速、青春歌謡映画として大映によって映画化された。
2作目の映画は「学園広場」(山内賢、松原智恵子、田代みどり共演)。
日活が舟木を初めて採用した映画だ。
なんでも、大映が「高校三年生」に続く2作目の結論を出さず躊躇している隙に、ターキー(水之江瀧子)とホリプロ(当時、舟木が所属していた事務所)創業者の堀威夫が交渉して決めたらしい。
これを機に舟木は、日活映画への出演が一番多くなる。
主なものに、浜田光夫、松原智恵子主演「仲間たち」(1964)、山内賢、和泉雅子主演「あゝ青春の胸の血は」(1964)、山内賢、西尾三枝子主演「花咲く乙女たち」(1965)、舟木一夫の初主演といわれる「北国の街」(1965)、伊藤るり子、和田浩治の共演で「東京は恋する」(1965)、山内賢、和泉雅子共演「高原のお嬢さん」(1965)と、歌と同名映画のヒット作が続いた。
そして、舟木自身が日活に提案したといわれ、和泉雅子と共演した「絶唱」(1966)が大ヒット。
舟木との共演女優は、和泉雅子が多いが、「夕笛」(1967)など、松原智恵子とのコンビも4作ほどある。
監督は、柳瀬観と、西河克己の作品に多く出演した。
後年、柳瀬は「役者としての勘がとてもよかった」、和泉雅子は「歌手なのに役者としても人一倍勉強家」と、舟木について述懐している。
話はそれるが、「絶唱」や、小百合主演の「伊豆の踊子」は、西河監督作品で、後年、山口百恵、三浦友和共演のリメイクを作った。
これは、日活プロデューサーだった笹井英男が、百恵が所属していたホリプロに入り、西河監督のもとで製作したためだ。
さて、舟木一夫が日活で主役・準主役級で出演した映画は14本ほどある。
「舟木さんのロケを見物に来るファンの数は半端じゃなく驚いた」と、共演した西尾三枝子は振り返る。
ある意味、最後の日活スターであった舟木一夫。
しかし日活は、時代の流れには逆らえず業績は悪化。
1971年、これまでの路線を大きく変え、ロマンポルノというアダルト向けの作品を手掛けていくことになる。

敬称略
川原和博

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